バスルーム
いつも同じ時間。
いつも同じ帰り道。
いつも同じ窓の下。
通りがかると聴こえる歌がある。
それは水の音と一緒に届く、優しく澄んだ歌声。
ここは閑静な住宅街。
奇麗な一軒家が並び、家と家の間隔も離れている。
それなりに裕福な層が暮らす町だった。
僕はその少し郊外に住んでいる。
朝、自転車でその住宅街を抜け、電車に乗って別の街へ行き仕事をする。
滅多に残業をせず定時に仕事を切り上げると、いつもと同じ電車に乗って同じ時間に町へ帰る。
夏場ならまだ明るく、冬場ならとうに日が落ちている時刻。
僕はいつも同じ路をなぞり住宅街を抜ける。
それは夏のある日、ある家の前を通りがかった時。
僕の耳に歌声が届いた。
女の人の声で、例えるなら水晶のように澄んでいて綿毛のように優しい声だった。
思わず自転車を漕ぐのをやめて聴き入ってしまった。
でもその声と一緒にシャワーの音が聞こえてくることに気づいて、慌てて漕ぎだした。
見上げると塀の向こうの窓が白く光り、そこから歌声は流れ続けていた。
次の夜も、その次の夜も、僕の帰る時間と“彼女”が入浴する時間は重なっていた。
不審者に思われたくないから自転車を止めることはしなかった。
でもそこを通る時はスピードを弛めて、ゆっくりと歌声に耳を傾けた。
どんな人だろう?
日が経つにつれて彼女のことを想像するようになった。
ミュージシャンだろうか?
シンガーを目指しているのだろうか?
もしかしたら有名な歌手だろうか?
僕は歌声しかしらない彼女に、少しずつ惹かれていく。
“出会い”から2週間が過ぎ、平日の仕事帰りは毎日それが繰り返されていた。
いつもだいたい同じ歌詞を聴いていたせいで、僕はその部分を憶えつつあった。
そしてある日……
いつものように彼女の窓の下を通りながら、僕はふと彼女の歌声に重ねてみた。
すると不意に彼女の歌声がやみ、シャワーの音が止んだ。
僕は思わず足を止めて窓を見上げる。
そこにスッと少しぼやけたシルエットが映り、僕は驚いて首を竦めた。
しばらく息を殺して緊張していると、シルエットは窓から離れ、またシャワーがバスルームの床を叩いた。
再び流れ出した歌声にホッとしながら自転車を漕ぎだした。
その翌日。
残業をせずに同じ時間の同じ道を通って帰路につく。
今日は一緒に歌ったりしないでおこうと思いながら住宅街を走っていく。
しかし、彼女の家が近付いてきたとき、
明滅する、赤い光。
僕の胸に小さな不安が生まれる。
無意識に自転車のスピードを上げて、彼女の家の傍まで来ると足を止めた。
パトカーが何台も止まり、そして野次馬が何人も集まっていた。
入口には、黄色いテープ。
僕は一瞬強い目眩を覚えた。
まさか、と思った。
野次馬の会話が耳に飛び込んでくる。
「お風呂場で……」
「転んだの? 溺れたの?」
信じられない。
そんなことあっていいはずない。
あんな……あんな美しい声で歌う人がそんな風に……
「―――それが殺されたみたいなの」
―――息が、止まった。
「嘘……! じゃあまだ近くに犯人がいるんじゃないの!?」
殺人? 殺された!?
そんな……そんな……
そんなこと……許せない!!
「……それがね、だいぶ腐敗がすすんでいたらしいわ」
―――え?
いま、なんて……?
「シャワーに当てられっぱなしで、少なくとも何週間かは経っているとか言ってたわ」
え……?
じゃあ、あの歌声は……?
昨日シャワーを止めたのは誰……?
窓に映ったシルエットは…………
―――突然あの歌が流れる。
誰にも聴こえていない。
水晶でも綿毛でもない、粉々に砕け散る鏡のような歌声が、
まるで、
僕の耳元に、
口付けているように―――!
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