紫陽花 

 窓硝子に幾筋も雨が伝い、雑踏の通りを歪ませている。

 お店の前に植えられた何種類もの花の中に、青く染まった紫陽花を見つけた。

 艶やかに濡れている球体。

 梅雨が来て、空がしとしと落ちてくると、不思議と目に留まる丸い花。

 

 “アジサイは雨の花なの”

 

 保育園の頃の記憶で、なぜかその言葉だけが心に残っている。

 今でも何となく顔を思い出せる保育士さん。好きだった気がする。

 そのひとかけらの思い出のせいなのか、小学校の頃には一番好きな花に紫陽花を挙げていた。

 だからなのか、雨がとても好きだった。

 

 くるくるとアイスティーをかき回して、溶けた氷と混ぜ合わせる。

 グラスを支える左の手のひらに冷たさが広がる。

 学童であの子が待っている。

 でももう少しくらい大丈夫かな。

 他の子は帰っちゃったかもしれないけれど、保育士さんがそばにいてくれるはず。

 浮いてくる氷を押しかえしながら、心を胸の奥へと沈めていく。

 

 沢山の疲れがのしかかっている。

 仕事でうまくいかないことはいっぱいある。

 人間関係なんて、考えたくもないことばかり。

 もういやだと何度も思いながら、それでも環境を変えられない。

 娘のため、それが全て。

 けれどあの子はそんな苦労など知る由もないし、理解もできやしない。

 疲れきって帰れば、あの子のわがままな言葉や行動に追い打たれる。

 あの子のためにする家事が、努力が、あの子に邪魔される。

 赤ちゃんの頃が一番可愛かった……そんなことを思ってしまう自分を別の自分が窘める。

 時間は戻らないのだから。

 今までもこれからも、決して一人の自由など手に入らないだろう。

 それでも思わずにいられない。

 一人になりたい。

 独りでは壊れそう。

 誰か助けてほしい。

 

 寄り道の時間は日ごとに長くなる。

 特に今日は雨だから。

 もう少しだけ傘をさしていたい。

 息苦しい心がこれ以上溺れないように守ってくれる、私のささやかな傘。

 誰かに言われなくたって解かっている。

 これは雨宿りじゃなくて、ただ逃げているだけだって。

 でもそれを言ってくれる誰かすらいないのだから。

 窓越しに見える憂鬱な景色。

 そう言えばいつの間に私は雨が嫌いになったのだろう。

 紫陽花を好きだと言えなくなったのだろう。

 もう、行かなくちゃ……。

 

 

「さっき寝ちゃったんですよ」

 ずいぶん遅くなってから迎えに来た私を、保育士さんは笑顔で案内してくれた。

 仕事で遅れてきたのだと信じてくれているのだろう。ちくりと胸が痛む。

 娘はテーブルに突っ伏して小さな背中を起伏させていた。

 

「あらあら、せっかくの絵によだれを垂らしちゃって……」

 彼女は娘の頬を優しく拭って、その下敷きになっていた一枚の画用紙を取る。

 私が覗きこむと、そこに描かれた青い球体と娘の正面にある窓を交互に指差した。

「外が暗いから見えにくいけどあそこに紫陽花が咲いているんです。好きなんですって。それから……」

 その花の隣に描かれている髪の長い女性。

「これはお母さんね」

 

 画用紙を受け取って見つめる。

 六歳の娘に映る私……笑顔に描かれていた。

 でも、それよりも目を釘付けにするものがあった。

 

 

  ママ はやくきて

 

 

 不揃いで、へたくそで、少し間違っている文字。

 でも、間違いなくこの子が書いた言葉。心に想ったこと。

 

 私は……

 私は、逢いたくないと心のどこかで思っていた。

 確かに、そんな気持ちがあった。

 疲れていて、煩わしくて、出来ることなら今日一日だけでもこの子の顔を見ずにいられたらと。

 そんな母親なのに……この子は、「はやくきて」と願っていた。疲れて、眠ってしまうまで……。

 

 絵が霞む。

 情けなさに。

 腹立たしさに。

 そしてたぶん、嬉しさに。

 

 ――アジサイは雨の花なの

 

 ふいに思い出した。

 幼かったあの頃、私は毎日、紫陽花の花びらを数えていた。

 先生がとなりにしゃがんで、あの言葉を聞かせてくれた。

 やがて雨の中を、傘をさしながらお母さんが迎えに来てくれた。

 私にとって紫陽花が呼んでくれるのは、雨じゃなくてお母さんだった。

 

 背中に添えた手のひらに幼い鼓動が伝わってくる。

 寝顔が天使のように見えるなんていつ以来だろう。

 本当に一人じゃ生きていけないのはこの子なんだ。

 本当に独りだったのも……この子なんだ。

 もう少し、頑張ってみよう。

 きっと出来るはず。

 この子が雨を嫌いにならないように。

 明日もまた、紫陽花を好きだと言ってくれるように。

 頑張ろう。

 この子の傘は私なんだから。

 

 

 

 

 

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