アパート 


 もうすっかり寂れている。

 中学一年生の頃……私はこのアパートに住んでいた。

 正確には職員寮。

 ほんの数ヶ月間、母と私と弟の三人で暮らした狭い部屋。

 四階建て、その三階。

 あれからもうずいぶんと年月が過ぎて、自分も成人し、仕事帰りの夜風と星空に誘われながらふらりと入ったこの脇道。

 丁字路にポツンと灯るたった一つの外灯に照らされて、気がつけば人気もないこの路上で私は見上げていた。

 深い夜の中にひっそりと浮かびあがる建物。

 いつの間にか封鎖され、放置されていたこの職員寮を。


 棄てられた建物にはペンキの塗り直しもない。

 雨ざらしの年月を全体に浮かべている。

 外灯の淡く弱い光を受けた壁には幾筋もの黒ずみが描かれている。

 あの頃ここで暮らしていたなんて想像できないほど、その姿は廃墟の寂しさを湛えていた。

 もう一歩近づいてみようとして、なんとなく半歩程度しか足が出ない。

 心寂しい懐かしさ……その中に、何だろう?

 さほど広くもない敷地を囲い、錠までも施しているフェンスのせいだろうか?

 ここにあるのは慎ましやかな思い出だけのはずなのに、こうして見上げる建物にはも封じこめられているように感じてしまう。

 深く沈黙したこの寮はもう、遠く昔に役目を終えているのに。


 どこか胸をざわめかせる感懐を抱きながら私は丁字路に沿うフェンスの外を回り込んでいく。

 角を曲がり、足元に延びる裏路地にコツ…コツ…とゆるやかな靴音を鳴らしながら。

 この先も次の外灯はだいぶ遠く、道の上に闇が淀んで感じられた。

 寮の横を通っていくと、ベランダ側が見えてきた。

 この道と同じ、南向き。

 一階のベランダの外は申し訳程度の庭があったが、今や伸び放題の雑草が生い茂っている。

 当然だ、手入れをする人間がいないのだから。

 四部屋ずつ並び四階建て。

 物干しもなく、明かりもないその光景は寒々しくて、思い出すら朽ちてしまいそうで私は顔を伏せた。


 しかしこの道を通るのはいったいいつ以来だろう……。

 両脇には家らしき家はない。

 右手は無人の倉庫の敷地が半ばを占めている。

 左手にはもう使われていない消防の小さな分署…固く下ろされたシャッターは人を救うことを諦めたかのようで、冷たく乾いて見える。

 その後に出てくるのは信仰の途絶えを感じる小さな神社。

 ただ、何本もの古木が鬱蒼と陰を生み、夜風を受けて葉擦れの音を奏でていた。ざわざわ、ざわざわ、と。

 こういう廃れた状態の方が神秘的で、霊的な存在を信じさせる力を持っている気がする。

 黒い傘にしか見えない木のさえずりを見上げながら、私はついでに視線を後ろへ伸ばす形で少し振り返った。

 本当にただ、なんとなく。

 自分が歩いてきたひどく暗い道の、その向こうにそびえる懐かしき廃墟を。

 そして……在るはずのないものを目にする。

 三階の一室に、明かりが点っていた。



 ……やめろ、という声がさっきから胸の中で聴こえている。

 私は、寮の前の道に戻っていた。

 先刻と変わらず一本の外灯だけがこの小さな一画を照らしている。

 私の足元に落ちる影は長く伸びて、寮の敷地に滑り込んでしまっている。

 やめろ、という声がもう一度聴こえた時、私は誰も来ないことを確認してフェンスによじ登っていた。

 数台分しか広さのない駐車場に着地した。

 ―――その瞬間だった。

 全身が、ざわりと怖気立った。

 生ぬるい悪寒が駆け巡った。

 本能が振り返ってフェンスに片手をかける。

 でも、見上げるといま越えたばかりのソレが何故かとてつもなく高く見えてしまう。

 登ろうとしてはいけない。

 背を向けてはいけない。

 何に……?

 反射的に身をひるがえしてフェンスに背中を預けた。カシャン、と小さく鳴る。


 目の前は……さっきと何も変わらない。

 両手で頬を一つ叩き、深く息を吐きだした。

 ただの寮。ただの建物。ただの廃屋だ。

 私は一歩ずつゆっくりと、正面の入口へ踏み出していった。



 背後から投げかけられる明かりが徐々に薄まっていく。

 反して眼前の闇が一歩ごとに濃く、深くなっていく。

 小さな入口の数歩手前で一旦足を止める。

 意を決して踏み入ったすぐ奥で、右手の壁に鈍い光が滑った気がした。

 近付くとそれの正体が判った。

 元は銀色だったのだろうけれど、汚れきってしまった郵便受けがぞろりと張りついている。

 一瞬、夜逃げされた家のようにたくさんの郵便物で溢れているかと想像した。

 でも何もない。

 受け口はぽっかりと黒い長方形を並べ、誰ひとり住んでいないことを示すその姿は空々しいほど冷たく見えた。

 不意に、その受け口に手を差し入れてみたい衝動が湧く。

 何か入っていないだろうか?

 右手の指先が、ひんやりとしたステンレスに触れ、真っ黒の長方形へと這っていく。

 その口の中へ、ほんの爪先が吸い込まれ…直後に私は手を引いた。

 明確な理由はないけれど、嫌な予感がした。

 

 一秒ごとにじわりと息苦しさが増し、心臓が大きめに脈打っている。

 やっぱり中止しよう。

 いい年してこんな冒険は要らない。

 もう引き返してフェンスを越えて見慣れた通りまで振り返らずに走ろう。

 確かに、頭の中でそう唱えているのに。

 あの三階に点った光が、何故か自分のためだけに灯されたもののように思えている。

 何故か、呼ばれているように思い、何故か、確かめなくてはいけないように思えて。

 私は郵便受けの前を過ぎて、すぐ左手の北側に現れた階段を見上げた。

 建物正面に出っ張って四階まで伸びている立方体。

 その中を二十段そこらの短い階段が折り返しながら収まっている…はずだが、余りにも暗過ぎて階段そのものすらほとんど見えなかった。

 私は誘われるように一段目をつま先で探した。


 たかだか二十段ていどを登るのにずいぶん手間取る。

 あの郵便受け直後から急に膨らんできた恐れ。

 一歩ごとに背後を振り向き、すぐに上を見上げ。

 そして一つ目の折り返しがすぐそこに来ると、不安で全身が冷えていくのを感じた。

 その完全な死角を覗きこんだ時、目の前の漆黒に何かが佇んでいたら……。

 あと一歩昇れば小さな小さな踊り場なのに、足が出ない。

 やっぱり嫌だ、戻ろう。そう決めて背後を振り返った。

 何か、気配を感じた―――。


 気がつけば三階の廊下に立っていた。

 呼吸が狂ったように激しく、肩が大きく上下する。

 ガクガクと四肢から起こる震えが制御できない。

 なんだったんだろう、さっきの気配は。

 いや、あれは錯覚に決まっている。

 廃墟と夜の恐怖心が作ったものだと頭では解かっているのに、しかし二階でも止まれずに私は一気にここまで駆け上ったのだ。

 深呼吸とは逆の浅く早い息を繰り返しながら、なんでこんなところに来てしまったのだろうと改めて後悔する。

 こんなに怖くて堪らないのに。

 でも、今すぐこの階段を下りるなんて考えたくない。見下ろせば上ってきた時よりも闇はさらに深く感じられ、まるで奈落の底へ繋がっているようだ。

 

 佇むこの廊下は階段のように漆黒を思わせるほどではなく、表の道にあったあの一本の外灯の残り火がほんの微かにだけ陰を薄めている。

 それがうっすらと不気味に浮かびあがらせる、四枚の無機質なドア。

 私は裏路地からベランダ側に見た光景をもう一度思い出した。

 明かりが点っていたのは端っこ……この正面側からは左奥のあの部屋。


 外灯の貧弱な影響を受けているのは、私の胸元より上の高さだけだ。

 それより下は廊下の壁に阻まれて完全な闇を並々と湛えている。

 自分のつま先はおろか、手のひらも持ち上げなければ見えやしない。

 ここまで来たからには確認するしかない……決意というより退路を失っただけの気持ちで、お風呂のように満ちた暗黒に鉛のような足を踏み出した。

 その瞬間だった。

 胸の中でサイレンが鳴った。

 絶対にこの先へ進んではいけない、という激しい警鐘。

 これまで経験したことのないような、底知れない不吉。

 足が硬直した。

 なのに、私の視線はあの奥のドアから剥がせない。

 そして信じられないことに、数秒固まっていたこの足が、命じている自覚もなく前へと出ていく。

 こつん……

 こつん……

 我が身が、自分のものではないように感じた。

 まるで火に飛び込む羽虫達のように確実に前へ突き進んでいく。


 ついに、ドアの前に立った。

 私はしばらくただ立ち尽くす。

 酷くサビの浮く、赤茶けたドア。

 あの光は本当に点いていたのだろうか?

 幻覚でも見たのではないだろうか?

 どうして自分はこんなところに立っているのだろう?

 再び追いついてきた理性が問いかける。

 封鎖された敷地に入ったのはもしかして犯罪なのではないだろうか?

 そんなことを考えている最中なのに、一方で右手はチャイムへと持ちあがっていく。

 人差し指が、それをぐっと押しこんだ。


 ―――鳴らない。


 鳴るわけない。

 当たり前のこと。

 次にこの右手は、ドアに付いている郵便受けへ伸びる。

 その蓋を押した。

 ひゅぅ、と微かに息を呑んだ。

 奥からぼんやりと漏れてくる白味……本当に明かりが点っているんだ。

 そして、もうまるでコントロールを外れているこの右手は、ドアノブへと伸びていった。

 冷たいソレを握った瞬間に、全身の細胞が主人に最後の警告を絶叫した。

 吐き気がするほど強烈な悪寒に総毛立ち、ぶわっと噴き出した汗が幾筋も頬や首を流れる。

 “本当にやめて”

 “絶対にやめて”

 “決して捻ってはいけない”

 “決して開けてはいけない”

 もう心の声などとは思えないほどはっきりと耳の奥で聴こえる。

 私の理性はその警告を全身全霊で承認していた。

 ここが最後の一線。

 今なら逃げられる。

 何から?

 分からない。

 分からないけれど、絶対にこれ以上は―――


 ―――開かれたドアの向こうに、細く短い廊下があった。


 私はドアを全開にしたまま、土足の右足で一歩踏み込んだ。

 朽ちかけの、埃に埋め尽くされたフローリングが、ミシリと小さな音を立てた。

 左足が二歩目を踏み出す。

 明かりはあと数歩先を左に曲がったところから漏れている。

 以前住んでいたのはこの階の反対側の部屋。

 内装が対称になっているだけならあそこを曲がるとダイニングキッチンで、右手にたった一つの部屋があるはず。そこがベランダに面した部屋……明かりの源に違いない。

 誰がそこに居るのだろう?

 廃墟にホームレスが入り込んでいるという話は聞く。

 もっと危険な犯罪者が隠れ家にしている可能性だってある。

 麻痺した恐怖心で、また一歩、埃の海へ靴を下ろした。


 ……埃?


 下ろしたばかりの右足をそっと持ち上げる。

 まっさらな新雪のようなそこには、くっきりと足跡がついていた。

 たった、一つだけ。


 背後で金属が軋むような音がした。

 振り返ると、ドアが静かに閉まるところだった。

 誰にも触られていないのに。

 ただ見つめる私の前で、完全に閉じたドアの鍵が、


 真っ白になった脳をそのままに、私はあと三歩を無造作に進め、廊下を折れた。

 そこは薄暗いダイニングキッチン。

 埃まみれのステンレス台と、二つ並んだコンロ。

 右手に視線を向ける。

 戸の外された大きな入口。

 腐った畳を踏む。

 みし…みし…と音を立てながら、部屋の中心に立った。


 押入れのふすまもなく、何一つないガランとした六畳間。

 ここには自分以外に誰も居なかった。

 頭上を見上げた。

 四角い笠の中には、蛍光灯なんてなかった。

 部屋に満ちる灯りが呼吸をするように一つ、瞬いた。

 あれほど叫び散らしていた胸の警鐘はいつの間にか完全に止まっている。

 その声なき声は言っていた。

 もう、無駄だ……と。

 


 少し離れた通りから見える廃屋の三階、右端に浮かぶ窓ガラスにほんの一瞬、ペンキ缶をぶちまけたような紅が散った。

 直後に光は蝋燭を吹いたように消え、棄てられた寮は夜の奥へと溶け入った。

 壊れて点らない外灯すら整備されないまま、もうずっと人々から忘れ去られている、その漆黒の裏路地へと……。

 

 

 

 

 

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