SNOW STORM 

 

 この北極の氷がけだす音。

 その恐ろしい叫びを聞きながら、私はシロクマの背に乗って頻発するクレバスを飛び越え氷から氷へと渡っていく。


「―――あ、あれは無理だよ! クロ止まって!」

 しかしクロは私の声で逆に速度をあげた。

「大丈夫だ! 俺の力を信じて掴まっていろ!」


 氷が崩れ出そうが北極は北極、吹きつける風は私にそれ以上口を開かせず唇も睫毛も凍りつかせていく。薄っすらと開いている瞼の向こうに、これまでで最大の亀裂が迫っているのが見えた。

 それは大地が抜け落ちたような。

 白く巨大な悪魔がガパッと口を開けたような。

 こんなのもうクレバスなんかじゃない… きっと、世界の果て……


(もうダメだ―――!)


 ダンッ!

 跳躍の瞬間の振動がひと際強く全身を打ち、そしてぎゅっと瞑った眼の奥で私は無重力の永遠を感じる……

 いま自分の下には目の眩むような空白と、ダイヤモンドのように硬い海面が在るんだ。

 …いや、違う。

 私の下に在るのは、クロだ。

 私の父に母親を撃ち殺されたクロ。

 同時にその母親の最後の爪で父を喪った私が、一緒に生きていこうと誓った生まれたての小熊。

 観測所のそばで私と共に育ち、いつしか互いの言葉を理解し合うようになった奇跡の白熊。

 上手に魚を獲る姿も、アザラシと喧嘩する姿も、返り討ちにあって逃げ出す姿も、全部鮮やかに憶えている。

 ただ真っ白いこの世界で、クロと過ごした時間だけがこんなにも鮮やかな色彩で刻まれている。

 それはきっと…愛しさの色なんだ。

 突然のクレバスに呑み込まれた観測所とおじさんおばさんお兄さんお姉さん。クロが助けてくれなければ私もあの時死んでいたんだ。

 無重力が終わろうとしている。

 急速に私達を引き寄せ始める地球。

 その命を奪うと分かっていても抱きしめようとする母なる海。

 いいよ。

 クロとなら、いいよ。

 このまま貴方の凍りつく背中を温め、その背中で凍りつく私の体を温め返してくれるなら。

 今日まで、本当にありがとう。


「―――私、クロとなら一緒に死んでもいいっ……」


 張り付いた唇が裂ける痛みを超えて、私は最後の想いを叫んだ。

 次の瞬間、全身が強烈な振動に襲われた。

 激突し合う互いの肉体。跳ね返される。離れたくない……!

 クロの筋肉の硬さに叩かれて、四肢に駆け抜ける痛みと瞬時に失った呼吸に、私は死の瞬間を知った。


 ……おかしい。

 海面まで早すぎた気がする。

 何より、私…死んでいない?


 まだままならない呼吸と、ずきずきと痛む全身を感じながら、私は薄っすらと瞼を開いた。凍りついた睫毛がパキパキと壊れていく。

 そこには、私が今日まで生きてきた広大な氷の世界があった。

 茫然としながら振り返る。

 すぐそこに世界の果てがあった。ううん、次の世界の始まりが。その先には、吸いこまれるような谷と、対岸に置いてきた過去の世界が冷え冷えと視界を埋め尽くしている。

 ぐらり、と私の大地が隆起した。

 白く凍った毛が再び揺れ始める。今度はゆっくりと、優しいリズムで。

 耳に届いてくる苦しげな呼吸。それでも、私を乗せたまま前に踏み出すことをやめない背中。

 そして彼は呼吸を切ると、私にしか分からない言葉で言った。


「……俺は、お前となら一緒に生きていきたい」


 もう、何も返せる言葉が無い。

 唇がまた張り付いてしまったからでも、喉の奥が切り刻まれたように痛むからでもない。

 私はクロの毛の中に顔を埋める。

 泣くのを我慢するために、何一つ声に出来なかった。

 だってこの極寒の世界では、涙は流してはいけないから。

 

 

 

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る