飛行機を鳥が追い越して
「行ってくる」
踵を通し、靴箱に靴べらを置いて立ち上がった。
「行ってらっしゃい」
廊下の先から返した妻は微笑んでいる。だが、それがどこか辛そうに見えた。
いや、辛いのは私の心だろう。
薄い鞄を片手にぶら下げて、冷えたドアノブを捻った。
遅い朝の明るい光が世界に満ちる。
重い足取りで“世の中”へ踏み出し、振り返りながら静かにドアを閉める。
……最近はもう、「頑張って」と言わなくなった。
「――では、採否の結果は三日以内にご連絡を差し上げます」
「どうかよろしくお願いします」
「はい。お気をつけてお帰り下さい」
深々と下げた頭をゆっくりと上げ、担当者に背を向けた。部屋を出て建物を出るまで、粗雑な所作を見せないよう気を遣う。
道を折れて死角まで来るとやっと大きく息を吐けた。
腕時計を見る。短針が1時を通りすぎ、長針が27分を指していた。そして滑るように進む秒針。
辺りを見回すと、道路を渡ってもう少し先にコンビニがあった。
「ありがとうございました~!」
女性店員の元気な声を背中に受けながら自動ドアへ向かう。きっとあの娘はいま充実しているのだろう……無性に羨ましい気持ちが湧いてきて、足早に店を出た。開ききっていないガラスに肩をぶつけそうになりながら。
300mlのコーヒー牛乳と、セール中のおにぎり、そしてフランクフルトを一本。
小さなレジ袋を左手にぶら下げ、右手には履歴書と職歴書が一式減った鞄をぶら下げ、食事に適した場所を探す。
無駄遣いは控えなくてはならないからこんな侘しい昼飯になる。でも、せめて寛げる何処かで味わいたい。初めて来たこの町の片隅を歩きながら、きょろきょろと視線を巡らせた。
渡ろうとした小さな横断歩道。何気なく、左の方へ延びていく脇道を見やると、二~三百メートル先に土手が見えた。その上にはぽっかりと青い空も。
爽やかに通りすぎる
河川敷のサッカーグランドでは春休みの少年達が駆け回り、少し離れたティーグランドのような青々とした広場では老人達がゲートボールを楽しんでいる。
下の芝生まで辿りつくと彼らから離れたところにあるベンチまで歩いた。
汚れていないか手で確かめ、スーツ姿で腰かける。隣に腰を下ろしたビニール袋からすぐさまコーヒー牛乳とフランクフルトを取りだした。大きいのと二種類売っていたが、買ったのはこの小さい方。紙袋から引き出したそれにケチャップとマスタードを塗りつける。
最初の一口だけは思い切ってかぶりつき、我慢させていた食欲にささやかなご褒美とする。奥歯で噛むたびに漏れ出てくる肉汁が美味い。マスタードの申し訳ていどの辛さとケチャップの甘さが舌の上で混ざり合っていく。
一口目を呑みこむと、コーヒー牛乳の細いストローを咥えて強めに吸う。これも最初の一回だけだ。この後はちびちびと飲まなくては。
春麗らか……と言うのだろう。
水色の空に濁りのない雲がぽつぽつと泳いでいる。
今日は強い風もなく、肌を静かに撫でていくそれは少し涼しく少し暖かい。
サッカーの子供達もゲートボールの老人達も、土手の上をゆく自転車やジョギングの後姿も、そしてもっと向こうで川を渡っていく高架線路も、どれもが実際以上に遠く見える。動きは緩く、喧騒は淡く、そして何処か自分とは切り離された存在であるような……。
今日の面接も正直手応えはなかった。
いや、もう手応えというものがどんな感覚だったかを自分は覚えていない気がする。
さっきの会社は何社目だろう。二十だったか三十だったか……途中から数えるのが辛くなりあえて頭から追いだしてしまったから。
妻は出かけ際に「頑張って」と励まさなくなった。
最初のうちは待ち焦がれた採用の通知も電話も、今は全く期待していないように見える。それは私自身も同じかもしれない。
仕事をするというのはこんなに難しいことだっただろうか……。
家族を養うために、苦労は厭わない覚悟で企業を回った。
仕事は選んでいられない。選ぶのは安定感だけだ。
遣り甲斐など二の次三の次でメールをし、電話を掛け、面接室を叩き、家族の為に身を粉にして働くという決意を見せて、時には自分より若い面接官にも深々と頭を下げて。
一日でも早く定職に就かなくてはならない。
それなのに繰り返される不採用、不採用、不採用……。
書類選考で弾かれる度に自分の半生を否定された気分になり、面接で拒まれる度に自分という人間そのものを否定された気分に襲われる。
最近、時の経過がやけに早く感じられてしまう。無駄にし続けている一日が、一週間が、一ヶ月が、貴重な人生ごとあっという間に押し流されてしまったように思える。そんな月日がもう何ヶ月も繰り返され、積み重なり、このまま不毛な日々で終わりまで向かってしまうのではないかと怖くて堪らなくなる。波のように引いては寄せてくるその感情に自分が疲弊していくのがひどく分かる。
「もう……いっそ……」
自分の唇が漏らしたつぶやきに少し遅れてから気付き、雑草とも芝生ともつかない足元から一気に空まで視線を放り投げた。雨ざらしで傷んだ背もたれに大切なスーツを押しつけても、そんなことどうでもいいような気持ちになりながら。
明るい水色のキャンバスの中を、白い飛行機がきらりと輝きながらゆっくり横切っていく。
「いいなぁ……」
伸びきった喉の奥から、声にならない掠れた言葉が込み上げた。
なんて悠々と進んでいくのだろう。あんな無限の広さを持つ場所を、迷わずに真っ直ぐ、悠々と。
小さな雲に溶けこんでは、またすぐに姿を現す小さな憧れ。
すると、不意に視界の中へ茶褐色の鳥が滑りこんできた。飛行機と同じように右から左へ、空の中で飛行機を追いこして、それから大きく旋回してまた右へと還っていく。
片や悠然とした光景の前で、それは随分と忙しなく見えた。
そしてなぜか、あの鳥が自分のように思えてしまった。
目的地も無く、羽をばたつかせて同じところをぐるぐると行ったり来たり。
しかし、しっかりと目的地を持っている者は追いこされても慌てることなくゆったりと進んでいく。後戻りすることもなく、ただ前へ。
安定した暮らしを維持できている世間の飛行機の下で、私はあの鳥のように無意味に駆けずり回っているのだろう。そして見下ろす彼らに憐れまれているのか……。
空に溶かすように息を吐きだして、徒労の日々を見送るように鳥の旋回を眺めた。
妻の辛そうな微笑みが浮かぶ。彼女はきっと私の傍に居ることに疲れてしまったのだろう。解放してほしいというメッセージが、あの表情や「行ってらっしゃい」のただ一言に込められているに違いない……。
「――ママ、ひこうき」
不意に背後から聴こえた幼い声に、知らず伏せていた瞼を持ち上げる。さっきとは別の一機がまた右から左へと飛んでいた。
そしてその手前であの鳥が相も変わらず忙しなく翔け抜ける。
「とりさんのほうがはやいね!」
無邪気な声。まだ未来が白紙の中にある羨ましい幼さ。
耳から入った無垢な棘が心に突き刺さる。“その速さに意味はないんだよ……”
「本当は飛行機の方が速いのよ? ずっと遠くを飛んでいるからゆっくりに見えるの」
母親が優しい声で教えてあげた。
それを背中に聞いた私の胸の中で、ふと、何かが静かに溶けだしたような気がした。
「じゃあとりさんはちかいからはやくみえるの?」
「そうそう。よくできました」
「あっ! じゃあアイスかっていい?」
「うーん……お家ついてから食べるって約束するならね」
うんっと調子のいい返事が聞えて、母子の気配が離れていった。
足音が遠ざかるあいだ、私は二人の会話を反芻していた。
水色と白のキャンバスの中ではいまも二対の翼が泳いでいる。
……そうだ、飛行機が悠然として見えるのは、遠くにあるからだ。でも彼は本当はあの鳥よりも忙しなく突き進んでいるんだ。
……鳥の方こそ、慌ただしく見えて悠々と舞っているんじゃないか。すぐ目の前にあるからあんな風に感じただけだ。
彼らを見つめながら、背もたれからゆっくりと背中を剥がす。
近くを見ればなんでも足早に見えてしまう……きっとそれは時間だって同じだ。
すぐ明日の暮らしのことだけ考えているから、日々を無駄にしているように感じ、あっという間に過ぎてしまったように感じるんじゃないか?
こんなに焦った気持ちで仕事を探して、たとえ就職できてもそこで私は何を成すのだろう?
仕事を選ばないという言葉は一見必死さの表れに見える。でも、実は仕事にちゃんと向き合っていないということではないだろうか。
“家族の為に”なんて動機を向こうは歓迎するのか? この時勢で苦しいのは向こうも一緒だ。ただの歯車なんかきっと求めていない。
会社の将来へ何かをもたらしてくれる……そんな人間でなければ雇う価値はないのでは……。ただ目の前の安定が欲しいだけの私が弾かれて来たのは当たり前だったのかもしれない。
「そうだ……何かを成そう。仕事に、もっと真剣に向き合おう」
本気で仕事を求めるのなら。
その業種を理解し、その会社を理解し、第一に家族の為ではなく会社の為に働くのだ。
そしてもっと遠くに目を向ける。その職務が社会にどんな風に貢献し、世の中をどう支え、どんな未来を作っていくのか……それこそが働くということの本当の意義だったのだ。
自分がしっかりと社会の一片を担えれば、それが結果的に家族を養うことになる。順序を間違えてはいけなかったんだ。
もう飛行機も鳥も飛んでいない空から視線を下ろし、静かに立ち上がって深呼吸をした。
改めて周りを見渡してみる。
サッカーの少年達も、ゲートボールの老人達も、確かにそこにいる。遠すぎも近すぎもしないありのままの距離に。
さっきの親子の姿はもうない。でも胸の中で「ありがとう」と一言送る。
これからも大切にしなくてはならないスーツの尻と背中を叩いた。
コンビニの袋を持ち上げると、セールで安かったおにぎりをまだ食べていないことに気付いた。でもなんだか胸がいっぱいだった。帰りに新しい就職情報誌を手に入れて、家でそれを見ながら食べることにしよう。
まずは4時に予約していた面接に断りの電話を入れることから始めよう。
――踵を通し、靴箱に靴べらを置いて立ち上がると振り返った。
「よし、行ってくる」
すぐ後ろで娘を抱いた妻が微笑む。
「行ってらっしゃい。頑張って」
……玄関を一歩出ると、遅い朝の明るい光が視界に満ちる。
“世の中”へ踏み出し、丁寧にドアを閉めながら、二度と今の微笑みを失わないと胸に誓う。
今日の会社に私の情熱をぶつける。少しでも力になりたいことを真っ直ぐに伝えるのだ。
受け入れてくれるだろうか?
差し出すこの手を取ってくれるだろうか?
こんなに不安を感じるのはいつ以来だろう?
今までどれだけ相手のことを真剣に想っていなかったのかがよく分かる。
でも、もし受け止めてもらえなかったとしても、絶対に挫けない。
もう二度と距離を見誤らない。
私は、やっと翼を広げたのだ。
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