初雪ジャンプ 


 引っ張られて、引っ張られて、走って、走って、そして急にかかったブレーキに止まりきれなくて、ついに投げ出すように足を滑らせた。

 近所の本屋の閉店シャッターよりも速く、灰色の雲が視界の中に落ちてきた。

 風が止まって無重力を感じているのがほんの一瞬。でもそのほんの一瞬がまるでひと冬のよう。

 私の悲鳴を吸いこんで世界は空に満ちた―――。

 

 

 去年の11月半ばから計画していた友達4人のスキー旅行。

 新年早々に2泊3日しようと決めて確保しておいたホテルは、雪の乏しい地元よりきっと早く初雪に出会えることを期待した、私達の子供心と大人的財力が見つけた“ユートピア”だ。もちろん“湯ートピア”でもある。

 とにかく、初雪を見ることが一番大事。そして次にスキー板の上に足を乗っけて、こぶの上に乗りあげることだ。

 自慢じゃないが私達は4人ともスキーが下手くそで、毎年この計画で誰かはムチ打ちになって帰る。

 こぶに乗りあげるのは最初は事故だった。3年前に同じこぶで4人連続で吹っ飛んであちこち痛めて、その夜の温泉で生き返りながら誰からともなく大笑いして、そのまま溺れかけた。

 たぶん馬鹿なんだろう。

 その馬鹿をいつまで出来るか挑んでいる感じで、私達はこれを毎年の行事に定めた。「初雪ジャンプ」って呼んでいる。

 

 1月1日の早朝、私は準備万端の旅行バッグを前にして、パジャマに靴下手袋ニット帽とあったかマフラーという出で立ちで、極めつけに上からもこもこのドテラに包まれたまま放心していた。

 へたりこんでいる絨毯の毛先にふわりと乗っかっているアナログ体温計は赤いゲージが38,2℃の位置まで膨張していた。ゲームと違って多ければ多いほど体力の無さを示す憎々しいゲージ……。

 右手に握っているのはホワイトの携帯電話。

 ついさっき「ごめん、熱下げられなかった…。」という呪いの言葉を吸いこんで「そっかぁ…。じゃあ私達だけで行ってくるね、ごめんね。」という呪い返しに変換してくれた愛機だ。去年きのうまではこの上なく友好的なヤツだったのに、今は私の手の中で必要以上に冷たく硬い物体と化している。

 私の新年があっという間に砕け散ってからそろそろ30分。窓の外はまだ真っ暗闇だった。

 

 翌1月2日の朝になると、いったい何だったのかというくらい体温は平熱に戻っていた。

 部屋の隅に未練がましく寄せておいた旅行バッグを未練がましく眺める。未練がましい溜息をこぼすと、未練を断ち切るためにバッグの口をあけて手を突っこんではいろいろ絨毯に散らした。

 お昼には面白くもない正月番組をぼんやり見つめながら、3個目の蜜柑をむしむしと破って短い爪先をさらに黄色く染めていく。

 いい加減体力も戻っているし、愛犬のストレスを発散させてやらなくちゃまずいなと思いながらベランダに死人のような眼を向けた。絶対、死人のような眼だったはず。

 でも、一瞬で生き返ったと思う。犬も「どうした!?」という表情で私の顔を見つめ返していた。

 炬燵から飛び出して、私は窓辺に立った。ここはアパートの2階で、前には二車線の車道があって視界は良好。犬がちょっと興奮して窓越しに私に飛びかかっているけれど、私の両目は彼をスルーして景色に囚われていた。は…は――

 

「――初雪!!」

 

 初雪ぃ!! まさか、今年はこんなに早く降るなんて!!

 さっきまで携帯画面の新着の「慰め写真inスキー場」に悲しい気持ちで笑い返していたけど、いま分厚い灰色の雲を見上げながら胸のどんよりは雲散霧消していた。

 そんなあっという間の気分の変化に自分でも驚きながら、どれだけ雪が好きなんだと可笑しくなっていく。

(見よ、この子供心! スキー場の友たちよ、私も負けてないじゃろ!)

 やっと愛犬のあられもない興奮ぶりに気づいて、自分でも気持ちの悪いくらい優しいサービス精神が湧き上がってきた。

「ちょっと待ってね!」

 とりあえず犬が人語を理解することは疑いもせず、私は手のひらと笑顔と「ちょっと待ってね」をそのワン面のスマイルに投げかけてから自分の部屋に飛び込む。

 パジャマの上にスウェットを着て、ニット帽とマフラーを装着して、さらに切り札のベンチコートを羽織った。もっこもこ。

 戻ってベランダの窓をあけると愛犬は待ってましたと言わんばかりに飛びついてきて、馬鹿みたいに大笑いする私とひとしきり戯れたあと、玄関に突っ走っていって忠犬よろしくどっしり待機した。私は迷わず人語で褒めるとリードを取り付ける。

 手袋を装着するとこっちの完全武装も出来上がり!

 競馬のバタンとひらく扉みたいに玄関ドアが私達を解き放って、鍵をかけるのも故意に忘れて私達は一気に階段を駆け降りた。

 

 止まらない、止まらない―――!

 この犬どんだけテンション高いの!?と思いながら、それに負けじと突っ走る私のテンションこそ病みあがりのソレじゃない。

 すでに積雪2,3ミリくらいになっていた愛しのホワイトスノウ達は私の町を妖精が住んでいても許せるくらい様変わりさせていた。

 本当はもっともっと積もり積もっている銀世界に私達の足跡を一番乗りとしてふかーく刻みこみたかったけれど、キリのない贅沢を夢想するよりこのエクトプラズムのような白い吐息が底をつくまで駆け抜ける方が大切で、忙しかった。

 走り続けること数分、やがて土手が見えてきた。

 白い丘が視界の中で滑るように立ちあがっている。いつもの土手じゃない、なんて刺激的な堤防。

 いまや完全武装を大後悔するほどにスウェットの中がサウナ状態。たぶん止まった瞬間汗が滝のように吹きだして、パジャマはその吸水力の許容を秒殺で失うだろう。

 ということで…止まるもんか!

 左右を一瞥、車が遥か彼方であることを認めて私と愛犬は一気に土手を駆け登る。

 頂上が異様に遠くて、五合目くらいでふくらはぎがびくって言ったけれどここまでくると何かタマシイ的な勝負だった。

 上に行くほど斜面の角度がきつくて、崩れる雪も相まって一瞬敗北を予感。でも一足先に頂きを踏んだ愛犬がそのまま向こう側へと突っ切っていくからリードに引っ張られて私は強敵を乗り越えた。

 愛犬のヤツはつまり、土手の上の道を綺麗に横切って向こうの斜面を下り始めていたわけだ。もちろん、私はそれに抗う全ての力を使い果たしていたから…やば!

 真っ白い世界を猛スピードで駆け下っていく一人と一匹。

 引っ張られて、引っ張られて、走って、走って、七合目辺りの踊り場的平らな場所で不意に愛犬ヤツが伏せをしやがって、リードを通して急にかかったブレーキに私は止まれるわけもなく遂に足を滑らせた。

 

 風が止まって、無重力を感じた。

 

 投げ出した両足。靴は雪まみれというより泥まみれで視界の底を宇宙遊泳のように泳いで、両手は温泉で極楽ぶりを表現するときみたいに大きく広げられて、そして、ひと冬も越えていけそうな長い長い“瞬間”に、私の瞳の中には灰色の空が広がった。

 

「きゃあ―――!」

 

 今年は諦めそうになっていた恐怖と歓喜の悲鳴。

 すぐ訪れる強かな衝撃とそのあとの色々な痛みに手を伸ばして、後であっっっついお風呂で大笑いするための大切な儀式。

 私の「初雪ジャンプ」が、薄い雪化粧をした地元の空に派手に舞った。

 

 

 

 最高のお風呂の後、ぬくぬくの布団の中で、体力消耗ゲージが39℃を目指して元気に膨張している。

 もったいなくて全開にしているカーテンの向こう、綺麗な白い綿は大きさを増して空の中からゆらゆら踊り続けている。

 打ち身、捻挫、軽いムチ打ち、高熱と朦朧とする意識。

 今年は絶対私の勝ち。3人の祝辞は快復してから戴こう。一番乗りの祝辞はもう貰ったから。

 ほっぺたに温かかった愛犬のキスを思い出してニヤニヤしながら、暮れゆく今日と一緒に私の意識は夢の奥のユートピアへと出発した。

 

 

 

 

 

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