ルッキンフォー

大村日記

1. Mirror

*テーマ:鏡


 クーラーが鈍い機械音をたてている。外が雨のせいなのか、それはまるで全力を出し切れずにもがいているような、惰性的な悲鳴に聞こえた。空調が効いていないというわけでは決してない。が、どういうわけかここに来てから僕の気は優れなかった。

 ぱたぱたと小走りに近寄っていって、彼女が身を屈める。そして、その棚の一番下の列をしばらく眺めたあと、一つを手にとり、僕に差し出した。

「これを」

「借りるの?」

「不満なの?」

 しゃがんでいたのが思いの外窮屈だったのか、彼女は立ち上がってから微かに息を漏らした。

「別にいいけど」

 僕は観ないよ。と目で言ってみる。

「ホラー嫌いだったっけ」

 目を丸くして尋ねてくる割には、随分とわざとらしい台詞だ。他にもレンタルDVDは沢山並んでいるのに、何故よりにもよってこんなに端の、見るからに禍々しいスペースに走り寄って行くのか。それが何のメタファーなのか僕には分からない。

「嫌いならなおさら観ないと」

「眠れなくなったらどうしてくれんの」

 大袈裟に眉根を寄せてみせた僕を見て、彼女はくつくつと笑った。それに伴って、小ざっぱりとしたボブショートの黒髪が揺れる。それは時々赤く反射して、健康的な彼女の表情によく映えた。

 僕はその表情がとても好きだった。


 彼女は二十七歳。ちょっと前まで旦那がいて、その生活があっけなく終わった丁度一ヶ月後に僕と出会った。

 というのは、彼女の自称だ。二十七にしては大分幼い顔立ちをしていて、一見するだけなら二十台前半で通せるくらいだと思う。黒より少し赤いストレートな髪は、長い首の真ん中あたりで綺麗に揃えられており、それがまた幼さに拍車をかけているのだろう。男と別れたばかりの頃はもっと髪が胸の位置まで垂れるくらい長くて、傷んでゴワついていることも気にしていないようだったのに。ふと、そんなことを思い出して、案外その方が好きだったのかもしれないな、とひとりごちる。「とにかく短くして」と彼女が言い、僕は言われるままそれを切り落とした。そのときはただ単純にボブショートが似合うだろうと思っていたが、ここに至って初めて、あのときの長い黒髪を恋しく思っている自分がいる。

 果たして男はそれに触れただろうか。傷んでいることに気づいただろうか。空想が意識を占めていく。そして、僕の知っている彼女といえば、好んでいるシャンプーの香りや、実は外側にハネやすい右の癖毛、前髪を上げると案外広い額だとか…そんなところばかりだ。


 ふいに空気が変わった、と確かに思った。

 彼女が観たいと言っていた映画を見つけて、ホラージャンルのブースからようやく遠ざかれると僕が胸を撫で下ろした矢先のこと。立ち上がって踵を返した彼女の視線の先。僕の位置からは棚の死角になっていたが、おそらく子供だろう。ぱたぱたと小走りに小さな影が動くのがかろうじて見えた。

 凝視していた彼女の視線が外れる。わずかに見開かれた瞳が何を映したのか、そこで少しだけ分かったような気がした。

「何……」

 声をかけようとした僕の声を振り切って、彼女が進行方向を変えた。そして間髪をいれずに歩き出す。レジは幸い混んでおらず、DVD一枚だけを手に並んだ彼女も、流れ作業のようにスムーズに処理されていった。

 彼女が心なしか急いで出て行こうとしている空気を、レジの娘は感じ取っただろうか。それともやはり機械作業のように、何の余念もなく、目の前の仕事に没頭しているだけなのだろうか。早く早く。人と人とがすれ違っていく景色にしては、あまりにも無機質だと思う。これでもしも観たいと言っていた映画が、ホラーではなく、ヒューマンドラマを描いたものだったなら、もっと彼女の心は救われたかもしれない。もどかしくジレンマを感じながら、僕は一瞬間そう思った。


 雨の止んだ後の東京の空はひどく澄んだ青空で、ガラス張りの巨大ビル群が屈折させる白い光が、外に出た僕の目を焼いた。彼女を見失いそうになる。

「みんな鏡を見てるのよね」

 彼女は胸を張って、姿勢を崩さずに、前だけを向いてそう言った。つかつかとサンダルのかかとが鳴る。僕はそれに促されるように歩む足取りを速めた。歯切れ良く動く彼女のふくらはぎが見える。僕の悪い癖だ。気がつくと、またいつのまにか俯いて歩いている。

「世間と私たちの隔たりはマジックミラーみたいになっていて。皆こっちを見ているようだけど、本当は鏡を見ているだけなの。誰も私たちのことなんて見てないのよ。あなたのその、情けない顔も」

 おずおずと顔を上げて見やったが、彼女は振り返らない。ただひたすらに前を向いて歩いている。

「幸せそうだなんだって言うけど、そんなこと他のやつらに分かるわけないじゃない。あなたは実は美容師でバイセクシャル、私には本当はバツが一つ、二人は愛し合っているけれど、結婚を考えるような仲じゃないって。そんなことを誰が知ってる?」

 信号が彼女の足を止めた。僕はその半歩手前で足を止める。彼女はすうっと息を吸い込んで、緩やかな動作で空を見上げた。

「若い男女が二人。きっと恋人同士。でもちょっと離れて歩いてる。『ケンカでもしたんじゃない?』ってね」

 でも実際はケンカをしたわけじゃない。これが僕らの定位置なのだ。少し前を歩くのはいつも彼女で、その後をついて行くのが僕。だから、彼女だって別に怒っているわけじゃない。

 負けん気が強くて、物事をいつも淡白に見つめている。それが元来の性格なのか、それとも終わってしまった恋が彼女をそうさせたのかは分からない。けれど、少なくとも僕が知っている彼女は、いつだって強気で、自分を守る術としっかりと歩んでいく足を持った人だ。だから、辛いなんて言わないし、ましてや寂しいだなんて言わない。だから、つよがりを言っているなんて秘密。泣いているなんて秘密。秘密。秘密。秘密。そうして何かに囚われていく彼女は、それでも僕にとっては孤高の人だった。


                 ***


 子宮奇形だと聞いている。それが原因で離婚した、とも。高校からの同級生で、結婚したのは二十三のとき。二人とも子供の誕生を何よりも楽しみにしていたというから、現実は残酷だ。

 人には様々な理由がある。様々な理由があるから、子を望まない親がいることだって不思議ではない。けれど現実世界はわずかに歪を抱えていて、誰かの事情や理由に関わらず、何食わぬ顔で僕らに差異を与える。お互いに理解が欠如していたとか、価値観に違いがあったとか、その他にも原因は考えられるが、それでも彼女は自ら子供の産めない体になったのではないし、もちろん相手の男が悪かったわけでもない。ならば運が悪かったと言ってしまうにも、二人は優しすぎた。無理をすれば、子供はおろか彼女ですら危険を伴う。まして罪悪感を一人で背負う彼女を目前にして、男が出した結論を僕は責められないだろう。たとえその男が、後に別の女の子供をつれてレンタルショップまで遊びに来ていたとしても、僕がそれを責めてやる権利はない。


 けれど、かといって彼女が全てを納得して諦めることはできない問題だということも分かっている。現に、今でさえこうして彼女は苦しんでいる。僕に過去を重ねたりしている。


「あなたに彼氏がいること、知ってるわ」

 ぽつりと彼女が言った。あのあと、借りてきた映画は僕の家で観ようと言って、連れて帰ってきたところだ。コーヒーを淹れてきた僕をソファ越しに振り返って、彼女が脈絡なく尋ねてくる。

「……そう」

 基本的に自分がバイセクシャルであるということを隠していたつもりはないので、驚きはしない。が、これまで特にその件について触れてきたことがなかったため、咄嗟に言葉の意味を量れず、思わず首をかしげる。

「顔も見たことないし、なんとなくだけど、ここに来るといつも雰囲気で分かる。男の人の空気。いい人そう」


 手先が器用だったから、美容師になった。小さい頃から、外で遊ぶよりは中で絵を描いたりものづくりをする方が好きな子だった。だが、自分の性別や性的趣向に疑問を抱いたことはない。そもそも、一言にバイセクシャルといってもその意味は非常に広く、自分が具体的に何にどうだからバイだ、ということも思わない。ただ、気がつけば、男とも女ともなく愛しいものを愛しいと思うようになっていた。それだけのことだ。


「これも二股っていうのかしらね。でも、不思議。そうだとしても、私は凄く穏やかな気持ちでそれを受け止められるの」

 言う彼女の表情に嘘はない。少し泣き疲れた痕が目の下に見られる以外、他は全て綺麗なままの彼女だ。

 長い髪の彼女が僕の美容室に初めて来たときのことを思い出す。思えば、あのときの彼女は今と同じ表情をしていた気がする。全てを飲み下して、悟って、受け入れている表情。しかし、今でも彼女は過去の自分に囚われている。僕の中に、男を映していたりする。

「結局、あなたにとっては同じようなものなのかもね」

「何が?」

「あなたのもう一人の恋人も、私も。『子供ができない』っていう点では同じようなものだわ」

 彼女の隣に腰を下ろし、じっとその表情を凝視する。穏やかな顔の裏側に、自嘲的な笑みを貼り付けているのが分かった。

 僕は彼女を確かに愛している。だからこそ、その目が何を求めているのかが分かってしまう。彼女は僕の中に、男の代わりを望んでいるのだ。だけど、僕は男とは違う。事情を知りながらも、子供を望んだりはしない。僕はあるがままの彼女でいて欲しいと願うのに、その願いはどうして彼女に届かないのだろう。

「引いた?」

「いや、引いてないけど、」

 言葉を濁す僕に対して、彼女は悪戯に首をかしげてみせた。間近に迫った赤い唇に、噛み付くようにキスをする。そして、口付けの合間に、独り言のように呟く。

「哀しかった」

 私、あなたのその情けない顔、好きよ。彼女はそう言って器用に口元を歪めて微笑んだ。

 

 彼女は子の誕生を望み、僕はただ彼女の健康を望んでいる。それらは本来つながるはずの想いなのに、僕らにとってはひどく矛盾を孕んだ行き違いのように思えた。つよがりを言っているなんて秘密。泣いているなんて秘密。秘密。秘密。秘密。そうして何かに囚われていく彼女は、それでも僕にとっては孤高の人だった。


 あなたを隔てるものが鏡なら、僕もあなたの鏡になろうか。愛しいものを愛しいと思うだけでは足りないのなら、僕はあと何をすればいいのだろう。

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