君と僕 


 いた―――。

 こんな事って信じられなかった。

 今日、たまたま壊れてしまっていたライト。

 数メートル先も見えない夜の中。

 その暗闇に隠されていた君。

 ハンドルを握る僕の両手に

 ペダルを踏み込む僕の左足に

 不安定なこの自転車を押し上げるだけの

 硬くて

 でも柔らかい感触。

 こんなにも大好きだった君の身体。

 きっと君も僕の事を大好きになってくれていたから

 だからいつものように

 だから安心して僕の前に歩み出てきたんだね。

 

 やっと本当に友達になれたはずの

 真っ黒い毛に覆われた仔猫の細い身体を

 僕は

 抱いて

 泣いた。

 

  ~

 

 曲がり角。

 踏み込むペダルの重さに比例して強く照らしだすライト。

 夜の闇を拭き取るように流れるその中に

 不意に過ぎった黒。

 僕は咄嗟に両のブレーキを握り込んだ。

「君か、危ないよ」

 そう話しかけながらサドルを降りてスタンドを立てる。

 もう迷わずに僕のズボンに擦り寄ってくる仔猫。

 

 出会ってから明日でちょうど一月になる。

 今日はあげられる食べ物もないけれど

 しゃがみ込んでそっと撫でてあげると君は喜んだ。

 その頭は僕のてのひらに隠れるくらい小さい。

 薄い喉元をくすぐられると気持ちよさそうに音を鳴らして

 何かをねだるように僕の手をなめてくる。

「今日は何もないんだ、ごめんね」

 その言葉はきっと判らないだろうけれど。

「明日持って来れたら何か持ってくるから」

 今夜、僕は一方通行かもしれない約束をした。

 

 ~

 

 仕事帰り。

 終電を使って地元に降り立つと

 預けていた自転車を引っ張り出して通路を押す。

 もう管理人さんもいない自転車置き場。

 蛾が一匹まとわりつく蛍光灯に照らされた『場内走行禁止』の文字を読みながら

 僕はその床の上で少し助走をつけて

 滑りだした自転車のペダルに足を掛けるとサドルに跨った。

 道路に出ればすでに行き交う車も無く

 僕は迷わずに道を横切っていく。

 右のつま先で小突くように点けたライトが縁石を照らし

 僕は対岸の歩道に入り込んで

 線路沿いの道を夜風に招かれながら加速していく。

 三分ほども走るといつもの曲がり角を右に折れる。

 少し進んだところで

 間隔の広い街灯のちょうど中間辺りに差しかかった僕の数メートル先を

 小さな影が素早く横切った。

 僕はブレーキを握ると自転車の動きを止め

 跨ったそのまま彼へと顔を向ける。

 暗がりの中にキラリと輝く二つの瞳が

 向こうも僕を見て佇んでいることを示していた。

 

「今日はパンがあるんだ。食べる?」

 もう三週間ほど経つ君との交流。

 毎日見かけるわけじゃないけれど

 最近はこうして呼べば君も警戒を解いてそばに来るようになった。

 バッグから取り出したビニールにも驚かなくなって

 君はあんぱんが現れるのを期待を込めて見上げているように見える。

 虫歯になると困るからと

 僕は周りのふわふわとしたパン生地だけを千切って

 右の手のひらと一緒に差し出す。

 君は小さな頭で覗き込むようにして

 小さな口でそれを貪るように食べる。

「しまった……」

 今日は疲れて炭酸ジュースを買ってしまった。

 また水を買っていればあげられたのに。

 パンだけ食べて喉が乾かないか少し心配になりながら

 僕はあげられるだけの生地を

 君が求めるままに。


 たとえば

 何か名前をあげたらどうだろう。

 君は僕に呼ばれることを喜ぶだろうか?

 

  ~

 

 ひと際暑い日の

 まだ熱の残る蒸した夜。

 自転車を漕ぐ僕は片手でバッグの中をまさぐり

 指先に触れたペットボトルのぬるさに手を引っ込めた。

 電車に乗る前に買ったそれはもう飲む気を起こさせない。

 家までそれほどあるわけじゃない。

 僕は乾いた喉をそのままにして帰路を辿ることに集中した。

 

 街灯の下にうずくまっている君を見て

 先日のことを思い出しながら僕は自転車を止めた。

 君は少し身を起こすと明らかな警戒心を抱く。

 僕は近づくよりもまずバッグに手を突っ込み

 先刻見捨てたばかりのミネラルウォーターを取り出してキャップを回す。

「水飲む?」

 左の手のひらに溜めて誘うように差し出した。

 この半月強で僕らは他人から知り合いくらいにはなれた気がする。

 そんな風に抱いていた期待に応えるように

 君は街灯の下の白い世界からゆっくりと離れ

 僕の目の前に来ると一口ずつベロで水をすくう。

 注ぎ足すと小さく驚いたけれど

 君はまた僕の手のひらの窪みから喉を潤す。

 僕はそれを見つめながらただ笑顔を貰う。

 一日の仕事疲れがゆっくりと解けていく気がした。

 

  ~

 

 お昼時の強い日差しの下。

 遅番で仕事に向かう僕の視界に黒い仔猫が過ぎる。

 三日前の晩にちょっとだけ交流を持てた猫だと気付いて

 僕は自転車の速度を落とすと鳴き真似を投げ掛けてみた。

 君はぴくりと足を止めて僕を振り返る。

 思わず手を振った僕を不思議そうに見上げたまま。

 そんな君に見送られて僕は今日一日を頑張ろうと胸に誓う。

 線路沿いの道へ合流する曲がり角で一度振り返ってみると

 君はもうあの街灯の傍から姿を消していた。

 出会いからもうすぐ十日経つことをなんとなく思いながら

 追い越していく電車を見上げて少しだけペダルに力を加えた。

 

  ~

 

 今夜の自転車置き場では隣り合う自転車とハンドルやペダルが絡み合うように接触している。

 それを半ば力づくで引き剥がしながら

 いつか自転車を壊すか壊されるかしそうだと僕は不安も覚えた。

 道行けば脇に現れるアパートも一軒家も一日の灯りを落とし

 多くの部屋がもう眠りに就いていることを感じながら

 僕は父と母も眠っているであろう我が家を目指して自転車を漕いでいく。

 夜風は生温くて肌触りは今一つよくない。

 じっとりと滲んだ汗もまるで乾く様子を見せない。

 ポロシャツの襟元を掴んでパタパタと仰いでいると

 ライトの弱い光を映えさせて地面の近くに二つの光が瞬いた。

 直感的に理解したのは

 この前出会ってからすでに二度は見かけたあの猫だ。

 子供の猫。

 真っ黒で

 まだしなやかとは言えない身体付きの

 細いばかりの。

 

 自転車を止めた僕はスタンドで支えると

 本体から手を離しバッグの口を開けると中を漁った。

 食べかけでビニールを折り曲げていたコッペパンを取り出し

 中身を少し千切ると一メートルほど前の地面に置いてみる。

 そして僕自身は二歩下がってしゃがむと見守った。

 君が食べてくれないかと。

 もし心を許してくれたらその柔らかそうな毛を撫でてみたい。

 辛抱強く待っていると君がゆっくり踏み出してくる。

 最大限の警戒心と

 抑えきれない好奇心と

 そして食欲と。

 息も殺すように見守っている僕の前で

 君は小さな範囲にちりばめられたパン粕に口をつけた。

 そのまましばらく見つめる僕の前で

 君はそれが食べ物であることを安心と共に理解したのか

 夢中で啄ばんでいく。

 ようやく警戒心も解けたかなと思って僕は手を伸ばす。

 その指で君の小さな頭に触れられたのはほんの二秒もなかった。

 線路の方から曲がってきた別の自転車に驚いて君は弾けるように離れてしまった。

 女の人らしきシルエットをしばらく見送った後

 僕は君がもう近づいて来てくれないことを悟って自分の自転車にまたがった。

 親代わりにはなってあげられそうもないけれど

 そのうち友達にくらいはなれたらいいな

 大きな瞳に見つめられながらそんな風に想った。

 

  ~

 

 高くて

 細くて

 可愛らしい鳴き声が耳に飛び込んできた。

 暑くなり始めた初夏の夜

 僕はいつもの帰り道で自転車の速度を落とし

 鼓膜を震わせたその愛らしい声を探して視線を巡らせた。

 空き地から出てきた小さなシルエットが街灯の下に入るのを見かけ

 僕はペダルの上から足を外すとアスファルトにつま先を着いていた。

 夜の闇に解けてしまいそうな黒。

 ハンドルよりも細そうな四肢。

 弱々しい鳴き声。

 舞台に上がるように街灯の白円の中に現れた幼い猫。

 二つの黒い瞳に光を映し込みながら

 僕の二つの瞳を射ぬくようにしてひたすら見上げている。

 

 僕はもうそれなりの年齢なのに、まだ守るものを持たない。

 誰かに必要とされた記憶もあまりなく

 誰かを必要とした記憶もあまりない。

 趣味らしい趣味がなくて

 夢なんて小学生の頃に何処かに置いてきてしまった。

 今はただ、何のためなのか定かではないままに仕事へ向かい

 大した充実感も覚えないまま家へと帰る。

 自分を無価値と断ずるほど劇的な挫折も知らなくて

 でも何か一つでも可能性を見出せるほど自分に期待感は無くて

 そして僕は僕自身を愛していない。

 心は乾き続けるばかりなのに

 そんな事は何も僕に限った特別な話じゃないと知っているから

 いじけるほどのエネルギーも無いまま日々を浪費して生きている。

 その挙句

 この下らない心は

 こんな夜道で出会ったちっぽけな存在にすがろうとしているのだろうか?

 

 その鳴き声を愛らしいと感じた時なのか

 その幼すぎる姿に儚さを感じた時なのか

 僕はもしかしたら自分のような弱さを道端に見つけた気がして足を止めたのかもしれない。

 でも

 一瞬後に紡ぎ合った瞳は

 黒く

 円く

 真っ直ぐで

 生きようという意志に淀みのないものに見えた。

 僕はたぶん

 自分より弱くて

 でも自分より強い命をそこに感じてしまった。

 

 すぅっときびすを返して再び暗闇に戻っていく君を見ながら

 僕は居た堪れない気持ちを抱きながら

 少し、憧れも抱いた。

 明日も会えたら……と思った。

 

 まだ生まれて間もなさそうな君はどんどん成長していくだろうね。

 それを見守ることが出来たらいいな。

 そんな君から僕は何かを貰えそうな気がする。

 そんな君に僕も何かを与えてあげられたらって……滑稽かもしれないけれど、少し想ったんだ。

 

  ~

 

 ちょうど一月前の出会いを思い出しながら

 小さな身体をそっと抱きしめながら

 一生懸命考えた君の名前を僕は繰り返す。

 謝る言葉よりも何よりも

 呆気なく行き場を失くしてしまった、一番与えたかったものを、ただひたすら……。

 

 

 

 

 

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