いまも、どこかで。 

 

 少年はゆっくり近づくと、勇気を出してたずねた。

「ねぇおじいさん。おじいさんはどうしていつもなにかひろってるの?」

 おじいさんは少ししてから少年の歩みよりもゆっくりと振り向いて、言葉よりも先にしわくちゃの笑顔を浮かべた。

「ここが好きだからだよ。」

 愛おしげに見渡すおじいさんの視線に促されるように、少年は眼差しを延ばす。

 陽に照らされた浜が美しい白絨毯となってどこまでも続いていく。

 太陽に負けないくらいきらきらと輝く砂達と、彼らに会いに来てはからかうように逃げていく波の楽しげな泡立ち。おじいさんが歩いてきたそこは…うん…とっても綺麗で少年も好きだと感じた。

 一番遠い点から少しずつ視線を戻して、深い青と淡い緑の海が瞳に宿って、そうして首をまわしていくと一度おじいさんと目が合う。その時、おじいさんの瞳に微かな陰が差す。それは次に少年が出会うものに対する哀しみだったのだと、ずっと後になって理解した。

 おじいさんがこれから歩いていく砂浜には、たったいま見たばかりの綺麗な白なんて気付けなくなるような…様々な色が溢れていた。

 数えきれない空き缶と、ビニールの包みと、難破船の破片でも流れついたような板きれと、ビンや布や靴やサンダルや煙草の吸殻や花火の残骸や…なんだかわからない物もたくさん、たくさん……。

 少年は不思議だった。どうして自分はさっきまで、こんなに物が落ちていることに気付いていなかったのだろう?

 少年は、不思議だった。どうして今は、こんなに胸の中がもやもやとして、自分でもよくわからない気持ちがじっくり全身に広がろうとしているのだろう?

 おじいさんのズボンをつかんで見上げる。向き合ったおじいさんは少し驚いた顔をした。それからすごく優しい顔でそっと頭を撫でながら、ひと言だけそえた。「―――ありがとう。」

 

 

  * 

 

 

 少年は毎朝早起きをして家を抜け出した。

 両親はそれに気付いていたけれどいつも窓辺から静かに見守っていた。

 少年の行先は家の目の前の道路をひとつ横切って、堤防にかかったハシゴを下りた場所だったから。見通しが良くて朝は滅多に車の通らない長い直線道路と、風雨にさらされて少し傷んでいるけれどガッシリしたハシゴさえ慎重に越えてくれれば、凪の海岸は優しくて心配することは何もなかった。何より少年の目的はエメラルドに輝く海の中ではなかったから。

 

 白い浜に着いた少年は、砂を蹴りあげながらずっとずっと左へと走っていった。右手には何も持たず、左手には広げれば自分すら入りそうなビニール袋を何枚も抱えて。

 やがて行きついた場所は、朝ごはんに間に合うように計り詰めたスタート地点。少年は一度深呼吸をして、戦いに挑むように顔を引きしめた。目の前にはずっと何処までも横たわる白浜と、一晩明ければいつもいつも悲しい気持ちを産みつける新しいゴミ達。

 

「ここは僕の宝物。だから僕が守るんだ!」

 

 毎朝、一番先に、「おはよう」よりも先に口にする呪文。勇気の出るおまじない。開戦の号砲だった。

 

 最初の頃は目についたゴミを片っ端から拾い上げていた。目を逸らすことができなくて、すぐに無くさないと我慢できなかった。

 でもやがてそれでは時間がかかりすぎて短い距離しかできないと分かり、少しでも遠くまで、一粒でも多くの砂を救うために目の端に映るカタキに歯を食いしばりながら丁寧に左右を往復した。それが数分の我慢でも胸はひどく痛んだ。本当は今すぐ拾ってあげたい。少しだけルールを破って足を伸ばせば、手を伸ばせば、そのゴミからその砂浜を救ってあげられる。でもそれじゃやっぱりダメだから……。

「ごめんね……ごめんね……」

 夜が明ければ誰もいない海辺で、少年は誰もゆるしてくれないままに謝り続ける。

 ゴミを一つ拾うたびに彼の心は軽くなり、それ以上に自分の力のなさに胸は痛んだ。

 母親の呼ぶ声。タイムリミットが訪れる。ふり返るととても小さな空間だけれど、宝物は美しく磨かれて確かに微笑んでくれていた。少年は今日も祈る。

「明日の朝もこのままでありますように。」

 そうすれば明日は今日の終わりから始められるんだ。そうすればいつかきっと何処までも続くこの砂浜の全てがきらきらと光り輝くはずなんだ。毎日、毎日そう祈った。

 

 陽が高くなればたくさんの人が焼けた砂にはしゃぎ、冷たい水飛沫と戯れる。口からはガムや唾をためらわずに吐き捨て、舞い上がって離れていく包み紙やビニール袋を海風のせいにして笑い過ごした。

 火のついた煙草も、火の消えた煙草も、全部いつか波がさらってくれると思っている。そしてその波を可哀そうだとも思わない。幸せなひと時や眩しい思い出を与えてくれた海と浜辺に感謝することもなく、敷物の傍らに缶やビンを小さくうずめて立ち去っていく……。

 

 やがて訪れるサンセットはほんの一時だけ、何もかもを朱く染めて大きな包容力を見せる。

 

 そして全てが見えなくなる夜の闇の中で、今度は解放感に満ちたいくつもの声が花火を灯して盛り上がる。大きくアーチを描いて火の尾は彼らを楽しませる。けれどそれがどの砂の上に落ちたのかこの星明かりだけでは彼らに判るはずもない。

 

 少年は部屋の灯りを消したまま、窓辺にすがりついてたくさんの感情を唇と一緒にかみ殺していた。

 昨日と同じ悔し涙を一粒、今夜も引きとめきれずに零れ落としてしまった。きっと明日もそうだろう。

 海の終わりと空の終わりの場所から始まる無数の光の中に一番強く輝く子を探して、それでも彼はあきらめずに祈る。毎晩、一番あとに、「おやすみ」よりもあとに口にする祈り。

「明日はみんながここを好きになってくれますように。」

 それは明日を何度何度重ねても、決して叶うことのない願いだったけれど……。



  *

 


 おじいさんは昨日と同じように砂浜に立ち、思えばだいぶ曲がった腰を一度伸ばすと朝の空気を深く吸い込む。

 ずっとずっと変わらない潮の香り。

 何千回、何万回味わっても決して変わらない朝の澄んだ匂い。

 でも取り巻く世界は少しずつ、時には瞬きの間に、様々に形を変え続けてきた。

 あの道路は夜も昼もなくたくさんの車が行き交うようになり、道沿いの家は何度も新しくなった。裏手の自然は随分と削られてしまった気がする。

 人々の身なりも雰囲気も、言葉すら形を留めるものはなかった。それなのに、たったひとつだけ、ただの一日として変わることのなかったものがある。

 朝が来るたびに目の前に広がるこの風景。

 どれだけ世界と人が形を変えても、この浜から心無い人達の爪痕が消えることはなかった……。

 おじいさんは足元の白い砂を一握り掬う。

 幼かったあの頃よりも宝物を磨く時間は増えた。でも日増しにその速さは衰えて、その距離は短くなっていく。今日は昨日よりも少し救えないかもしれない。明日は今日よりもまた少し救えないかもしれない。宝物が少しずつ失われていく。さらさらと零れ落としてしまうそのしなびた手のひらを見つめながら、でも愛する気持ちだけはこの砂の一粒ほどすら欠け落ちはしなかった。

 

「ここは私の宝物。だから私が守るのだ……。」

 

 何を忘れても、三つのおまじないだけは忘れなかった。…でもなぜだろう? 最近、どうしても抑えられない一つの思いが頭の片隅に生まれてしまうようになった。

(もし、この八十年近い年月、自分が白浜を守ろうとしなかったならここはどうなっていただろうか?)

 きっと数日と待たずに人が楽しめるような場所ではなくなってしまっただろう……。

 でも人は海を求め、憩いを求め、きっと思い出したようにこの場所を求める。その結果、人々はここを美しく守るために手を繋ぎ力を合わせたのではないだろうか……?

 それはいつも眠る前に自分が祈ったこと。

 しかし現実には、常に綺麗に輝いていたこの小さな場所にこれ幸いと人は集い、満足して、そしていつも汚して去った。

 自分の努力は無駄だったのだろうか? ここを救いたいという気持ちが逆にこの浜全てを苦しめ続けていたのだとしたら……そんな考えたくもない言葉が心の奥に爪をたてる。

 最近、いつも同じ場所でおじいさんは足を止める。いつも同じ場所で、愛する者を失うことに等しい無力な涙を引きとめられずに零れ落としてしまう。たった一粒、だから涸れることのない一粒……。

 でも今日はなぜか胸の声が止まらなかった。

 もう自分も老い果てた。誰にもこの想いを手渡すことが出来ないまま、もうすぐ日々は終わるだろう。そしてこの白浜は白浜でなくなり、やがて好意ではなく実益のためにあっさりと磨き変えられるのかもしれない。その形だけは自分の望み続けたものかもしれないけれど、そこに本当の想いがないのならまたすぐに浜辺は輝きを失うだろう。

 そんな冷たい繰り返しが自分のいない近い未来にはっきりと見えている気がして、おじいさんはもう一粒涙を零した。それでも止まらない。追いかけるようにぽろぽろと。こんなことは初めてだった。

 その時、不意に声をかけられた。

 

「ねぇおじいさん。おじいさんはどうしていつもなにかひろってるの?」

 

 幼い、少年の声。とても純粋な響きで問う…まるで天使の声。

 おじいさんは悲しみの濃霧から静かに還る。

 後ろにいる幼い瞳を不安がらせてはいけない。これはきっと人生で最後の出会いになるかもしれない。しわの深い目元を拭う。自分が大切にし続けたこの場所に涙は似合わないはずだから。この白浜は幸せな時間だけをくれる場所……自分以外の全ての人にとってはそれでいい。

 そして唐突に、おじいさんは気づいた。

 自分はもしかして望み過ぎていたのではないだろうか……?

 白浜を想うあまりに、いつしか人を憎んでしまっていたのではないか?

 ここは自分の宝物ではなく…そう、全ての人のための場所だったのだ。今頃になって気づいた。

 自分は他の誰とも変わらない、この蒼い海と、潮の香りと、寄せては返す波の音と、砂浜の熱さに抱かれていた一人の少年に過ぎなかったのだ。八十余年、ずっと守っていたのではない…守られていたのだ……。

 

 初めて白浜の悲鳴を聴いた気がした遠い日から一度も晴れることのなかった胸の霧が、まるで足早に散り消えてしまう霞雲のようにほどけて去っていく。もういい…嘆きは終わりにしよう。自分は残りの時間をただ、これまでと同じように、この砂を踏みしめよう。報われなくてもいい。人々がこの先この白浜に何を感じ何を想うか…それは誰かが押しつけるのではなく一人一人が決めてゆけばいいのだ。それこそが大切なことだったのだ。

 

 これまで、どうして何も変わらない努力を続けるのかと何度も自問し、そのたびに必ず自答していたあの言葉を…懐かしいほど久しぶりに本当の想いを込めて口にする気がした。

 静かに深く息を吐く。ゆっくり振り返る。ずっと待っていてくれた少年のふたつの綺麗な瞳に出会い、作り笑いではない心からの笑顔が自然に込み上げた。そしてそのまま、迷うことなく答えた。

「ここが好きだからだよ。」




  

  *  *  *

 




 白浜と呼ばれていたかつての美しいビーチを取り戻そうという運動が始まった。

 参加者は皆同じ写真を持っている。それはもう二十年ほども昔にたった一度だけ撮られた、この海辺にほんのひと握り存在した最高の白浜の写真。彼らが夢見る指針だった。

 

 この先長い闘いの指揮を務める青年に、先刻から取材をしていた地元紙の記者が新しい質問をする。

「ところでこの写真ですが……この真ん中にぽつんと写っている男性はどなたですか?」

 テーブルの端の小さな写真立て。青年は懐かしそうに答える。

「今は亡き私の心の師です。誰よりもこの白浜を愛し続けた人です。」

「心の師ですか。なるほど… もしやこの方に願いを託されて今回この運動を始めた、ということですか?」

 美談好きな記者に青年は苦笑いを浮かべると小さく首を振った。

「いえ、彼は何も私に願いませんでした。ただ……」

「ただ?」

「私が初めて彼に出会い、そしてこの浜を好きになったあの時に…言われてしまったんです。」

 記者は小さく身を乗り出す。

 青年は照れたように頭をかいて、簡素な事務所の窓から見える風景に目を細めた。


「ありがとう、と。」

 

 

 

 

 

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