木陰
丘を埋め尽くす青草のざわめきが聴こえてきて
遠くから波のように滑ってくるそよ風が見える。
膝を立てた足首までを包むスカートの裾が震えると
袖から襟まで伝ったそれが肌を冷やしながら駆け抜けていく。
浮き上がりそうになった帽子を押さえる。
腰まである髪の毛が少し窮屈そうに靡いた。
背中をあずけている焦げ茶色の幹が微かに身震いし
その上で陽を遮る大きな傘がざわざわと喋った。
生まれては消える葉の隙間を突き抜けて、木漏れ日はきらきらと輝いていた……。
ねぇ、こんな日だよ。
葉も風も雲も優しそうだよ。
機嫌、そろそろ直してもいいんじゃない?
無理だよ。
今は何も綺麗には見えない。
汚いものばかり見え過ぎた。
解かってるだろ?
知ってるよ。
でも少し間違えてるよ。
見え過ぎたんじゃなくて、見過ぎたんでしょ?
違うよ。
周りが目を逸らしているだけさ。
見なくていいのに見ているわけじゃない。
見なくちゃいけないから見つめたんだ。
何のために?
どうして見なくちゃいけないの?
生きてるからだろ。
この命は数えきれない犠牲の上に立ってる。
でもな、犠牲にならなくても良かったものまで沢山喰い散らかしてるんだ。
それが人間なんだ。
忘れて生きて良いわけないだろ?
牛や、豚や、鳥や、魚……
たくさんのモルモット……
科学に壊された自然……
それをいつもいつも悲しんで生きるつもり?
現実である限りはずっとな。
でも、そうすることで貴方は人間を嫌ってしまう。
正直、大嫌いさ。
その対象が自分にまで及んでいるでしょう?
死にたいくらいにね。
それで何が変えられるというの?
貴方の行き着く場所には何の価値があるのかな?
価値なんて何もないよ。
人間が生き続ける限り、価値よりも悲劇の方が何万倍も生まれるんだから。
人なんて全部滅びてしまえばいい。
そうすれば、分相応に慎ましく生きている全ての命に平和が訪れる。
人類だけの為の医学に蹂躙される何億のモルモットや
一発の兵器実験で殺される数えきれない生物……
利益の為に余分に獲られては捨てられる魚、人災に巻き込まれて“処分”される家畜。
なぁ、ヒトが居なければどれだけの生命がまっすぐに生涯を全うできたと思う?
……確かに貴方の言う通りだと思うわ。
人は酷いことをしてきたし、今もしてるし、きっとこれからもしていく。
でもね、私達だって生まれてしまった命なの。
何も巻き込まずに生きていくことなんて出来ないし、生涯を全うする義務があると思うの。
無駄な犠牲を増やし続けながらか?
出来るだけ多くのものを慈しみながらよ。
でもそれは自己満足以上にはならないだろ?
個人の慈しみで、文明を原始に戻せるわけないんだ。
たとえ科学を捨てたって、やっぱり色んな犠牲の上で歩くはずよ。
規模が違う。
百でも一でも、命は命でしょ?
…………。
生きていくことを恐れるあまり、貴方こそ目の前のものから目を逸らしているわ。
青草の瑞々しさも、その隙間に暮らす小さな生き物達も、
風に運ばれる種子も、風を羽に受けて踊る者達も、
樹の蜜を喜ぶ子達も、枝葉に宿る鳥達も、
差しこむ太陽も、空を泳ぐ雲さえも。
貴方はそれら全てを掛け替えのないものだと知っていながら、
それらを見つめて愛する心を忘れている。
だって、根本的な解決をしなければ……
手の届く場所を想えない人が、本気で未来へ努力できる?
悟りきった顔で諦めて、それで何を救えるの?
人が滅べば全て解決するなんて口癖のように喚く人より
朝目覚めるたび植木鉢に水をやる人の方が、遥かに何かを救っているわ。
そうかもしれない……
そうだとしても……やっぱりヘラヘラ生きている奴らを許せないんだ。
自分が穢れていることを知らずに、綺麗なフリをして暮らしてる奴らを。
ほらね、やっぱりそうじゃない。
見つめなくちゃいけないものに向き合っているんじゃなくて、他の人のことばかり考えている。
見え過ぎたんじゃなくて、見過ぎたんだよ。
……何のために?
きっと、怒りが欲しかったから。
現実に対して怒れる自分でありたかった。
そして感情の高ぶりで、自分が生きているという実感を得たかった。
私が世界を慈しむことで自分を守っているように。
そっか……そうかもな。
そして何よりね、お互いを存在させるためだと思うの。
貴方の苦悩があるから、私はこうして席を与えられる。
お前が耐えてくれるから、俺はここに立つことが出来る。
うん。
だからね、今日はそろそろ、機嫌直そうよ。
たくさん涼んだら、また日向に出て頑張らなくちゃいけないんだから。
分かったよ。
でもこれからもやっぱり色々想うと思う。
その時はまた、この丘に足を運ぼうな。
ええ、またこの傘の下に戻ってきましょう。
じゃあな。
ありがとう。
青葉のざわめき。
肌を冷やす心地好い風。
微かに身震いする幹を背中に感じる。
降り注ぐ木漏れ日に目を細める。
私は優しい蒼や碧を瞳に刻みつけ
涼やかに澄んだ空気を肺に染み込ませる。
緑の深い香りと穏やかな草花の音色。
眠りに就きゆく彼にも憶えてもらえるように。
私も強く心に残せるように。
もう一度目を閉じて再び瞼を持ち上げれば
そこはいつもの日常に戻っているはずだから。
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