いいわけ 

 

 まさかこんなことになるとは……それがお互いに共通した想いだっただろう。

 彼は部屋で出掛け支度をしていた時、そして手術台の脇に膝をついている今この時。

 彼女は冷たい道路の上で携帯電話を握りしめていた時、そして手術台の上で息を引き取る直前に。

 

 彼はとても律儀な男だった。何よりも時間に厳しく、約束を守ることに人一倍誇りを持っていた。

 彼女はルーズな人間だった。約束を忘れる事はないけれど、何事も細やかに守ることは苦手だった。

 そんな二人は、その点に際して諍い合うことも間々あるものの、短所長所含めてお互いを知り心通じ合う確かな恋人だった。

 

 必ず週に二度、彼らはデートをしていた。水曜日の夕食を共にすることと、週末に朝から逢うこと。交際を始めてから二年弱、この約束が破られたことは一度もなかった。

 ただ、そこに付随して一点、必ず破られている約束がある。

 大通りから一つ裏に入った閑静な交差点で、彼が常に待ち合わせの五分前には現れるのに対し、彼女は常に五分以上の遅刻をするのだった。

 それは彼が何度叱っても直らない彼女の欠点。同時に、何度繰り返されても慣れることが出来ない神経質さは彼の欠点とも言えた。

 

 そんな二人の交際が丸二年を迎えたちょうど水曜日の記念日。

 彼らはお互いに一つの計画を、心密やかに立てていた。

 

 彼女はその日の朝、強い決意で奇跡の早起きをし、今夜着ていく服を決めるとすぐに着替えられるようベッドの上に並べておいた。反動で職場に遅刻をしたが、彼の為だけに今日から自分は生まれ変わって約束の五分前には現れてあげるのだと心を躍らせた。


 対して夕刻、仕事から帰った彼はまずソファーに腰を沈めてゆったりと煙草をふかした。いつもならすぐに出掛け支度だけは整えるところだが、今日からは彼女に合わせてもう少し寛容になろうと決心していた。そしていつものように少し遅れる彼女の正面からのんびり歩きながら笑顔で手を振ろう、それを想像して思わず唇を綻ばせた。

 

 大通りから一つ裏に入った閑静な交差点。

 初めて彼より早くそこに着いた彼女は、自分を褒めてあげたい気持ちと彼の驚く顔を見たい逸りで心地好く胸を高鳴らせていた。

 あと二、三分もすれば十メートルほど先にあるあの曲がり角から彼は現れるだろう。今か今かと視線が剥がせない。

 点々と灯る街燈だけが浮かび上がらせる宵闇の道路に、不意に自分の影が鮮やかに伸びた。スポットライトを背負って、それはあっという間に子供の背丈まで縮む。

 頭に響いた警鐘をまさかと否定しながら振り返った時には、脚に大きな衝撃を感じて体は浮き上がっていた。

 一瞬ブレーキランプが点った直後に勢いよく離れていくテールランプ。

 それを見送りながら、彼女は放さずにいたバッグに気付き、ぎこちなく動く右手で慣れた感触を探った。

 携帯電話の滑らかなボディを指先に感じる。それを掴んで引き出そうとする手が酷い痛みを訴えている。子供のように涙を流しながら彼女は思った。「こんなに痛いのに無理をしなくても、もう今すぐにも彼が来て救急車を呼んでくれる。」

 ポーチの中の電話を握りしめたまま彼女は瞼を閉じた……。

 

 あと五分早ければ……それは沈痛な表情とともに医者がもらした呟きだった。

 彼は半ば放心した状態でその言葉を耳に受け取り、しかし頭に届くまでに十分ほどの時間を費やした。理解はしても、それは心に受け入れ難かった。

 交際二年目の記念日。お互いにもう少し歩み寄ろうとした努力。その結果が目の前に横たわる彼女の姿。

 祝福をくれたのは神様ではなく死神だったことを、彼はただぼんやりと受け入れた……。

 

 

「……ってなったらどうしようと思ってぇ! だから今日も遅れちゃったんだ、エヘ。」

「……ハッピーアニバーサリー。」

 

 

 

 

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る