コップ
あっ……と思った時には遅かった。
指先から摩擦が消えていた―――。
「――また注文数を? 何度目ですか、いい加減に集中してください!」
先輩のきつい口調に全身が
私は悔しさに身体が熱くなるのを感じた。
彼女の態度に対する悔しさじゃない。
いつも温厚に微笑んでいて、「怠慢なら怒るけれど失敗なら誰にでもあることだから」……と根気よくフォローしてくれるこの人をついに怒らせてしまった私自身の不甲斐無さが、悔しくて堪らなかった。
先輩の言う通り、今日は全然仕事に集中出来ていない。今もお客さんから受けた注文の数を間違えて平謝りをしたところだった。
そしてそれが、このたった四時間程度に四回目なのだ。単純に割れば一時間に一度は同じミスをしていることになるのだから、どれだけ我慢強い先輩でも「失敗ではなく怠慢」と判断せざるを得ないのは当然だと思う。
「もしかして体調悪いんじゃないですか? そういえば心なしか顔色も……」
それでも怒りを露わにしたのはほんの短い間だけで、努めて冷静な自分を取り戻し心配顔を近づけてくる。そんな先輩から私はひどく慌てて身を引いた。
「い、いえ、すみません!本当に集中して頑張ります!」
勢いよく頭を下げて大急ぎでやるべきことを探した。
体調は確かに優れない。その理由には思い当たるところがあって、原因が気持ちの面にあると確信している。でも、それを言い訳として口にするのだけは絶対に嫌だった。
これ以上、情けない気持ちになりたくないから。
昨夜、仕事から帰ってすぐ手に取った通知。
発送元の印字を見て鼓動が速くなった。
この半年、大学受験以来の努力を注いだ、ある資格試験。その合否を伝える通知が手の中にあった。
これのために犠牲にしたものは私の中でとても大きかった。
特に、彼との時間。
仕事から帰宅すると出来るだけ勉強に割くために彼との電話は減らした。メールもあまり送れなかった。
晩御飯に誘われても三回に二回は断っていたし、私の方からはほとんど誘わなかった。
デートだって二週間に一度にまで減らしてもらった。夜を跨ぐのは時々しかなかった。
でも、私だって決して平気だったわけじゃない。
本当は四六時中一緒に居たいくらい好きだし、二人で行きたい場所がたくさんあった。
悶々として眠れない夜も何度もあったし、思わず携帯の通話ボタンに指を添えて迷ったりもした。
そこまでして我慢する方が心身に悪い、なんて自分でも分かっていた。
でも、一度誓いを緩めたらもう自分への厳しさを取り戻せなくなりそうに思えて、試験が終わるまでは過剰なほど徹底的にルールを守った。
そんな私に対して彼は寂しさを滲ませても、決して怒ったりしなかった。
「頑張る君を応援することが今の僕の役目だし、幸せでもあるから」
そう言って、柔らかく距離を置き、でも突き離すことなく見守ってくれる。その優しさと温かさに私は心から感謝していた。
なのに……
『誠に残念ですが―――』
その一行で私の手足から体温が消えた。
肩に鉛の様な重さが生まれた。
文字を追っていっても、最後までは読めなかった。
全身から力が抜けて、ベッドにほとんど倒れこむように横たわった。
あんなに……あんなに頑張ったのに。
テレビだって、音楽だって、読書だって、ショッピングだって、カラオケだって、飲み会だって、色んなことの色んな機会をはねつけて頑張ったのに。
断りすぎて友達はあまり誘って来なくなったし、私自身ちょっと引きこもりみたいになっている。
そして彼にかけた迷惑や、強いてしまった我慢。与えた寂しさ。
何もかも、報われずに終わってしまった。
半年……実際はもう少し多い時間……自分が人生を無駄にしてしまったのだと知った。
この三日間は彼から電話が来ていない。メールでも挨拶程度で、結果が出るまで触れないように気遣ってくれているのがハッキリ感じられていた。私は携帯を手にすると、顔と天井の間に力なく掲げて着信履歴を出すと通話ボタンを押した。
短い呼び出しの時間。
少し緊張した声で彼が出る。
ダメだったって報告する。
ちょっとの息苦しい沈黙の後、彼はぎこちないほど明るい声で言った。
――次があるよ。今回は残念だったけど、元気出していこうよ!
それを聞いた瞬間、言いようのない苛立ちが急激に湧き上がった。頭の中が熱くなり、目の前が真っ赤になった。
「そんな……“次”って何よ! そんな簡単に言わないでよ! 私がどれだけ頑張ったと思ってるの!? なのに…なのに……もういい!!」
最後は怒鳴りながら携帯を睨みつけて勢い任せに通話を切ると床に放り投げた。脱力して投げ出した手から零れて落ちたという方が正しいかもしれない。
床の上ですぐに携帯が震える。大好きな歌が呼んでいる。じりじりと床を這うそれをぼんやり見つめながら、私は起きあがる気も湧かずに何回も無視し続け、やがて明かりも消さずに眠りに落ちた。
そして今朝、起きぬけから頭が重くて、全身がダルかった。
でもファミレスのバイトは休めない。
昨夜の……ううん、この半年分のショックを抱えて全く抜け出せないまま、それでも今日もいつものように出勤した。
気持ちがボロボロでひどく疲れている時に良い働きが出来るわけない。
大好きな先輩にも怒られ、心配され、散々な時間を過ごして夕暮れ時、職場を後にした。
青紫の空の下、ようやく家に着く頃には倦怠感が一層色濃くなっていた。
もしかして本当に風邪でも引いちゃったんじゃないだろうか?思わず額に手を当てるけれど自分で自分は測れない。
小さなソファに疲労を全部あずけて、ぼんやり時計を見上げながら体温を測った。
ほんの短い時間がいやに長く感じて、忘れたころにピピッと音がして、38℃寸前の数字が出てきた。
熱があるのを形として見てしまうと、大袈裟に弱気になる。
なんだか食欲がない気がしてきたし、ざわりと寒気も生まれている気がした。
とにかく薬を飲もう。
その前に何か少しでもお腹に入れよう。
ふらふらと冷蔵庫に取りつき、牛乳くらいがいいかなと取り出した。ココアとか作る気力もない。
以前彼と旅行をした時に買ったお揃いのコップに、半分くらいまで牛乳を注いだ。描かれている可愛いキャラクターのツンとした鼻あたりまで。
熱っぽさが急速に増しているように思えて、ハァ…と溜息をつく。口から漏れたそれは焼けるように熱く感じた。
一口、二口、牛乳を喉に送る。冷たさが胸の中を伝っていく。ふと身体が弛緩した。
「あっ……!」
と思った時には遅かった。
指先から摩擦が消えていた。
緩んだ手の中からするりと抜け落ち、何もない空間をスローモーションで落ちていくコップ。
反射的に引いた左足の少し先に、ガラス製のそれは無情に着地した。
――ガチャン!!
感情のない音。
逆転した器と中身。
牛乳の中でキラキラと輝いている大小の破片。コップ……だったもの。
しばらく、私は何もせずに呆然と見下ろしていた。
冷たさがソックスにも染み込んで来ているのに、なんだか目の前の光景を受け入れられずにいた。
やがて使い古しの台布巾を掴むと、ゆっくりしゃがみこんで拭き始めた。
まだ二口くらいしか飲んでいなかった牛乳が布巾に吸い取られていく。
破片に気をつけながら手を動かす。
一番器らしさを残している大きな破片を立てて、そこに一つ一つ掬いあげた欠片を集めていく。
カチャン…
カチャ…
カチャリ…
カチャ…
吸い過ぎた布巾を一度シンクで絞って、少し洗って、またしゃがんだ。
綺麗に拭かないと床が傷んじゃう。臭いも残らないようにしなくちゃ。
だんだん白い部分がなくなっていく。
欠片を見つけては慎重に拾う。
立ち上がって絞って、またしゃがんで。
ちょっと大きな破片を見つけて、そこに描かれているキャラクターの顔が無惨に途切れていることに気付いた。
「割っちゃった……」
手のひらに乗せて、好きだったその絵を見つめる。
「……大切なコップだったのになぁ」
そう口にした途端だった。
鼻の奥が急激に痛くなって、目頭が火のように熱くなって、破片がぐにゃっと歪む。
「私……何やってるんだろ……」
喉と一緒に声がかすれて、少し震えた。
台所にしゃがんだまま、床を拭くのも途中のまま、熱っぽい身体を猫のように丸めて。
破片を落とすと両手で膝を抱えて、そこに顔をうずめて。
それ以上言葉にならない弱音を、止められずに零し続けた……。
薬を飲んで部屋に戻るとベッドに背中をあずけた。
何もする気が起きない。
これから先、何をやっても上手くいかないような気がする。
熱が上がっているのかどんどんダルくなっていく全身と、ぽっかり穴が開いて中身がなくなっちゃったような心。
半年間ずっとここに居たはずの頑張り屋が、あのコップと一緒に何処かへ去ってしまったみたい。
どうやって立ち上がっていたのかも分からなくなった。
もういいや……そんな言葉が口をついた。
その瞬間、何かを諦めたのと同時に言い知れない孤独感が襲いかかってきた。
押し潰されそうな寂しさ。
こんなに苦しいのに誰にも助けてもらえない自分が、ちっぽけで情けない。
天井を見上げたまま、両手で顔を覆う。
「助けて……」
ずっと張ってきた意地が崩れた。
するとまるで私がその言葉を言うのを待っていたかのように、大好きな音楽が流れた。
少し驚いて、それから恐る恐る携帯を手にする。
彼――。
昨日あんな風に一方的に拒絶してしまったのに、それでもいま私を呼びだしている。
どんな気持ちで待ち歌を聴いているのだろう。
身体を起こして、小さく唾を飲みこんで、通話ボタンを押した。
「……はい」
少しの間、無言の時間が流れた。
――昨日は……ごめん。
その優しい言葉を聴いた途端、私の目から涙が溢れ出した。
「私こそ……ごめんなさい…… お揃いのコップ… 手が滑って割っちゃった…………」
そしてしばらく、私は赤ちゃんのように泣きじゃくった。
悲しみの理由がわからないまま。
何もかもが悲しいようで、何か一つが悲しいようで、でも、ただ泣くことだけが必要みたいに。
彼は何も言わずに、でもちゃんと電話の向こうで待っていてくれた。
私がようやく落ち着いてきた時、いつもの優しい声でそっと名前を呼んでくれた。
そして少し間があって、それしか見つからなかったように一言だけ、「大好きだよ」と言ってくれた。
嬉しくてまた涙がこぼれた。
ゆっくりと、沢山の言葉を交わした。
おやすみを言って、電源ボタンを優しく押し込んで電話を切る。
パジャマに着替えて、ベッドに横になると布団を鼻まで上げる。
胸の中の大きな穴が、穏やかな温もりで満たされていた。
全身で眠りに落ちていきながら願った。
きっと大丈夫……。
私はまた立ち上がれる……そして歩き出せる。
そしたら先輩にいつもの自分を見せて、ちゃんと汚名返上をするんだ。
だからまずは、早く、風邪を治さなくちゃ。
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