アメンボ
「うん…うん……大丈夫そうね。じゃあ着く頃に迎えに行くから」
最後に二秒くらいの無言を挟んでから、カチャ…と優しく受話器を置いて母は僕に顔を向けた。
「明日からおばあちゃんが来るわよ」
電話の相手は何となく判っていたけれど、会話の内容まで意識を向けていなかった僕はその展開に少し驚いた。「なんで…? 急に……」
「寂しいのよ。お兄ちゃんも和恵さんもあんまりおばあちゃんとコミュニケーション取っていないんじゃないかしら。だって最近うちに電話してくること増えたでしょ? 一番おばあちゃんと話してるのはきっとお母さんなんだから。だいたいお兄……」
壁に掛けている電話機がまるでおばあちゃんや弘樹伯父さんやお嫁さんの顔に見えているみたいに、お母さんの愚痴がつらつらと零れ始めた。僕はリビングから台所に視線を戻すと手元のペットボトルの蓋を固く締めて冷蔵庫に戻す。僕の仕草から話を聞いていないのが判ったのか、お母さんの声はごにょごにょと消え入った。
八割がコーラ色に変わったコップを持つと僕はテーブルから椅子を引いて腰を下ろす。ご飯を片付けたあとの食卓はなんだか味気ない広さを手に入れていた。ただ明るい色の木目がそれなりに同じ方向に走っている。
「……それで、何日くらい泊ってくの?」
喉の奥で炭酸の小さな爆撃が鎮まると、僕は一番…とういか唯一気になったことを訊ねてみた。
「はっきり決まってないわ。一週間かもしれないし、一月かもしれないし……」
「ひとつき!?」
「もしかしたらもうあっちには戻らなかったりして」
お母さんは冗談っぽく笑った。でもその後に少し声から元気を失くして「もうおじいちゃん居ないしね」と付け加えた。
冗談…とも言い切れないかもしれないなって僕は思った。
一年半くらい前に、おじいちゃんは死んでしまった。アルツハイマーになったのと転んで足を骨折したのとどっちが先だったのかは微妙で、とにもかくにも入院生活が始まったのが数年前。身体は治っていっても脳の方は症状が進行する一方。入院は長引いて、そのうち介護施設に移って、三年くらいはそうして暮らしていたけれど……一昨年の暮れに静かに亡くなった。
あの頃、たまにしかお見舞いに行かなかった僕はおじいちゃんに忘れられても当然だった。でもお母さんや伯父さん伯母さん達はすごく辛かったと思う。やっぱり自分の父親だし、とっても厳しい人だったから。
“――アルツハイマーはスローグッバイなんだって”
いつだか、お母さんと伯母さんの電話の傍で耳にしたその言葉が今も忘れられない。おじいちゃんがゆっくりと家族を忘れていく間、家族はゆっくりと心の準備をすることが出来る。覚悟する時間をくれる優しいさよなら…そう言って笑っていたお母さんがあの時とても辛そうに見えた。
でも、誰よりも辛い思いをしたのは、やっぱりおばあちゃんに決まっている。だって、おじいちゃんは厳しい人で、おばあちゃんは穏やかな人だったから。
僕が思い出すおじいちゃんの顔は優しい笑顔ばっかりだ。それはおばあちゃんっていう心の支えがあったからだと思う。二人はきっとぴったりの相性だったんだ。片方だけじゃ、バランスを取り続けられないんだ……。
「もし……」
ぼんやりコーラを飲んでいたら、お母さんの言葉がするっと耳に入ってきた。
「おばあちゃんがずっと居たいって言ったら……イヤ?」
「なんで?」
僕は一瞬も間を置かずに返した。「全然いいけど?」
「……そう。まぁもしもの話だけどね」
ぐいっと飲みほしてコップを洗うと、キッチンを出て自分の部屋に戻った。
何の問題もないなんて、ちゃんと考えて出した結論じゃない。ただ僕はおばあちゃんが居ることで出てくる不都合とかに気付きたくなかっただけだ。気付くことで迷う自分に、その後で襲ってくるだろう罪悪感に……そういうものから逃げただけなんだ。僕は優しいんじゃなくて臆病者なだけだから……。
ベッドの上で脱力して天井を見つめながらそんなことを想い、すぐに居た堪れない気分になってうつ伏せに寝返りをうった。枕に頬を押しつけて、明日学校から帰った我が家の光景を想像した。
「ただいまー」
次の日の夕方、いつものように鍵を開けて玄関に入ると奥の方から話し声が聴こえて来た。その瞬間ハッと思い出した。おばあちゃんが来てるんだ。朝から夕方まで学校でうんざりな時間を過ごしていたからすっかり忘れていた。
取りあえず真正面の自分の六畳間に入ると鞄だけ下ろして、なんだか少しわくわくしながらリビングに行った。
「ほら、帰って来たわよ」
お母さんに促されて薄い白髪頭が振り返る。
「おばあちゃんひさしぶり~」
「あいあい、元気そうねぇ。学校はどう?」
変わらない笑顔。眼鏡の奥の両目は細められていて、目尻の皺が深く優しくて。
「学校は普通だよ。おばあちゃんも元気そうだね。電車で来たんでしょ?」
「いやいや、知美が……」
「結局迎えに行ったのよ、お兄ちゃんとこまで」
ちょっとステレオなタイミングで答えが返ってきた。
「そっか、良かったね。じゃあ何時ぐらいに来たの?」
ありがちな会話から、他愛もないお喋りに繋がっていって、そうしているうちに弟が学校から帰ってきた。僕は高校二年、弟は中学二年。でもあいつは部活をやっていて僕は帰宅部という逆転要素がある。
さっそく会話に加わってくる弟と、僕と、そして晩御飯を作り終えた母と、みんなで食卓を囲んでそこにおばあちゃんが居るこの光景…すごく新鮮で、なんだかとっても温かく感じた。
食事が終わってリビングの座椅子に背中を持たれかけているおばあちゃんの前で、僕と弟はソファーにだらしなく腰掛けながらテレビを眺めていた。別に面白い番組がやっているわけでもないけれど、初日くらいはさっさと自分の部屋に閉じこもったりせず傍に居てあげたかった。弟もきっとそんな気持ちだったんだと思う。
「お兄ちゃん、花札なかったっけ?」
あいつが不意に振ってきて、僕は家の中にありうる遊び道具を思いめぐらせた。
「確か……無いね。おじ…おばあちゃんちに置いてきちゃった気がする」
「そっか。昔よくおばあちゃんとやったよね」
「やったねぇ、晴美や敏子も一緒に遊んだね」
おばあちゃんは懐かしそうに言う。長女の晴美伯母さん、次女の敏子伯母さん、四人兄妹の末っ子のお母さん、そして僕らや従姉妹たち……かなりの人数でおじいちゃんちのでっかいテーブルを囲んで勝負をした。小さい頃の夏休みやお正月、親戚が集まった夜。お父さんや弘樹伯父さんや、伯母さん達の旦那さんは、たいてい台所の食卓で熱燗を楽しんでいた。そしておじいちゃんは早寝。実は元警察官だったおじいちゃんには花札で小金を賭けているのを皆で内緒にしていた。おばあちゃんはその辺お茶目で、僕なんかから見ると主犯って感じがして頼もしかった。
花札…うちにあったら久しぶりにやりたかったな。
「じゃあトランプでもしようか? おばあちゃんババ抜きとか七並べは出来たよね?」
「ババ抜きじゃあたしゃあ抜けなきゃ」
なんか久しぶりに聞いたその冗談が可笑しくって僕は笑いながらトランプを探しに行った。
夜も遅くなって、自分の部屋でゲームをして寛いでいると玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」
部屋のふすま越しに聞こえてきた声に僕は「おかえり~」と返す。それからゲームを中断して立ち上がると顔を出した。
「お父さん、おばあちゃん来てるよ」
「え、あ、そうだった」
重そうな通勤鞄を肩からさげて背広に皺を作りながら革靴を脱いでいたお父さんが、動きを止めてこっちを見たあと目を丸くした。なるほど、忘れていたらしい。やっぱり僕らは親子だなぁ。
苦笑いを浮かべながら廊下へ入っていくお父さんを見送り、僕は再び部屋を閉め切ってゲーム画面の前に戻る。十時半程度ならまだおばあちゃんは起きているはずだ。お風呂からシャワーの音が聴こえていたけど、お母さんとどっちかは判らない。
お父さんはおばあちゃんとどんな話をするのだろう。
さっき僕と弟との会話では田舎での毎日の事とかはあまり出てこなかった。懐かしのスーパーや近所の松林のことなんかは訊ねたけれど、弘樹伯父さんの家族とどんなふうに過ごしているのかは訊きにくかった。お母さんがあんなことを言っていたせいかな……。でも僕が大人の事情に口を挟んでもどうしようもない気がしたし、気まずい空気とかは苦手だから自分でも無意識に避けたのかもしれない。
まぁいっか。明日からゴールデンウィークで四連休だし、今夜は考え事はやめてゲームをたっぷり進めよう。
連休三日目、特にすることもなくて時間を持て余していた僕は、せっかくだからおばあちゃんと散歩に行くことにした。というかお母さんの提案だったけれど。
普段、散歩なんてしない。何もしない時間っていうのが耐えられない性格で、常になにか自分なりの予定を用意し続けなければ退屈で死にそうになってしまう。それは大抵ゲームだったり、マンガを読むことだったり、音楽を聴くことだったり……自慢じゃないけれど友達少ないから。
だから時間を持て余し気味のいまはお母さんの提案も悪くなかった。
玄関を出ると、おばあちゃんが階段を下りるのを少し先で緊張しながら待つ。それを繰り返して外に辿り着いた。団地って一階以外の部屋はお年寄りにはちょっと大変かもしれない……って知った。
「いい天気だね」
改めて外界に向き直り、僕は空に目を細めてつぶやいた。
「ほんとにね」
おばあちゃんが曲がり気味の腰を精一杯伸ばしながら笑顔で応えた。
少し、不思議な気分になる。普段、学校と家の間を往復する大嫌いな人生のなかで、空を見上げて褒めることなんて滅多にない。それが今日は自然とそうしていた。ムラのない明るい青が広がっていて、くっきり輪郭の見える白い雲がゆっくりと泳いでいる。いい天気、ほんとにね。
おばあちゃんの隣を歩いていると、普段とは別物のように道が長く感じられた。いつも自転車であっという間に駆け抜けていくこの場所が、今はものすごくゆっくりと流れる。右手の小学校のフェンスにぶら下がっている交通安全の横断幕が繰り返し繰り返し「車は急に止まれない」と訴えかけてくる。そうかもしれないけど僕らに飛び出しはありえないよ、と胸の中で思った。
しばらくして何気なく振り返ると、うちの団地から数えてまだ三本の電柱しかやり過ごしていなかった。
「ケンちゃんは、学校のお友達とは遊ばないん?」
黙々と一歩一歩進めていたおばあちゃんが不意に話しかけてくる。
「ん……遊ぶこともあるよ。たまにだけど。なんで?」
追い越す自転車に道を譲りながら答えた。
「お家にいることが多いみたいだからね」
そっか、そうだよな。休みに入ってもいつも部屋でゲームばかりしてるし。
「あんまりあっちこっち行くの好きじゃないから。お金もかかるし」
そう答えながら、なんだかそれが本当のような言い訳のような曖昧な気分になる。いや、きっとただの見栄なんだ。小さい頃から引っ越しばっかりで親友を何度も失って、そのうち周りの皆とはどうやっても付き合いの深さで敵わないんだって諦めるようになって、気が付けば友達らしい友達ってほとんど思い浮かべることが出来なくなっていた。一人、二人誘ってみてその日の都合が合わなければもう声をかける相手もいない。そうやって出来た空白を埋めるために一人での過ごし方ばかり上手になってしまった気がする。
そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にか小学校はけっこう後ろにあった。団地も途切れ、視界が開けていく。一軒家の間隔が広くなっていき、だんだんと何もない風景に映り変わる。おばあちゃんは何も言わずにただゆっくりと隣を歩いていた。
何を見ているんだろう? 何か楽しいのだろうか? 僕は必死で頭を回転させるけれど、うまい話題が見つからない。おばあちゃんはただゆっくりと歩いている。何も面白いものなどない見飽きた景色の中で、僕は焦りばかりが膨らんでいった。
「水がきれいだねぇ」
突然口を開いたおばあちゃんに、僕は意味もなく驚いた。
「え? みず?」
水がきれい?
ここに住んでいて中途半端な繁華街の汚さと町を縦断するドブ川しか目にしていない僕には、それがどこか別世界に存在する言葉のように感じる。
「ほら、もうすぐ田植えだよ」
それで初めて、おばあちゃんの言ってることが解かった。田んぼに水が張っていたんだ。
「そういえば田んぼだっけ、ここ」
僕は地元の人間とは思えないそんな言葉を吐いて、道路の脇に敷かれた広い水田に目をやった。
「……ほんとだ、すごい澄んでる」
おばあちゃんの言った通りだった。その四角い空間を浅く満たしている水は、この町で今まで見たことも期待したこともないくらい綺麗だった。少し遠くは陽の光を浴びて白く染まっている。まるで鏡みたい。そう言えば梅雨時になるとよくカエルが鳴き出したっけ。そうだ、田んぼはいつもあったんだよな。
僕は道路の縁まで寄ると、気持ちよさそうな水田を眺めた。
「アメンボいないね。小さい頃はよく見かけた気がするけど」
おじいちゃんおばあちゃんの居る田舎では。
「そうだね、たぶん沼で見たんじゃないかい? よく行ってたでしょ」
思い出した。
田舎には松林があるけれど、その向こうには大きな沼があったんだ。沼って、小さい頃は底なし沼とかのイメージがあってドロドロの状態を想像していたけれど、そこは湖って言葉の方が似合いそうな場所だった。そういえば長い桟橋が突き出していてその上を歩いた。端に座って釣りをする人もいたりした。僕と弟は、その橋の上からアメンボばかり見ていたんだ。
「アメンボってなんでアメンボって言うかケンちゃんは知ってる?」
僕があの頃を思い出していると、おばあちゃんは急に嬉しげに訊ねてきた。なんだかそれが、むかし田舎に帰るたびに「いいもんあるよ」と僕の好きなお菓子を取り出すときの顔に見えて、胸の中があたたかくなっていく。ずいぶん長い間あのお菓子の名前が“イイモン”だと思ってたっけ。
「ううん、知らないね。なんでなの?」
僕はアメンボの由来を訊き返す。おばあちゃんに乗ってあげたわけじゃなくて、純粋に楽しい気持ちから。
「動く時に水の上に小さな波を立てるでしょ。それが雨が降ってきたみたいに勘違いさせるからね」
波…アメンボの足の下に出来る小さな波紋のことだ。言われてみればふとそれを目にしたら雨が落ちてきたかと思うかもしれない。
「ホント?」
条件反射的にそう返す。するとおばあちゃんは笑顔で「さぁねぇ」と答えた。僕は思わず「えー!?」と声を上げた。悪戯を仕掛けられたのだろうか? そんな僕の前でおばあちゃんはただ皺を作って笑っていた。
家族が増えてから一週間が過ぎた。
ゴールデンウィークも終わってしまい、また変わらない日々の繰り返し。でも、少しだけ違うのは、学校から帰ったら誰かが居るってこと。
「ただいまー」
小さい頃から両親が共働きだったから今までは何も言わずに家に入っていた。
「おかえり」
今はただいまって言えばこうして声が帰ってくる。リビングでおばあちゃんがソファーに腰掛けていて、TVからも音が流れていた。
自分の部屋に入るとベッドの上に洗濯物が畳まれている。もしやと思って広げれば案の定、ワイシャツのボタンが全部かけてあった。おばあちゃんが畳んでくれるとコレがめんどくさいんだ。でも一応我慢している。ちょっとくらい普段と違うことがあるのも悪くないし。
「なんか食べるかい?」
台所に入った僕に、おばあちゃんがソファーの上で顔だけ向けてくる。
「いいよ、牛乳飲む」
僕は冷蔵庫を開けながら答え、それからテーブルの上の煎餅を手にとって袋を開ける前に六つくらいに割った。
「ケンちゃんは牛乳好きなんだねぇ」
「うん、昔から変わらないね。ご飯のときも牛乳だし」
「いいことだね」
おばあちゃんはTVに視線を戻した。
そういえば昼の間って何してるんだろう。畳む洗濯物がそんなにあるわけでもないし……。
寂しく…ないのかな。
普段、誰も居ない家に帰ってくる僕のように、誰も居ない家で一人で過ごしているのって寂しいんじゃないだろうか? 僕のようにゲームが出来れば時間はあっという間に経つけど、おばあちゃんにはそういうのって無いだろうし。
でも「昼間何してるの?」って訊ねるのってなんだか悪い気がして、僕は煎餅と牛乳を黙々と食べた。
おばあちゃんが来て三週間経った。
もう、僕はその生活にも慣れてしまっていた。おばあちゃんが居るのは特別なことじゃないし、何か刺激的なわけでもない。
以前の繰り返しのように、朝起きて支度して玄関を出て学校で詰まらない時間を過ごし、また帰ってくると玄関を入ってそのまま自分の部屋でくつろぐ。「おはよう」とか「ただいま」くらいは言うけれど、わざわざリビングにいって一緒の時間を作ったり、何でもない会話を大切にしたりってしなくなっていた。
散歩も、あの一回きり。
そういえばトランプだって初日以来やっていない。
「――おばあちゃん明後日の日曜に帰るから、明日は皆で食べに行こっか」
お母さんの言葉はちょっと寝耳に水だった。
「そうなの!? 明後日って……」
「三週間も居させてもらったからねぇ、そろそろおじいちゃんの所に戻らないと」
おばあちゃんが少し寂しそうな笑顔で言う。僕の頭に以前見た仏壇が浮かんだ。真っ黒いその扉の奥に、おじいちゃんの位牌。弘樹伯父さん達が居ても、おばあちゃんが居なければおじいちゃんはやっぱり寂しいだろうか。うん、そうだよな……。
「分かった。明日の晩御飯のことだよね?」
一応確認して、僕は部屋に引っ込んだ。
夜になって、ゲームも飽きて、ベッドに寝転がったまま真っ暗い天井を眺めていた。
眠くならない。
なんとなく、おばあちゃんのことばかり考えている。
このところはずっと何もしてあげていなかったくせに、あと二日でお別れだと思うと急に寂しい気持ちが湧いてきた。そんな自分が身勝手で偽善的に思えて嫌な気持ちにもなりながら、それでも何かおばあちゃんのために出来ないかなって考えることをやめられない。
でも何も思いつかないうちに、いつの間にか眠りに落ちていた。
土曜日、昼間に珍しく友達から誘いがあった。三つ隣の町に買い物に行くから付き合ってほしいと。
特にすることもなかった僕はOKした。
「ちょっと出掛けてくるね」
そう言って玄関で靴を履いていると、お母さんが台所から廊下に顔を出す。
「ちゃんと晩御飯に間に合うように帰ってきてよ?」
「え、ああ、そっか。うん、大丈夫」
「あんた忘れてたんでしょ? ちゃんと帰ってよね」
「分かったって。しつこいよ」
「またそういう言い方する」
「あーもう、行ってくんね」
ちょっと抜けているところがあるとすぐ突っ込んでくるところが嫌だ。僕はさっさと靴紐を絞って、玄関を出ていった。
百メートルくらい離れた棟に住んでいる友達と、ちょうどいい交差点で合流する。そのまま団地と団地の間の通りを自転車で飛ばして駅に向かった。桜並木はとっくに葉桜で、春はもう夏にその席を譲り始めていた。でも最近また少し涼しくなってきている。今日は降らなさそうだけれど、もうすぐ梅雨が来るんだろう。
電車で三駅、この辺りじゃ一番賑やかな街に降りて、大きなデパートに向かう。友達はその中の楽器屋さんに用があるらしい。そこに着いて彼がギターやら弦やらミキサーやらと見ているあいだ、僕はキーボードで適当に音を出したり、隣のCD屋で洋楽のジャケットを眺めたりしていた。ところが不意に名案が浮かんで、友達に断りを入れてから玩具屋のある階に下りた。
なかなか目当てのものが見つからなくて店員さんに訊ねると、一階の雑貨屋にならもしかしたらあるかもしれないと教えられる。なんで玩具屋にないんだと思いながら礼を言ってエスカレーターに走った。
そこでもなかなか見つからなくて諦めそうになったとき、思わず「あっ」と声が漏れた。棚の片隅に隠れるようにして、花札が三箱ほど売っていた。
目的を果たした僕らは、そのまま帰るのもなんだったから、まず小腹を埋めて、それから服を物色する。彼は夏用の薄いジーパンを買っていた。僕はTシャツを二枚。正直センスには自信がない。
そのあと、駅に戻る途中にあるゲーセンに寄った。
二人ともメダルゲームが好きで、スロットマシンやポーカーやブラックジャックをやって、最終的に競馬のゲームに並んで座った。僕がスレば向こうが当てて、向こうがスレば僕が当てて、時々数百枚に増えたメダルを互いに分け合っては夢中で遊んだ。
突然、手元の携帯が震えた。僕は光る画面を見てハッとした。我が家からの着信。画面の隅に表示されている小さな時計は18時半を過ぎていた。
慌てて電話に出る。
『まだ帰ってこないの? ってあんた今どこに居るの!?』
周囲の煩さが伝わったようだ。
「ごめん、ゲーセン! 時計見てなかった!」
『何してんのよぉ! それで、すぐ戻れるの!?』
この時の僕はきっと痛恨の表情をしていただろう。
「一時間くらいかかるかも…早くても4,50分……」
沈黙があった。いや、溜息が聴こえた気がしたけれどこっちの周りが煩すぎる。ようやく外に出ると同時に、失望の色濃い声がはっきりと耳に聴こえてきた。
『もういいわ……お母さんたちだけで行ってくるから。あんた自分で好きに食べなさい。じゃあね』
「……分かった」
切れた電話を静かに耳から離して、いつの間にか薄暗くなっていた辺りを恨めしく思った。それ以上に自分の間抜けさ加減に死にたくなった。
店内に戻って競馬ゲームの席に着くと、友達の席が赤く点滅している。覗いてみると大穴を当てていた。
僕は何もかも諦めて遊びに没頭した。
帰ったのは10時過ぎ。
お母さんの小言を食らいながらリビングに目をやるけれどおばあちゃんの姿はない。明日の出発が早いからもう寝たらしい。
僕は風呂に入って、コーラを部屋に持ち込んでぼんやりとTVを見ていた。何で自分はこうなんだろうって、そんなことばかりが頭の中をぐるぐる廻っていて番組の内容はまるっきり入ってこなかった。肝心なところで間抜けで愚かなんだ。せっかく最後の夜に皆で遊ぼうと思って買った花札が、勉強机の端っこに空しく乗っかっている。
おばあちゃんがまた家に泊りに来ることはあるだろうか。帰る場所はおばあちゃんにとって思い出のない新築の家。おじいちゃんが死んで間もなく、昔ながらの平屋は弘樹伯父さんの家族が暮らしやすい綺麗な家に建てかえられた。小さな頃から、夏休みや正月に従姉妹たちと集まったあの大きな居間も、かくれんぼでよく潜んだ奥の部屋も、夜はゴキブリが怖くて歩けなかった台所も、汲み取り式のトイレも、引き戸の玄関も、飛び石を踏んで回り込む庭やおじいちゃんが手入れしていた立派な松の木も、大きな柿の木も、白い軽自動車とその後ろの物置も、しっかり油の差された緑色の買い物自転車も、僕らのためにケースで用意してくれていたサイダーも……全部全部、思い出だけを残してきれいに無くなってしまった。同じ場所に建った綺麗で丈夫な二階建てに、おばあちゃんが振り返るべきものはあるのだろうか。
僕は椅子から立ち上がった。勉強机に向かうと引き出しを次から次へと開けた。不意に思い出したんだ。たった一つだけおばあちゃんに喜んでもらえる贈り物を。
「……あった!」
僕は大喜びでその小さなアルバムを取り出した。教科書程度のサイズの、厚みもない小さなアルバム。開くとそこに収められている一枚目には、かつての平屋の黒くて小さい門が映っていた。そう、あの家が建てかえられると決まったとき、僕はそれが寂しくて家中の写真を撮ったんだ。門から、玄関を入ったところから、廊下から、台所から、居間から、奥の部屋から、寝室から、そして庭や外の通りから見る全体の姿も。塀の上まで堂々と伸びる松の木や柿の木、屋根の上にあるソーラーシステムの銀盤も。いまは記憶の中にしか残っていなかったそれらがアルバムを捲るほどに次々と甦った。そうしながら、僕の視界がゆらゆらと歪んだ……。
もうみんな寝てしまった家の中をそっと歩き、台所のテーブルの上に丁寧に置いた。おばあちゃんへというメモを添えて。
朝の弱い僕は布団にくるまったまま、夢うつつの中でおばあちゃんの笑顔に「元気でね」と返した。ケンちゃんありがとね、という言葉と、アルバムを胸の前に抱えている姿が、もう一度眠りに落ちるまでそこに残り続けた。
新しい一週間が始まって、また惰性で続く学校生活を送る。
天気の悪い日が続くようになって、早い県ではもう梅雨入りしたとTVから聞こえた。
おばあちゃんはあの家で元気にしているだろうか。
あの後もお母さんは電話で話をしている。一度だけ僕も通話口に出た時、あのアルバムのお礼を言われた。本当に嬉しかったと、そう言ってくれている声は優しい笑顔に満ちていた。
それ以外におばあちゃんと関わる場面はもうなかった。でもしばらくはよく思い出した。リビングのソファーを見たとき、台所で牛乳を飲んでいるとき、畳まれたワイシャツのボタンが留められていないとき、机の上の一度も使っていない花札を見たとき、家の外の小学校の前を通るとき……。
僕は自転車を止める。
田んぼには、もう苗が植えられていた。水は綺麗だけれど、ところどころに粒のように細かな緑が浮いていた。
スタンドを立てると、自転車を離れて道路の縁に歩み寄った。あの日、おばあちゃんと一緒に立った場所。
アメンボの名前の由来は嘘だった。何となく調べてみたら、捕まえると飴に似た香りを出すからって書いてあった。
「さぁねぇ……」
おばあちゃんの真似をして呟くと、思わず笑みが込み上げた。
「あっ……」
田んぼの水が揺れた。小さな波紋が立った。僕は身を乗り出すと、目を凝らしてアメンボの姿を探した。
首筋に冷たい感触がぶつかった。次に頬に、そして手に。
並々と張られた綺麗な水に次々と小さな波紋が生まれていく。躍り出す水面。
見上げた灰色の空から雨が降り出していた。
やっぱりアメンボはいない。そして梅雨が始まる。
空から田んぼへ眼差しを下ろす。
明るい緑の世界を見ながら、なんとなく、おばあちゃんが教えてくれた嘘の方が好きだなって…そう思う。
今日は傘を持っていないけれど、僕はそのままもう少しだけ雨に打たれる景色を眺め続けた。
――さぁねぇ……
隣に感じる記憶に、耳を澄ませながら。
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