溶けないで 


 しゃわしゃわしゃわ。

 たぶん裏側の、もっと裏側の、ぎりぎり四丁目に入るあの公園の、大きな木から。

 歌が聴こえる。

 バームクーヘンみたいに重なり過ぎたハーモニー。

 ここにいるよって呼び続ける恋のメロディー。

 しゃわしゃわしゃわ。

「しゃわしゃわしゃわ……」


 車なんて滅多に通り抜けないこんな裏通りに、なんのためにあるのか分からない白いガードレール。

 途切れ途切れに、塀や垣根と平行に続いていくガードレール。

 あたしがこうやって背中をあずけていなければきっと今、誰の役にも立っていない。


「はい、四十両のおつり」


 あ、また言ってる。

 開けっ放しのガラス戸から小さい男の子が手を振りながら出てくる。

 中から手を振り返すおばちゃんが見えないけど見える気がした。

 そのまま遠ざかっていく男の子の左手に、青いパッケージのアイスが揺れている。

 あたしは自分の顔の前に立てていた同じアイスとあの子の背中に何度か焦点を行き来させて、なんとなく「六十両」ってつぶやいた。

 長方形の角っこで滴がふるふると訴えるから、手じゃなく顔を寄せて精一杯伸ばしたベロで受け止める。きっとあたしのベロは今ごろピンクじゃなくて少し青っぽい。


 待ち合わせの時間はもう十五分くらい過ぎている。

 麦わら帽子の下で、あたしの黒いビー玉はまだ彼の姿を映さない。

 あの小学生は緩くて深い下り坂の向こうに頭も消えてしまった。

 反対を向けばゆるゆると上っていく坂がやがて家と家の間に曲がって消える。

 正面を向けばあたしのアイスは炎天下に負けてまた少し減っていた。

 思わずワンピースに着地されていないか慌てて確かめて、真っ白い裾よりぎりぎり前でアスファルトが受け止めていたのでホッとした。この夏に服と合わせて買ったサンダルにも紙一重。

 あたしの精一杯のお洒落。間違って汚しちゃう前に見て欲しいのに。

 何か言ってくれるかな。

 ちょっと離れた場所で立ち止まって、一言「似合ってんじゃん」って微笑んでくれるかな。

 学校の制服姿しか見られたことも、見たこともない。あいつはどんな格好で来るんだろう。

 向こうから誘ってくれた初めてのデートなのに大遅刻。

 昨夜寝付けなかったのはあたしも同じ。でもいつになくすっきり起きられたのはきっとドキドキしていたせい。あたしだけなのかな?


 みーんみーん。


 顔を上げるとすぐそこの鼠色の電柱で小さなセミが歌い始めていた。

 もっと裏側に飛んでいけばたくさんの仲間達と恋もできるよ?

 ほら、みんなハーモニーを奏でてるよ?

 しゃわしゃわしゃわって一緒に夏を喜べるよ?

 心でそっと話しかけてみるけれど、彼はしがみついたまま頑なに羽を閉じて鳴いている。

 ここがいいんだって言うみたいに。

 君こそどうなのって言ってるみたいに。


 右足の親指にポタッと冷たい感触がして、あたしは慌てて右手を遠ざける。

 セミが一瞬黙ってから、まるで笑うようにまた鳴きだす。

 あたしは上半身を乗り出してアイスの角をシャクッとかじる。

 また勢いよくぽたぽたと降っていく滴。どんどん、どんどん、溶けていっちゃう。

 タイムリミットが近づいてくる。

 あたしとキミと、どっちが先に居なくなるのかな。

 これが無くなったらあたしの待ち時間も終わり。

 あいつはちゃんと来るのかな。

 アスファルトに作ったソーダ味の染みを見てあたしの涙と勘違いしたりして。

 それはないか。

 あったらあったで少し恥ずかしいかも。


 しゃわしゃわしゃわ。


 歌が聴こえる。


 みーんみーん。


 ここにいるよって呼び続ける恋のメロディー。


「溶けないで……」

 悪あがきのように棒の先っぽにしがみついた小さな欠片を見つめてそっと励ました。

 十秒くらい粘った末、その子が“もう堪えきれないよ”って滑り落ちかける。

 あたしは反射的に口の中に閉じ込めた。

 右手に残ったのは白い棒。

「バイバイ」

 電柱のセミさんに言伝を頼んで、小さく手を振った。

 帽子のつばをそっと引っ張った。

 ガードレールから背中をはがして、お店の方へと歩き出した。

 ちょうどその時、降り注ぐ強い陽ざしがアスファルトをゆらゆらと揺らして、あたしの黒いビー玉に蜃気楼を運んでくる。

 少年が消えていった下り坂の縁から、少しだけ茶色っぽい髪の毛が現れた。

 ちょっと日焼けした顔が現れて、チェック柄のワイシャツが現れる。

 息せききって弾む肩が腕を振りあげて、広げられた白い手のひらが遠くの入道雲をバックに大きく旋回する。


 急に脈打つ心臓。

 足を止めたあたしは思わず振り返しそうになった右手を左手で抑えて、ワンピースの少しだけ深い胸元に押しつけた。肌、汗ばんでる。

 麦わら帽子に隠れるようにうつむいて、右手に鼓動を感じながら、あいつのつま先がすぐそこに来るのをじっと待つ。

 もしあいつがちょっと離れて立ち止まり、「似合ってんじゃん」って言ってくれても返事はしない。

 あいつが「わりぃ」って言ってくれてもまだこのまま。

 「怒ってんの?」って訊いてくるまで。

 そしたらあたしは右手を突き出して、あいつにこれを見せてやるんだ。


 “当り”



 電柱のセミが「見てられないネ」と一声鳴いて、飛び立った。高くて青い真夏の空へ。

 

 

 

 

 

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