屋根裏鼠と風見鶏 

 

 三角屋根の一軒家。

 二階の部屋の、おでこの辺りにある小さな窓。

 そこから小さな小さなねずみが一匹、毎日外を眺めていました。

 彼は憧れていたのです。

 外の景色と風の感触を知る、あの風見鶏に。


 三角屋根の一軒家。

 二階の部屋の、おでこの辺りにある小さな窓。

 その外で一羽の風見鶏が、毎日すぐそこの屋根裏部屋を想っていました。

 彼は憧れていたのです。

 自由に動くということを知る、あの小さな小さな鼠に。


 ある日、鼠は小さい心臓から勇気を振り絞って、薄い窓硝子越しに風見鶏へ声を投げかけました。

「鳥さん、鳥さん、今日も風を感じますか?」


 風見鶏は横を向いたまま、少し驚いた様子で答えました。

「ちゃんと感じているよ。こうして西の空を向いているでしょ?」


「本当ですね。どんな景色が見えますか?」


「沢山の屋根だよ。見渡す限り続いているんだ」


 それはどんな光景だろう……鼠は一生懸命想像しました。彼が見たことのある屋根は、向かいの家の赤茶色の三角だけ。

 あの浅く尖った姿がいっぱい犇めいている。

 とても不思議な赤茶色の世界を、屋根から屋根へ思う様走り続ける自分が目に浮かびました。

「素敵ですね。少し怖い気もするけれど、素敵です」


「そう? そうかな…私には分からないよ」

 風見鶏はとても寂しそうに言います。


「どうしてですか? 貴方の場所からは広い景色が見える。いっぱいの屋根や、この空の先だって。風の感触を知り、匂いを知っている……とっても羨ましいです」


 彼の言葉を聞いた風見鶏は思わず左右へ首を振りたくなりました。でも風がそうしなければ彼は何もできません。

「確かに私は君より広い世界を見ている。そして風の温かさや冷たさも知っているし、太陽や雨の匂いもよく知っている。でもね、私はこの場所からほんの少しも動けないんだ。空がどんなに広くても、風がどんなに強くても、本当の鳥達のように舞い上がることは出来ないんだ」

 風向きが少し変わり、彼は緩やかに窓へと顔を向けました。

「君はいつも自分の足で動ける。自分の意思でその窓辺に立っている。その自由が私にはとても羨ましいんだ」


 鼠は小さな胸を痛めました。

 それが彼の為の痛みなのか、己の為の痛みなのか、自分でもよく分かりません。

「僕はもう他の場所へは行けないんです。隠れている間に抜け道は全部塞がれてしまいました。かじっても硬くて歯が負けてしまいました。そのうちこの部屋で死んでしまうでしょう」

 ひんやりと冷たい窓硝子に鼻を押しつけます。

「閉じ込められている僕には貴方の方が自由に見えたんです」


 また風向きが変わり、風見鶏は窓に背中を向けました。

 世界を見ることが出来ても、からかうように戯れる風任せにくるくる回るだけの自分。

 どんなに動き回れても、区切られた薄闇の中からは飛び出せない彼。

「自由って、なんなんだろうね」

 静かに呟いた声は、風に流されて散ってしまいました。


 あれから何日か経ったある日、鼠は窓硝子の震える音に目を覚ましました。

 激しい風が吹きつけ、降り注ぐ雨が幾筋も伝い落ちています。

 それはとても大きな嵐でした。

 彼は恐怖に怯えながら窓に近づくと、硝子に鼻を押しつけて外を見ました。

「鳥さん!!」


 風見鶏は今まで経験したことがないくらいに激しく回っていました。

 ぐるぐるぐるぐる

 ぐるぐるぐるぐる

 ひっきりなしに変わる風向きのせいで狂ったような動きをしています。でももちろん彼の意思ではありません。

「…鼠くん! そこから…! 離れた方が…! いい!」


 あっちを向いたりこっちを向いたりしながら必死で話す風見鶏に、鼠はなおも鼻を寄せます。

「鳥さん頑張って! 負けないで!」


「駄目だ! 離れるんだ! 離れ……!」

 怒ったように叫んだその時、風見鶏を繋ぎ止めていた根元が遂に折れてしまいました。

「うわああああ……!!」


 一気に空へと吸い上げられていく風見鶏。

 目を丸くして見上げていた鼠のすぐそばに、何かの破片がすごい勢いで飛び込んできました。

 強烈な音と共に砕け散る硝子。

 危うく巻き込まれそうになった鼠は全速力で物陰に避難します。

 ごうごうと吹きこんでくる雨と風。

 散らばっている硝子は鋭い輝きを放ち、押し込められていた沢山の物はみるみる濡れていきます。

 階下で人間が慌ただしく動き、少しすると誰かが床の扉を開けて入ってきました。

 見つからないように物陰から物陰へ移りながら、鼠は風見鶏のことを想いました。

 これが彼の望んでいた自由だったのでしょうか。

 真っ暗な空へと連れ去られていくあの恐ろしい光景が眼に焼き付いて離れませんでした。


 翌日、嵐の去った空は、悪戯を詫びて舌を出す子供のようにきらきらと晴れ渡っていました。

 嵐のお陰でようやく屋根裏部屋を逃げだせた鼠は、人間に見つからないように這い上がった三角屋根のてっぺんから、濡れて輝く世界を呆然と見つめていました。

 想像していたような赤茶一色の光景ではありません。

 白も、青も、黄色も、緑も、茶色も、様々な色に溢れた屋根が見渡す限り広がっています。色によって太陽の照り返しが違い、不思議な明暗や濃淡が大地を彩っています。

 東の地平には薄っすらと連なる水色の山影。

 西の彼方には青に無数の白がきらめく鮮やかな海。

 そして、見上げる空は全てを包み、何処までも、何処までも美しく広がっていました。

 その中を舞い踊るたくさんの翼たちは本当に気持ちよさそうです。

「鳥さん……」

 鼠の呟きは、初めて感じる風の優しさに溶けていきました。

 自由とは、安全と引き換えのものでした。

 風見鶏はあの荒れ狂う風にどこまで運ばれ、そして今頃どこに横たわっているのでしょうか。

 遠い街角、深い山、海の水面……そんな独りぼっちの場所でもう命を終えてしまったかもしれません。

 自分もまた、このまま自由を望むなら明日すら迎えられる保証はありません。


 それでも……

 美しい景色を眺めながら鼠は想います。それでも、今日には価値があると。

 風見鶏は嵐の空の中できっと、僅かでも夢を叶えたに違いありません。

 自分もほんの僅かしか味わえないかもしれないけれど。

 最後には踏み出したことを後悔するのかもしれないけれど。

 あの小さな屋根裏部屋で迎えるはずだった安全な死を捨てて、この広大な世界で危険な生を迎えてみようと胸に決意しました。

「鳥さん、僕も行くよ!」

 昨日まで彼がいたその場所に宣言し、三角屋根の上で鼠は果てしない世界へと走り出したのでした。

 

 

 

 

 

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