隠し持った刃を
貴方の心が、もう、私に無いことは感じていた。
毎晩の残業も、たまの会社での寝泊まりも、偽りだと分かっていた。
綺麗過ぎるシャツや、薄過ぎる体臭に、貴方の臆病さを知って憐れみを抱いた。
無造作に置かなくなった携帯に、ロックの有無を想像する気すら失せていた。
以前は平気で残していた食事を無理に詰め込む姿に、こんな風に悲しくなるなんて、あの頃は思いもしなかった。
玄関で踵を通す貴方の背中を私がどんな気持ちで見つめているか知っている?
流れこむ光の中でつぶやく貴方に、どんな理解を込めて「行ってらっしゃい」と返しているか、気付いている?
洗濯が、掃除が、買い物が、お花の水やりが、ドラマの録画が、二人の為ではなくなってしまったことを、貴方はもう感じ取ることすら出来ないでしょうね。
今夜、私がずっと待ち続けているから。
この薄明るい電球に照らされた玄関のタイル達が、貴方が最後に抱く冷たい肌触りになってしまうから。
外灯を潜った貴方の姿が一階に吸い込まれてから、私の時間の流れは十倍にも百倍にも鈍くなっている。まるで全てが止まってしまったかのよう。
昼下がりからずっとリビングの硝子テーブルに横たえていた銀色の光が、いま私の後ろ手の中でしっとりと重さを湛えている。
いつか、初めて貴方を待った夜に立っていた廊下と、いま立っているこの廊下は同じものなのだろうか。
あの日、開くのを待ち侘びたこのドアと、いま開くのを待ち構えているこのドアは…同じものなのだろうか。
変わってしまったのは彼なのだろうか?
変わってしまったのは私なのだろうか?
どちらがより変わってしまったのだろうか……?
遠くから聴こえ始めた不実な靴音と、音も立てない手の中の狂気に、私の中の罪の天秤は留め金が外れそうなほど暴れていた。神様は答えを拒んでいる。
夫の靴音がドアの向こうで止まった。
鍵を取り出す音が冷たく響く。
背中に回した右手に少し力がこもる。
彼の罪が、私の罪が、終わりと始まりを手渡し合う瞬間がそこに来た―――
不意に、別の足音が何はばかることのない強さで反響する。
ヒールの音色が性別を教え、止まった場所が物語を教えてくる。
そして、二つの声がドア越しに震わせた。私の前に敷かれた小さな空間に立ち込める、乾ききった空気を。
“――どうして来たんだ”
“そんなの決まってるでしょ、言わないと分からないの!?”
“……ッ ……ッ”
“どうせ寝てるでしょ!?”
“馬鹿ッ……! ……ッッ”
“イヤよ、ここで話して。譲らないわ―――”
彼が……
彼を追って来た女と話している……。
私が寝ていると思って、ドア一枚隔てたすぐそこで。
なんて馬鹿なオンナ。
なんて間抜けな貴方。
なんて不幸な二人。
元々迷いも無かった。ずっとずっとずっと自問自答を繰り返した末の終着点。
でもそこにはたった一人の名前が刻まれるはずだったのに、これが神様の出した答えなら私の決意は後押しされているということなのだろうか。それとも、この私にこそ誰よりも重い十字架を背負わせようということなのだろうか。
運命の担い手はなんて無慈悲で無邪気な存在なのだろう。まるで悪戯と悪意の境目を持たない子供のよう……
構わないわ。
ドアが開くまでずっと待ってあげる。
これまでの永すぎた時間に比べれば、火にかけた水が沸くのを待つようなもの。貴方達の間に溜めた愛が嵩を持つほど、その瞬間は先に延ばせるかもしれないわね。でも逃れられはしない。必ずその沸点は訪れるわ……。
“このまま帰るんだ”
“ちゃんと説明してよ!”
“どう言えばいいんだッ”
彼女は今日、今このまま、ハッキリと私から彼を奪い去りたいようね。
思わず声を大きくしてしまった貴方… なんて臆病で、なんて卑怯な人……
でもとても奇遇。
私は今日、これから、貴方達からお互いを奪い去ってしまうのだから。
“何を言っても言い訳にしかならないだろ! 彼女を愛している、結局それが全てなんだ――!”
……え?
今のは……?
『彼女』って… まさか、別にもオンナが……?
“何よ今さら! 奥さんを愛してないから応えてくれたんじゃなかったの――!?”
―――ッ
わたし……?
愛しているオンナって、私なの……?
“……初めはそうだった。そうだと思っていた。残業で遅くなっても会社に寝泊まりしても変わらない笑顔でいる彼女に、寂しさなんてまるで無いんだと思った。仕事中も彼女のそんな態度ばかり考えていたら、そのうち俺は自信がなくなっちまった…… 彼女にとって自分が必要なのか、自分が彼女をどう想っているのかも……”
“…………”
“お互い心から必要としちゃいないって、そう思い込み始めていたんだ。君の告白はちょうどそんな時だったんだよ”
“じゃあ……ただ不安だったから? 都合よく、寂しさを埋めるために私を… 私を受け入れたの?”
“流されてた……本当にすまない。君に癒されたのも幸せを感じたのも嘘じゃない、けど……君の言う通りだと思う。ただ甘えてしまったんだ”
“そんなこと…そんなのずるいわ……卑怯過ぎるわよ! ならどうして今になって奥さんなの!? 向こうは貴方のこと愛してないんじゃないの!? 帰らなくても全然平気だったんでしょ!”
ふざけないで……
平気だったなんて… 私がどんなに苦しんできたか何一つ知りもしないで……
言葉にも態度にも出さないようにどれだけ頑張ったか……
私がどんな想いでその背中を見送って、その帰りを待ち続けたか、貴女も、貴方も、何も知らないくせに―――!
“平気なんかじゃなかったんだ……”
思わずタイルの上へ踏み出そうとした足が、止まる。
“気付いたんだ……彼女が平気なんかじゃなかったことに……”
“なんで? 何があったの?”
“……言っても解からないと思う。たぶん、夫婦だから感じ取れることなんだ”
“…エッチの時の感じ? 何よ、逃げないでちゃんと説明してよ!”
静けさ。
胸の中で、鼓動が微かに大きくなる……
彼の“たとえば…”という声が辛うじて聴き取れて、そして……
“洗濯物の畳み方が…何となく冷たく思えた……”
“……洗濯物……?”
“掃除が、まるで潔癖症みたいに、度が過ぎたり……”
“…………”
“花に、水をやり過ぎていたり……”
自分がいつの間にか廊下の絨毯を見つめていることに気付く。
“一緒に見たいテレビとか、録っておかなくなったり……”
自分の喉が微かに震えていることに気付く。
“料理も、特に料理に、強く感じたんだ……”
“感じた……?”
“どんな部分にとかは上手く言えないけど……彼女の寂しさを―――”
……頬の上を、熱を含んだ冷たい感触が伝っていることに気付く。
いつからかそれが絨毯を濡らし続けていたことに、気付いた……。
“彼女は寂しかったんだ。きっと言葉に出来なかったんだ… なのに俺は裏切っていた……今もこんなに、好きなのに……!”
彼の震える声がマンションの通路で響いた。
もしたしたら、他の部屋の人にも聴こえているのではないだろうか。
そのまま降りてきた沈黙に、重すぎる静寂に、やがて私の心が耐えきれなくなろうとした時……
“好き、じゃないでしょ……?”
顔も知らない、彼女の言葉が静けさをさらった。
彼の上擦った間抜けな返しが微かに聴こえる。
“愛してる、でしょ?”
“…ぁ……ああ…… 愛してる…愛してるんだ…… 本当に…どうしようもなく愛しているんだ…… すまない……”
“…もう…最悪だわ…… あたしってなんでこう…くだらない男をつかまえちゃうのかしら……”
自嘲気味の彼女の言葉の後、繰り返し詫びている彼の声が、情けなくて、腹立たしくて……ひどく愛おしい。
ずっと我慢してきた涙が溢れて止まらない。
押さえた手のひらから嗚咽が漏れてしまう。
膝から力が抜けてしまいそう。
うずくまりそうな自分を堪える。
ねぇ、私はどうしたらいいの?
そのドアが開いた時、私はどうしたらいいの?
ずっとずっとずっと自問自答して辿り着いた決意を……
引き返せない人生を受け入れる覚悟を……
背中に隠し持った刃を…… ねぇ…… どうしたらいいの…………
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