数分間の証明書 


 それは驚くべき運命の悪戯だった。

 インド洋で一隻の客船が海難事故に遭い、百人を超す乗員が地図にも無い小さな島に辿りつく。

 外周が3kmあるかどうかというその小島は起伏が少なく中央には森林が生い茂っていた。

 一見して無人島と判断してしまうその島でしかし、全員の予想を裏切って一人の老人が発見される。

 齢80を超えているであろう彼は自身を語るまともな声も持たなかったが、呻くような呟きに時おり混ざる言語に近い響きが、彼を西欧の人間であるように感じさせた。汚れ果てた肌と、身につけている元は服だったのかもしれない襤褸ぼろれ、長い糸屑を無数にまとめたような灰色の髭と、同色の薄い頭髪。

 削げ落ちた頬は飢えではなく年齢によるものであろうと思われた。一目見てどれほど永い月日をここに費やしてきたのかが判り、それだけにこの島には食糧になり得るものがあることも信じさせた。実際、森には豊かな食材が見られたし、周囲の海中は澄んでいて魚が右に左にと無数に戯れている。

 要請に応えて救助が来るまで、船員も乗客も力を合わせて過ごした。完全に座礁している本船は危険と判断し、持ち出せる限りの必要物資と共に離れた。結局数日程度をこの島で過ごし無事救助隊に拾われることになる。その時に、謎の老人も島に別れを告げることになった。

 遭難者達にとって彼はまさに謎の人物だった。だが、共に過ごした数日間で一つだけ確かめられたことがある。

 “アントニオ・グレイス”

 彼が口にした自身の名前と思しきその言葉。

 ある者が気付く。それは、39年前に失踪した豪華客船に乗船記録のある、ヨーロッパの天才音楽家の名前と同じであった―――。


 客船の海難事故と乗組員の無事の帰還というニュース以上に、世間の多くの耳目がこの老人に集まった。

 一つには、いまだアントニオ・グレイスの死を悼み続けているファンが世界中にいたことにある。

 39年前の豪華客船失踪事件では数知れない聴衆と音楽家が彼の生還を祈り、そして遂に失意に身を沈めていった。後を追うように世を去ってしまった者も居れば、彼に捧げられた曲が今日まで名曲の誉れ高く流れ続けてもいた。

 そして注目のもう一つの理由。それは、彼が遺していた莫大な財産にあった。

 実は、音楽家アントニオ・グレイスのプロとしての活動年数は僅か3年。40歳前後にして突然音楽界に現れ、驚愕のピアノ演奏技術と、誰も耳にしたことのない美しい楽曲を、それこそ滾々と湧き続ける泉のように世に送りだしていった。

 デビュー1ヶ月で彼のレコードは世界中に圧倒的な需要過多を起こし、1年目にして世界中のトップミュージシャンと肩を並べた。

 彗星のように……という表現は彼の為にあったのだと言う宣伝文句が鮮やかに躍り、誰もが納得せざるを得なかった。

 しかし、彼には当時から余りにも謎が多く、そしてそれらの何一つとして本人の口からは明かされていなかった。

 デビュー前にどんな職歴があり、どんな音楽歴があるのか……どころではない。

 出身地も、正確な年齢も、その名前が本名なのかどうかも、レコード会社すら知らなかった。ただ音楽を送りだすこと、それ以外で関わりたくないというのが彼の契約条件であり、素性が知れないというだけで彼を拒むには音楽界にとってその才能は大き過ぎたのだ。

 そして3年間の活動期間中、世界中の聴衆も音楽家も、彼の顔を見たことすらなかった。男であるという意見が多かったが、女ではという声も少なくなく、また作曲者と演奏者は別かもしれないという噂もそれなりの説得力を持って浸透していった。

 ところがデビュー3年目の9月だった。これまで自宅からほとんど外出することなく楽曲を創り続けていた彼が、突然活動休止を願い出て、客船による世界一周の旅を望んだのだ。

 その事実を世界が知ったのは、その豪華客船が出航した後だった。偶然乗り合わせた客達はアントニオ・グレイスの姿を知ることが出来る可能性があり、運が良ければディナーショーなどで彼の生演奏に出会えるかもしれない。世界中のファンが彼らを億分の一の幸運者と扱った。……船の失踪を耳にするまでは。


 彼の生還が絶望視され、それからほどなくしてその財産の行方が話題になった。たった3年で蓄えられた巨額の富と残り続ける楽曲の印税。特に、彼の暫定的訃報が世界を駆け巡ると同時にそれまで発表したレコードが二度目の爆発的な売り上げを叩きだしたことで、宙に浮いてしまう彼の収益をどう扱うべきかが衆目を集めたのだ。

 通常の失踪事件に当てはめるには取り巻く実情の複雑にすぎる中、彼の死の確認を議論の中心において無数の見解が飛び交い、泥沼の混沌を引きずりながら長い年月が過ぎていった。

 そして現在は、完全に彼を故人として“アントニオ・グレイス基金”という形で蓄えられ様々な寄付に使われていく一方、彼の楽曲の権利はレコード会社が保有し続けていた。彼の遺言もなければ、次々と現れた彼の身内も誰一人それを証明する術を持たなかったため、費やす時間と共にビジネスだけが淡々と続けられた。時おり未発表曲が公表されるたびに、最初のうちは喜びの声が、回数を重ねるにつれ種々の非難が噴出するようになりながらも、音楽市場は活気づく。

 ところが39年たった今、彼の名を持つ老人がインド洋の無人島から生還したのだ。


 音楽関係者や各種の専門家はこの狂騒に右往左往させられた。

 遺産、として扱われていた莫大な財と楽曲にまつわる全ての権利を彼に一度返すべきか。

 これまでのレコード会社の収益……特に未発表曲の勝手な発売による……がどう判断されるか。

 寄付として使われてしまった分はどうなるのか。

 ただ、どんな裁判をするにしても、それらの議論より先に解決しなければならないことがあった。

 この年老いて痩せ細り、もはやピアニストとは到底思えない枯れ枝のような指を震わせ、記憶喪失か年齢による健忘症か過去を語れぬ男性。彼を“アントニオ・グレイス”その人であると認定することは可能なのか……という問題だった。

 いま在る根拠は三つ。

 一つ、彼がそう名乗ったということ。

 二つ、彼のいた島が当時の航路から有り得る漂流地点であったこと。

 そして三つ目は、元々正確に明かされていなかったとはいえ、おおよその年齢的な辻褄が合うということ。

 この三点だった。

 多くのファンや音楽家は彼が本人であることを願った。

 その素晴らしい楽曲達がレコード会社の甘い汁と化していたことに憤りを溜めていたこともあるし、また伝説の天才音楽家がその最期も判らないまま歴史から消えてしまったというのは哀しすぎたからでもある。39年を経た再会……これこそ“彗星”と呼ばれたその偉大なる存在に相応しい奇跡ではないか。

 一方で音楽業界は慎重にならざるを得ない。

 身内のいなかった彼に証人はおらず、当時接触を持っていたレコード会社の人間はすでに他界している者もおり、また確認してくれた者もその老年の姿から面影を拾うことは難しいようだった。

 DNAによる鑑定をしようにも、アントニオ・グレイスが暮らしていた家は数年前に老朽化で一度建てかえられ、内装こそ再現されているものの綺麗な記念館となっていた。そして他に彼の痕跡が残っている場所は探せない。つまり確かな本人の遺伝子情報は手に入らないのだ。


 老人は比較的健康な身体で、日増しに無人島生活の垢を落としていった。

 言葉はまだ覚束ないものの、周囲に話しかけられれば内容は理解できるようになった。その様子からは英語に馴染みがあるのが見受けられ、少し判断材料を増やした。しかし過去の記憶はまるで戻らないらしい。

 何度かTVへの出演も依頼された。

 高名な識者や世界に名だたる音楽家が彼とテーブルを囲んで討論する。討論と言っても彼自身は何かを主張できるわけでもなく、むしろその記憶を刺激したり筋道を立てて彼を本物と証明したり……というのが主な狙いであることは観る者にも伝わってきた。

 しかしそれも世の中が期待するような成果を出すには至らない。

 専門家は有効な鑑定が出来ず、自分のものであるはずの楽曲を流しても気持ちよさそうに聴き入るだけでそれ以上の反応は見せず、多くの討論にも物静かに身を置いているのみ。

 やはり証明は不可能かもしれない……世間は諦めの色と落胆の声を囁き合い、レコード会社は安堵に胸を撫で下ろしていく。

 そして、リマスタリングされたアントニオ・グレイスのCDだけが飛ぶように売れ続けた。

 

 

 無人島からの生還より8ヶ月ほどが経った。

 老人に対する周囲の過剰な声や眼差しは徐々に落ち着いていき、彼は国の保護を受けてごく普通の穏やかな日々を過ごしていた。

 マンションの一階に部屋を貰い、家政婦が一人通ってくれる。

 石づくりのナイフや焚火を用いなくても、小さな力で大きなエネルギーを生む文明の利器によって安定した三食が用意される。

 草を敷き集めなくてもいい、元々柔らかな寝床。

 獣の襲撃を心配しなくていい、丈夫な四方の壁。

 雨も雷光も見えない、煌々と明るい天井。

 一日一度は身体を洗うことにも慣れた。

 少量のアルコールに酔うことも覚えた。

 TVも視界の端に受け流せるようになった。

 鍵を掛けて近所へ散歩に出ることも日課として楽しむようになった。

 周辺の住民は今では気さくに「アントニオさん、こんにちは」と笑顔で声を掛けてくれる。彼はそれに笑顔と会釈で応える。

 天気の好い昼下がりに近くの公園のベンチに腰掛けている彼は幸せそうに見えた。

 世界ではまだ時おり彼の正体を知りたがっている。

 インターネット上ならそういう話題はいつでも再開されて簡単に再燃する。

 しかし、彼の傍で見守る人達は、もうどちらでもいいじゃないか……と思い始めていた。

 本人は莫大な富などに興味はないだろう。

 これまでのように貧しい人達への寄金でいいのではないだろうか。

 彼の震える痩せこけた指は二度と音楽を生まないし、ベンチで陽光を浴びる姿は穏やかで優しいのだから……。



「……ねぇ、おじいさん」

 ふと幼い声に呼ばれて、老人は鳥達から視線を戻す。いつの間にか隣に小さな女の子が座っていた。

 彼は優しい微笑みを向けて首を傾げる。

「あのね、ちょっと練習にきたの。おうちじゃうるさいって言われるから、ここで吹きたいの。おじいさん聴いてくれる?」

 少女は楽器ケースからクラリネットを取り出した。

 老人は目を細めるとゆっくり頷いた。

「ありがとっ」

 彼女は嬉しそうにクラリネットにくちづけると、一生懸命に音を奏で始める。まだ覚えたてといった感じのたどたどしい指使いで、お世辞にも上手とは言えない演奏が紡がれていく。

 息も上手く入らない。

 音の粒も安定しない。

 顔は真っ赤。

 でも、一生懸命だった。

 とても楽しそうだった。

 この曲を彼女がどんなに好きなのか伝わってきた。

 老人は微笑みを浮かべたまま目を瞑る。

 その鼻腔から、細い、とても綺麗なメロディーが紡がれだした。

 それは少女のぎこちない一音一音を優しい風で繋いでいくように。

 彼女はふわりと目を丸くして、それから体を揺すって歓びを表す。

 小さな耳には自分の精一杯のメロディーと老人の美しいハミングが。

 大きな瞳には自分のたどたどしく動く指と、老人の脚の上で軽やかに動く細枝のような指が映っている。


 天気の好い昼下がりの公園で、誰も見ていない小さな演奏会。

 世界は何も気づかない数分間。

 白や灰色の鳥達が餌を啄ばみながら地面を歩き、遠くの噴水はたまに水を噴きあげてきらきらと輝いていた。

 

 

 

 

 

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