角を曲がって
そうだ、ここには確か、一軒家が建っていた。
雑草が自由気ままに伸びる前庭と、古びた家が。
人が住んでいたのかどうかも分からない。
そして分からないまま、ある日取り壊しが始まり、あっという間に更地になったんだ。
去年の、秋も終わりに近づく頃だった気がする。
通りから一つ奥に入ったこの道。
車も通れるけれど概ね閑静な住宅区。
周りには一軒家や、築年数の長そうな二階建てのアパートなんかがあって。
十字に横切る路はもう一つ奥の小さな公園へ繋がっている。
この四つ角の一画に生まれた更地……それがいま僕の目の前に。
初春の優しい光の下、青い花が微かに揺れていた。
ここが更地になった去年。季節はだんだんと冷えこんでいき、襟元に厳しくなっていった。
そんな冬に入りかけた町に、ある日暖かな晴れ間が訪れた。
僕はいつもこの道を通って仕事に向かっている。
確か、しばらく前に自転車が壊れてしまって、その分ゆとりをもって家を出るようになった僕は陽ざしを受け止めながら歩いていたんだ。
心地好い日だった。風は無くて、少し引き締まった空気の中に太陽は優しく、一歩ごとに近づき、通りすぎ、そして遠ざかっていく家々は明るく映えていた。
もの言わぬ彼らに笑顔を感じるような、そんなある日の朝。
右手に現れたその更地は、建物や囲いは壊したけれど前庭は手つかずで、改めて見ると畑のようにも見えてくる姿だった。こちらの歩道よりもだいぶ高く盛り上がった土。ぼこぼこに波打つそこには雑草だけが生えていて、まるで人の手から放棄された名も無き土地。
なんとなく物寂しさを感じながらその前を歩いていたら、不意にがさがさという音が激しく鳴った。
僕は驚いて僅かに逃げたけれど、思えば何か大きな生き物が潜めるほどの雑草地帯でもない。気を取り直してその更地の端っこへ、そぉっと近づいてみた。
いたのは小さなトカゲ。草を揺らして僕を脅かした犯人は、淡い緑色の肌をした小さなトカゲだった。
ホッとすると同時になんだか微笑ましく思えて、僕はゆっくり近づいて覗きこむ。
すると彼は全力疾走で隠れてしまった。獲って食ったりしないのに……あの逃げっぷりがとても可愛く思えた。
冬が足音を響かせて、直った自転車を漕げば少し耳が痛くなる頃。
家を出ると街路樹の足元で草花が冷たそうに湿っている。毎日、毎日。
通い続ける道の端で、あの更地はいつの間にか黒々とした土がちゃんと被せられていて、均されていて、もう畑にも、放棄された土地にも見えなかった。雑草は毟られ、「売り地」の立て札が備え付けられていた。
あの日のトカゲには二度と会っていない。
冬の冷気の中で、黒い土は凍りついたように霜を降ろし、トカゲにせよバッタにせよ雑草にせよ、命が暮らすには厳しそうな姿をしていた。
誰かが求めるまでこの売り地はずっと心寂しい存在であり続けるのだろう。
かつては誰かの思い出を積み上げたこの四角い空間。
人の営む町の中でこうしてぽつんと放り出された土地を、僕はなんだか少し可哀想に感じた。
冬は寒さを増していく。
今年に入って、二月ごろから例年にないほど雪空を仰いだ。
元々ほとんど降らない土地だから、ほんの数回でもとても多く感じる。大して積りもしなかったのに。
時おり春の予感を織り交ぜながら、寒さはしぶとく繰り返し戻ってきた。
三月に入って、それでも冬返りを何度か見せて、ようやく下旬のいまを迎えた。
ニュースから桜の開花宣言が聞こえた。
春は来たのだろうか。それとももう一歩のところに居るのだろうか?
僕は今日もいつもの道を自転車ですり抜けていく。
どんな装いをすればいいのか分からない、少し暖かくて少し寒い朝の中。
久しぶりに眼の向いたあの更地には、いつの間にか花が咲いていた。
僕の手は自然とブレーキを握る。
落とした速度の上に座り、緩やかに流れゆく右手の風景を見つめた。
大きな白い花。
可愛らしい黄色い花。
そして寄り添うように咲いている小さな青い花達が、微かな風に揺れ合っていた。
僕は前に向きなおり、いつもの景色へとペダルを踏み込んでいく。
今は誰にも求められていないあの土地が、後ろへと離れていく。
人にとって何の意味も持たなくても。
暮らし営まれる町の中に放り出された、思い出の跡地でも。
花は咲く。
命は生まれる。
心寂しくなんてない。
角を曲がって少し速度を上げる僕の瞳には、青い花がいつまでも微かに揺れていた。
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