あの夏、音のない花火を見上げて
私は忘れない。
夜空一面の星。
右手に残る温もり。
去りゆく夏の背中。
優しかった花火。
~
七月の終わりだった。
夏休みに入って、思いっきり伸ばした手足もそろそろ力を持て余していた。
何かしよう。
何処か行こう。
胸の奥から湧きあがる衝動に動かされて受話器を浮かせた。黒い電話が私の指先を噛む。
ころころ…じー…
右に廻っては左に返る蓮根を見ながら、
(今夜花火大会があったっけ)
そんなことを思い出すと、コール音が優しく鼓膜を震わせた。
この音は好き。
もっと聴いていたい。
そんな自分は変わり者だと思う頃にいつも音は途切れる。
「…ですけど…ちゃん居ますか?」
置かれた受話器に滑りこむように、おばさんが彼女を叱る声が聴こえてくる。
「ごめんごめん、ごろごろするなって怒られちゃった」
聴こえてた、私がそう言うと彼女は恥ずかしさを誤魔化すように笑った。
それから今夜の花火大会の話になって、その前に遊ぼうって話になって、受話器がチンッて別れを告げてから自転車に跨るまでに五分くらいだった。
祖父がよく油を注していた買い物用の自転車。亡くなってからは私が乗るようになった。ちょうど身長が合うようになったというのもあったし、祖父を忘れないようにって気持ちもあった。
物置の棚に置いてある油を吹きつけて、ペダルを手で廻して、音が風を切ったらブレーキの効きも確かめて……
そして私は、蝉の歌声と、高い空から笑いかける眩しい陽射しの中へ漕ぎだした。
ぬるい風と戦いながら砂利だらけの道を走る。タイヤが傷まないように大きな石を避けながら。
夏の抱擁がいっそう力強くなった頃、私は肌を光らせながら彼女の家に着いた。
「やっほー! 早いね。お母さんがスイカ切ったからちょっと涼んでから行こ?」
呼び鈴と同時に出てきた彼女は私の手を引く。キィッと言うブレーキ音がいつも少し早めに私を教えているらしい。
彼女のおばあちゃんに挨拶をして、すり減った畳を踏みながら座敷を通りぬける。
TVでは高校野球の中継。
耳に入る応援歌に祖父のことを思い出しながら、縁側に腰をおろすと頭の上で風鈴が可愛い音をたてた。
チリ~ン……
夜の訪れで花火の舞台が整う。
土手に登っただけで私達は息を弾ませた。
私は部活にも入らないで読書とちょっとした小説を書いてばかりの日々。
彼女は漫画家になると公言して同じくインドア派。
日焼けもしない軟弱な肌と目を覆うような体力のなさはお互いの譲れない部分。
「私の方がか弱いね」
「なに言ってるの。私はもう指一本動かせないわよ」
せめて乙女ということにして都合のいい勝負をしていると突然、そんなやり取りを一蹴するように周囲から歓声が湧きあがった。私達は皆につられて夜空を見上げる。
パッ―――
開幕の大花火が満天の屑星を遮って空に広がった。
「たまや~!」
誰かが言うと拍手が起こって、追いかけるような爆音とともに本当の夏が始まりを告げた。
次々と夜空を彩る灯火の共演にしばらく酔いしれたあと、身体を叩く震動と賑やかな喧騒に押されながら、私達は運動不足の細身に鞭をうって夜店をまわった。
焼きそばだったりたこ焼きだったり。
片手で食べられるリンゴ飴を仲良くかじりながら、空いた手には一個ずつ水風船を弾ませた。
人波が少しでも薄い場所を探して、並んだ私達は落ち着いて花火を見上げる。
私はパチパチと弾けながら消える花火が好きだった。
自分の足で飛び出した小さな命が一生懸命瞬きながら燃え尽きていく、そんな風に思った。
彼女は柳の木のような花火が好きだった。
しな垂れていく火のひと筋ひと筋が人生のようで、少し寂しいけれど最後まで強く燃えている。そんな風に年をとれたらって言った。
「まだ考えるのは早いよ」
そう私が笑うと、彼女はただ静かに、
「そうだね……」
と呟いた。
最後の花火の小さな残り火まで見届けると、一時間ぶりに盛大な拍手が向いの河原へと注がれた。
花火大会の終了とともに、ひととき譲った主役の座を取りもどして星の海が頭上を埋めつくした。
彼女の家の前で自転車を止める。
荷台から飛び降りた彼女は暗い足元で大きめの石を踏んでちょっと痛がった。
しばらく笑い合って、それから今日は楽しかったねって余韻に浸った。
去ろうとした彼女がふと足を止めて、それから振り返ると少しお喋りをしようって言う。彼女が塀にもたれかかるのを見て私はスタンドを下ろすと左隣に背中をあずけた。
さっきまで数え切れないほどの花火が舞った空には、真っ白の中に薄い墨を流した満月が浮かんでいる。胸が躍るような強さじゃないけれど、とっても柔らかい光が私達を包んでいた。
「今日は楽しかったね」
とりあえずもう一度同じ台詞を言ってみる。
「うん」
彼女の静かな返事が暗闇に吸い込まれていく。それから少し間をおいて、
「誘ってくれてありがとね」
いつになくしおらしいことを口にしてきた。
取り止めもない会話をしながら、今の主役はこの星空なんだろうなって思う。
彼女と一緒にいるのは私にとって心地よかった。お互いにそうなのかな、そんな風に思うとなんだか温かい気持ちになった。
「私ね、本気で作家になる。人に元気を与えられるような面白い物語を書きたい」
夢を口にさせるような魔法の時間。私は照れもなくそれを言葉にしていた。
「なれるよ。あんたならなれるって信じてる」
月明かりに浮かぶ顔は初めて見るくらい優しかった。
「そしたら漫画化してね。一緒にたくさんの人を幸せにしよ?」
無邪気に見る夢は思わず手のひらをかざすほど眩しい。そんなことが分かるほど、私は大人じゃなかった。
彼女は私の言葉に一度微笑んで、それから少しうつむいた。
それから、そっと、左手で私の右手を握った。
「あのね…… 私……実はもうすぐ―――」
その時、夜の闇を引き裂いて大輪の花が空を舞う。
大きな大きな青。
そして大きな大きな夏の声。
それはたった一発だけ残っていた花火の悪戯だった。
視線を戻すと彼女の口がゆっくりと動いていたけれど、轟音の残響が鼓膜を揺らしていた。
耳鳴りが治まると、
「びっくりしたね」
と私は笑った。
彼女は静かに、
「そうだね」
と笑い返した。
繋いだ手が温かかった。
九月に入って新学期が始まったとき、私の隣の席に彼女の姿はなかった。
小さな花瓶がひとつ、机の真ん中に置かれていた・・・。
何の感情も湧いてこないまま、季節は十月を迎えようとしていた。
嬉しいとか、腹立たしいとか、悲しいとか、楽しいとか、色々な感情が私の中から失われてしまった。
一ヶ月間、鉛筆を握っても全く手が動かなかった。
机に広げた白紙の原稿用紙は、白紙のままそこに在り続けた。
それはなぜか彼女の顔を思い出せずにいる私の心と同じだった。
病気だった。
彼女は自分がもうすぐこの世を去ることを知っていたらしい。
お医者さんに口止めをして、家族にすら直前まで教えなかった。
本当は起きあがるのも、夏の陽ざしの下に出るのも辛かったはずだと聞いた。体力なんて涸れ井戸のように底をついていたらしい。
あれだけ好きだった絵も漫画も、夏休み中は全く描いていなかった。
私は一言も生まれてこない言葉に愛想をつかして、鉛筆を置くと部屋を出た。
お母さんが「どこ行くの」と尋ねる。
私は「お線香あげてくる」と言った。本当は何も考えていなかった。
全然油を差していなかった自転車が窮屈そうな軋みをあげる。祖父が私を叱っているように聴こえた。
夏は背中を向けたまま手を振るように私の先を行く。夜の風は私の肌をひんやりと撫でていく。
秋が訪れていた。
彼女の家は少し遠いけれど、私は本当にお線香をあげようと決めた。
暗闇の中、大きな石を踏む。久しぶりに走った砂利道で祖父の自転車は無様に転倒した。
呻き声をあげながら体を起こすと、肘と足が少し痛かった。顔をしかめながら、八当たりする気持ちも湧かずにゆっくりと立ちあがる。
その時だった。
夜空を埋める一面の星屑の中に、一輪の小さな花火が咲いた。
ここからは遠いあの土手の何処かで一発、二発、三発。
音は届かない。
私は肘を押さえたまま、自転車を起こすのも忘れてそれを見つめる。
突然、目の前に彼女の顔が甦った。ずっと思い出せなかった彼女の、あの夜、あの瞬間の、最後に話しかけてきた口元の動きまでが―――
――実はもうすぐ……お別れなんだ
声が届いた。
あの時、気まぐれのような一発の花火がかき消した彼女の声。
きっと、不安に耐えきれずに零した告白。
私にだけ伝えてくれようとした苦しみ。
隠しきれなかった弱さ。
それなのに私は―――
肘が痛む。
足が痛む。
砂利道に傷つけられた体が痛くて痛くて……
私は泣いていた。
音のない花火はひとつずつ丁寧に、遠い夜空を彩った。
歪んだ視界の中を柳のような花火が緩やかに流れ落ちた時、私は我慢できずに叫び声をあげた。
何度も
何度も謝った。
静かな花火は夏を名残惜しむように、彼方の空を彩り続けた・・・。
~
東京につくと、出版社の人が私を迎えてくれた。
新人賞の最終選考まで残った私の作品を気に入った彼は、私を作家の入口に立たせてくれた。
用意するように言われた書類を確認しようと鞄から出した時、一枚の紙がアスファルトの上に舞い落ちる。
「これはなんだい?」
拾った彼は私に返す前にそれをまじまじと見つめる。
「が…ん…ばれ、かな?」
その中に書かれている台詞を苦心しながら読みあげた。
がたがたに震えた線で描かれた女の子の顔と吹き出し。
吹き出しからはみ出した力のない文字。
「親友が病床で私のために描いてくれた……最後の絵です」
彼は驚くと、少し気まずそうに、そして労わるように優しくそれを手渡してくれた。
「宝物なんだね」
丁寧にノートに挟んで、鞄に仕舞い、私は顔をあげた。
「私が作家になりたいって夢を語った日、彼女は言ってくれました」
右手に、あの時つないだ手のぬくもりが甦る。
「“あんたならなれるって信じてる”……だから、私も自分を信じてきました」
「……そうか。二人分の想いが筆に宿っているんだね」
彼は励ますように微笑むと、横に並んで私の背中を軽く叩いた。
「これから、たくさんの人に力を与えよう」
「……はい!」
自分の足で飛び出した小さな私を、夢へ導いてくれた原稿は鞄の中で見守ってくれている。
『あの夏、音のない花火を見上げて』
へたくそで優しい、一枚の絵と一緒に。
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