コックローチの見る夢 


 黒曜石のように黒くて艶やかな体。

 仲間はそう言って僕を讃えてくれた。

 鳥のように華麗に飛び、光のように素早く駆ける。

 皆は僕を英雄のように扱ってくれた。

 

 でも、今の僕は自分が嫌いだった。

 

 10日ほど前。

 夏の盛りの暑い日、この家に潜り込んだ。

 ここには僕以外の仲間は一人もいなかった。

 食べ物もそんなにないし水回りもしっかりしている。

 暑さを凌ぐようにふらっと舞い込んだけれど早々に出ていこうかと思った。

 そして台所の流しを降りようかと思った時……犬が現れた。

 

 大きい。

 僕から見たらとてつもなく大きい。

 でも犬にしたら小さい方だとは思う。

 それが俊敏さにつながるから僕にとってはむしろ脅威だ。

 そして何よりまずいのは、向こうが完全に僕に気付いてしまったこと。

 咄嗟に身を隠したけれど間に合わなかった。

 くんくんと匂いを嗅ぎながら、下をうろうろしている。

 

 侵入経路は一番遠い部屋の窓。

 表通りに面していて少し開けてあった。

 家の人は出かけているみたいだけれど、犬がいるのは気付かなかった。

 こんなピンチは初めてだ。

 鳥のように華麗に飛び、光のように素早く駆ける…

 そんな風に謳われていた僕だけれど…果たして通用するだろうか?

 

 しばらく息を殺していたけれど、犬はそこから離れない。

 散々迷った末に意を決して脱出を試みることにした。

 ぐっと脚に力を込め、跳び上がる勢いに重ねて羽を広げる。

 まずは隣のリビングを目指して、と思ったら犬が凄い勢いでジャンプしてきた。

 咄嗟に方向を変える。

 紙一重で凶暴な口が閉じる。

 大慌てで流しに戻った。

 心臓がばくばくと暴れて治まらない。

 

 あまりの恐ろしさに、もう一度挑戦する勇気はとても持てなかった。

 


 数日が経った。

 キッチンの片隅で何とか隠れてやり過ごしているけれど、犬は常に僕を狙っているようだった。

 しょっちゅう嗅ぎまわっているし、流しを見上げて吠えてくる。

 せめてもの救いは家の人が何かを訊ねても答えられないこと。

 人間に見つかったら最後だと仲間が言っていた。

 犬はここまでは上ってこられないみたいだから心配はないけれど、寝る時も台所に張り付いているから怖くて仕方ない。

 

 それにしても……少し羨ましかった。

 

 あの人間はこの犬のことを本当に可愛がっている。

 朝起きたときも、夜寝る前も、何処からか帰ってきたときも、挨拶代わりにスキンシップをしている。

 あの恐ろしい犬がひっくり返ってお腹を撫でられていたり、喉をこちょこちょされて目を細めたり、ペロペロとキスをしたり。

 ご飯も水も欠かさず貰えるし、食べているときはずっと優しく頭を撫でられている。

 人間や犬の表情なんてよく分からないけれど、とても温かな雰囲気を感じる。

 僕は狭くて暗い隅っこに隠れながらそれを眺めていた。

 もしかしたらこういう時こそ逃げるチャンスなのかもしれなかった。

 けれど犬が僕に反応して暴れたらこの穏やかな空気が壊れてしまう。

 僕はなんだか、それをしたくなかった。

 

 人間はなんで僕達を嫌うんだろう?

 捨てたご飯でも他の生き物にはあげたくないのかな?

 自分達が認めた生き物しか近くに居させたくないのかな?

 単に嫌いな見た目なのかな?

 仲間達が綺麗だと褒めてくれた黒くて艶やかなこの体も。

 長くてスマートで羨ましいと言ってくれた自慢の角も。

 一生懸命鍛え抜いた強い脚も。

 蝉にだって負けない羽も。

 

 僕がもし、あのひらひらと舞う蝶々だったら。

 鈴虫のように澄んだ歌を歌えたら。

 天道虫のように可愛かったら。

 今もそこで眠っている犬のように優しくしてもらえたのだろうか……。

 

 10日目の今日。

 僕は賭けてみることにした。

 もしかしたら、この人間なら僕にも温かく接してくれるかもしれない。

 犬にご飯をあげているとき…ゆっくりと隠れ家から歩み出てみた。

 恐る恐る流しの上から彼らを眺める。

 

 犬が気付いて、唸った。

 それにつられて顔を向けた人間は悲鳴をあげると、近くにあった紙を丸めて慎重に振り上げた。

 二人の敵意がハッキリと感じられる。

 あの穏やかな空気は跡形もなく壊れてしまった。

 

 容赦のない強さで叩きつけられた紙筒を必死で避けて、リビングへと飛ぶ。

 眼下を犬が追いかけてきて、壁で休もうとすると飛びついてくる。

 僕はもうパニックに陥り、入ってきた時の部屋がどっちの方向か分からなくなる。

 人間が缶のようなものを持ってくるとその先から変な風を噴きつけてくる。

 息苦しくなって慌ててカーテンを離れた。

 

 悲鳴と、紙筒と、毒の風と、犬の暴力が飛び交う中を、痛みに耐えながら必死で行ったり来たりする。

 毒のせいだろうか、胸の中が引き裂けるように苦しくて、ポロポロ涙を降らせてしまう。

 やがてあの窓に辿りつくと、襲いかかる犬の爪を避けて間一髪で外に逃げることができた。

 

 家の中からはまだ荒々しい空気が漏れてくる。

 僕はふらふらしながら少しでも遠くへと這った。

 

 暑い日差しがアスファルトを焼いている。

 ゆらゆら立ち上る陽炎をかき分けながら人間が行き交う。

 街路樹の幹で蝉がみんみん鳴いている。

 花の上を蝶々がひらひら舞っている。

 鳥は本当に華麗に飛んでいて、光は真っ直ぐ自分の道を曲げずに降り注いでいた。

 

 どれも羨ましくて。

 でも僕はどれにもなれない。

 僕はやっぱりコックローチなんだ。

 人間には好かれない。

 手の届かない夢を見るのはやめよう。

 その代りにもう少しだけ、自由に生きていくことにしよう。

 命があればどこかに幸せもあると思う。

 きっと、それでいいんだ。

 それでいいんだ。

 

 

 

 

 

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