ショートストーリー
前から女性が歩いてくる。
まだ遠い。
だがいずれすれ違う。
この歩道は狭い。
二人並んで限界の道幅。
ならばここは男として早めに道を譲っておくのが紳士というものだろう。
この距離でそれを気遣うところが格好良いのだ。
相手に負い目を感じさせないこの距離で。
……!
まさか同時に避けるとは。
これは互いに少し気まずいぞ。
いや待て……彼女は偶然ラインを変えただけかもしれん。
うむ、つい考えすぎてしまったな。
この遠距離で相手を気遣う人間は世界中探してもそう多くはあるまい。
気を取り直して……
なんと……またか。
これはどう解釈したらいいのだ。
彼女も僕に勝るとも劣らない淑女なのか?
この距離で僕のことを気にかけてくれているというのか?
まさか……恋……!?
いやいや待て待て……話が飛躍しすぎだ。
僕の1.2の視力でもこの距離では全身の輪郭以上のことは判別できないのだ。
彼女が仮に1.5でもあの位置から僕に一目惚れするのは無理だろう。
半分くらいの距離なら話は別だが……っと、僕は何を考えているんだ。
はは……自意識過剰は子供のころから治っていない病だな。
冷静に考えろ。
さっき彼女は俯いていなかったか?
となればある可能性に思い至るぞ。
そう、踏みたくない物を回避したのだ。
ガムとか、まぁ色々あるだろう、踏みたくないランキングにはな。
ちなみに僕のトップ3は……いやまぁそれは良い。
そうと判れば迷うことはない。
紳士発動だ。
……面妖な……。
三度同じタイミングでラインチェンジだと……?
これは偶然で片付けるのはいささかイササカではないか?
例えば科学では解明できないことがこの世にはいくらでもある。
いや、違う。
まずは科学的にアプローチをしてこそその言葉を吐く権利があるのだ。
人の人たる叡智に誇りを持とうではないか。
つまるところ人は心理の操り人形なのだ。
あるシチュエーションはそこにおかれたAとBに対して全く同じとは言わずとも近しい思考を迫る。
そのとき二人の性格が近ければ近いほどシンクロしやすいある事象。
その事象とは……“タイミング”だ。
行動の幅、選択肢などというものは元よりそう多くはないものだ。
ただ道を歩いているだけでも、何処にでも行けそうでいてそんなことはない。
ゆえに限定状況に於いて同じ選択をすることは珍しくない。
問題は時期。
たとえば一回目のライン変え。
あれが被った時点で互いの思考はシンクロし始める。
すぐに元に戻すか?
しかし向こうもすぐに戻すかもしれない。
では少し待つ。
すると向こうは動かなかった。
もう少し様子を見よう。
動かない。
よし、ではこちらが動こう。
性格が近いほど決断までの時間も近くなるのだ。
そうか、やはり心乱すほどのことではなかったのだ。
ははは……何が科学では解明できないだ。
まったく、妄想癖は子供のころから治らない病だ。
ならば確実な方法がある。
次。
次にラインを変えるときは僕の勝利だ。
……行くぞ!
むっ、やはりシンクロしたか!
だがそれも想定範囲内だ!
ここですぐさまラインを戻す!
……おお神よッ……!
貴方は僕にどれほどの試練を課すのですか!
まさか彼女が同じことを考えていたとは。
これはどうしたらよいのか。
距離はすでに初手から半分まで縮まってしまっている……。
彼女の顔も判別できる有り様だ。
ここまで来るとお互い合わせる顔がないというものだ。
しかし少々好みだな。
待てよ?
科学では解明できないことが証明された今、人生の不思議を受け入れる時が来たのではないか?
即ち……赤い糸だ。
運命の糸、それは互いを繋ぐ不可視の磁力なのだ。
ならば全てに説明がつくではないか!
N極とS極がその道を違えようとしても無駄な努力なのだ。
二つは引き合うことしかできず、惹き合う為に生まれてきた二分の一の魂なのだ。
それは繋ぎ合わせることでやっと完成する神の設計図なのだ。
……おお神よ……貴方の御心を見誤ろうとした愚かな子羊を御赦しください。
もう、何も恐れることはない。
例えばもう一度ラインを変えてみよう。
……見たことか。
彼女もまるで躊躇なく私に倣うではないか。
その動きたるやまるで鏡のやうだ。
喜びに思わず古い表現が口をつきそうになるというものだ。
彼女は僕を映す鏡なのだ。
……鏡?
そういえばあまりにも動きが似過ぎていないだろうか?
タイミングだけではなく、歩行のリズムも狂いなく重なっている。
視線もすでに紡ぎ合ったまま切れない。
まるで……そう、まるで鏡の中にいる自分。
姿は女性だが、たとえば心を映されているとすればどうか?
常々思っていたが、僕の他者への繊細な気遣いは女性的ですらある。
……もし。
もしこの道が知らぬ間に異界へと繋がっていたら?
僕はもう一人の僕に向かって突き進んでいるのではないか?
そう、「二重存在」……つまり……“ドッペルゲンガ―”である僕に向かって……。
待て待て待て……もしも、もしもそうだったとしたらこの後なにが起きるんだ?
もう彼女とはあと10秒そこらで接触に至るんだぞ。
その時僕はどうなる?
考えたくはない……考えたくはないが……何だこの込み上げてくる恐れは……
まさか……
まさか………
まさか…………
き……危険だ!
避けねば!
……くそっやはり連動する!
何度でも避けてやる!
次こそ!
……ダメか!? ダメなのか!?
ああ、もうすぐそこに……なんだ、なんなんだその笑みは!
その妖艶な笑みの端に見え隠れする鋭い八重歯は何に舌なめずりをしているんだ!
た、魂か?
まさか、まさか僕の魂か!?
やめろ……
やめろやめろ……
やめてくれぇぇぇぇッ―――!
―――すり抜けた。
心臓ごと魂を攫う様に僕をすり抜けた。
終わりだ。
死、だ。
全身から血が噴き出すような熱。
それでいて冷たく塗り替わる皮の下の骨の上の肉々。
嗚呼……
抜け落ちる……
髪の毛が……
白く染め変えられた僕の髪の毛が抜け落ちてゆ――
――あ……あれ?
いや、いや何ともないぞ?
手のひらにも異状はない、視界も歪んでいない。
髪の毛は何本抜いても黒々としている。
噴き出ているのは血ではなく脂汗じゃないか。
肉々(にくにく)?
いや何も変わらない、相変わらずの色白で虚弱な柔肌だぞ?
彼女は接触直前でするりと避けただけだったじゃないか。
…………。
普通に遠ざかっていくじゃないか。
なかなかのプロポーションじゃないか。
さっきの笑顔もかなり好みだったじゃないか。
は……はは……。
そうか……そうか全て僕の勘違いか。
いや、あのシンクロすら初めからなかったのかもしれんな……。
この澄みきった高い空の碧を見ろよ。
吸い込まれるようなブルーから舞う優しい朝の温もりを感じろよ。
なんて穏やかなんだ。
まだ微かに残るまどろみが見せた白昼夢に少しだけからかわれたんだ。
ふ……そんな小さな一幕の物語も、人生の素敵な無意味ってことさ。
日々を彩るのは一本の現実(ドラマ)と数えきれない空想(ショートストーリー)なんだから……な。
―――私の趣味は人間観察だ。
街でひとときの間に出会う人が何を想いどう振る舞うか。
それを観察するのが密やかな愉しみなのだ。
いま一番ハマっているのは、遠くから歩いて来る人に合わせて動くこと。
相手の反応とちょっと気まずい空気にホンのひと時浸る……ふふ、質の悪い趣味かもね。
ちなみに両裸眼2.0の成せる技だ。
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