エマの羽 


 ツバメのエマは誰よりも飛ぶことが上手でした。


 エマはいつものように得意げに青空を飛びまわり、小さな虫を捕まえると巣に舞い戻ってきました。

 お母さんツバメは子供たちを巣立ちさせるのはまだ早いと思っていました。

 世の中にはたくさん危険なことがあると知ってほしかったのです。

 とくに好奇心旺盛なエマのことが心配でした。


 お母さんの心配をよそに、エマは早く飛びだしたいと思っていました。

 どんな危険なことも自分には追いつけない。

 自分の羽はとても強く美しいのだから。

 怖いこともあの空をどこまでも飛び続ければついて来られないはずだから。


 しかしある日のこと。

 エマが得意げに空を舞っていると、耳元に気を失いそうな音が飛びこみました。

 驚いて下を見ると人間が何かを自分に向けています。

 すでに巣は壊され、兄弟とお母さんは地面で動かなくなっていました。

 また大きな音と強い風がそばを通りぬけ、エマは大慌てでもっと高い空へと飛びあがりました。


 ふり向くともう人間の姿は見えなくなっていました。

 エマはきっと殺されてしまった兄弟とお母さんのことを想います。

 もう会えないのだと気づくと、あとからあとから涙が溢れてきました。

 小さな雨を降らせながら当てもなく遠くへと飛び続けました。


 やがて少し飛び疲れてくると、どこか降りる場所を見つけようとしました。

 でもエマの心にはあの恐ろしい出来事が棲みついています。


 “誰にも侵されない場所に降りよう”


 エマはそう思いました。

 しかし下には人間の作った街がひしめいています。

 自分よりは遅いけれどとても硬そうな鉄のかたまりが駆けまわり、

 止むことのない騒音が心をかき乱し、

 何よりも自分を襲ったあの人間たちが溢れています。


 エマはもっと遠い場所を目指しました。


 やがて見えてきたのは荒れた土地でした。

 そこにも人間が暮らしていました。

 道端でたくさんの人が飢えています。

 仲間同士で奪い合い、傷つけ合っています。

 ここに降りたらすぐに食べられてしまうと思いました。


 エマはもっと遠い場所を目指しました。


 やがて見えてきたのは一面の泥水でした。

 そこにはたくさんの家が沈み、色々な物が流されていました。

 とめどなく押し寄せる泥水に数えきれない命が消えていきます。


 エマはもっと遠い場所を目指しました。


 やがて見えてきたのは幾筋もの煙でした。

 辺り中で光が弾け、炎が燃え盛り、轟音が響いていました。

 地面がえぐれ、山が形を変えていきます。


 エマはもっと遠い場所を目指しました。


 とても高い山が見えてきました。

 あの頂上ならきっと何も危険なことは起きないだろうと思いました。

 しかしどれだけ頑張って風を泳いでも山のてっぺんは雲の中から姿を現しません。

 ついに息ができなくなってエマは諦めました。


 エマは気づきました。

 自分が行けるところには“誰にも侵されない場所”なんてないということに。

 あの高い山のてっぺんだって自分が行けたなら鷹や鷲が来るかもしれないのです。


 ずっと追いかけていた太陽もやがて空の終わりへと隠れていきました。

 世界中が黒く染まり、そしてエマを優しく抱きました。

 どこまでも飛び続けられると思っていた羽は、もう自分のものではないかのように重く感じられ、お母さんの話も聞かずに遊びまわっていたことを後悔しました。

 自分は何も知らなかったのです。

 生きることがどんなに怖いことか、どんなに大変なことなのか。


 柔らかい月明かりに照らされて、エマは一面の星の海を泳ぎ続けます。

 でも疲れきった体は自分の気づかないうちに羽ばたきを失っていきました。

 やがて何も見えない夜の中、ふわりと地面に降りるとエマはそのまま静かに眠りに落ちました。

 そこがどんなところで、どんな危険が潜んでいてももう構わないと思いながら……。


 

 

 ……とじた翼に冷たい露が滑り落ちて、エマはゆっくりと目を覚ましました。


 周りには細長い青葉が揺れ、その表面に朝露の玉が輝いています。

 空を見上げると、薄い水色にほどけるような白い雲がゆるやかに流れていました。


 そこは草原でした。


 辺り一面は、緑が生い茂りなだらかな起伏を連ならせる丘。

 遠く見渡せば、この世界を守るように高く囲む山々。

 今までに感じたことのない澄みきったそよ風が体を包み、胸の中を満たしています。


 やっとエマは“誰にも侵されない場所”がどこにあるのか気づきました。


 エマはずっとここで生きていくことにしました。


 春には穏やかな陽光が降りそそぎ


 夏には激しい雨と鮮やかな虹が山を渡り


 秋には紅く染まる木々が涼やかな風にざわめき


 冬には色褪せた世界を真っ白い雪が覆い隠し


 そしてまた春の青草が朝露で羽を濡らしました。



 エマは想います。


 ただ優しい気持ちで生きていこう……


 そこだけが何にも侵されない場所だから。


 やがてこの羽に終りが訪れて、


 やがてこの心が本当に静かな場所へ運ばれる、その時まで。

 

 

 

 

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る