第4話 サザンカ3


─5月22日 14:15 ???─





「これで、トドメだ!」

[ギイイイイ‼︎‼︎」


 言いながら振り下ろした拳の下で、『キャンサー』は不快な鳴き声をたてた。

 確実に仕留めた手応えが拳から腕へと伝わる。

 そのビリビリと痺れるような感覚を身体中で味わってサザンカはニヤリと笑みを作った。


 その手応え通りに、地面に倒れ伏した『キャンサー』は絶命したらしい。

 証拠に、キラキラとした光の粒が『キャンサー』の緑色の体を分解して消えていく。

 キャラクターの死亡時に現れる恒例のエフェクトだ。

 次第に『キャンサー』の亡骸もその光の粒の1つとなって、空気に溶けていくことだろう。


 それを静かに眺めて、サザンカは大きく息をついた。

 ぐらり、あまりの疲労感に脱力する体。

 それをなんとか両の足で支えて、サザンカはその場に立っていた。


 情けない姿である。

 自分のことながらそう自嘲してしまう。

 まさかこんなステージでこのザマだなんて。もともとそんな大層なものを持った覚えなどないが、面目とかいうやつが丸潰れだ。


 ゲーム世界なのだ。身体的な疲労は少しだってありはしない。

 ……だというのに多大な疲労感がたしかにそこにはあった。胸が? 気が? 心が? 重すぎて足がぐらつくのだ。


 その重さを噛み締めてヒクヒクと頰を吊らせていると、ガサガサと葉が擦れるような音がした。

 無造作に振り返りそちらを見やれば、今まで木の陰に隠れていた少女がその姿をあらわにしているではないか。

 サザンカは慌てて少女に駆け寄る。


「大丈夫だった?」

[はいっ、はいっ! ありがとうございますっ]


 ニッと明るく微笑みかけると、少女はふわりと相好を崩した。

 そのどこか安心したような表情に思わずこちらもホッと胸をなでおろす。

 見たところ目立った怪我もない、サザンカは無事彼女を保護できたようである。


 彼女自身も無事だと言っているわけだし、これは上出来なんじゃないか? とサザンカは自画自賛。

 どうやらひとりのヒーローとしてまがいなりにも立派な活躍ができたようである。

 あとは彼女を保護区域に連れて行く。ただそれだけの簡単な作業をこなせばいいのだ。

 それでヒーローとしてのお仕事は終わり。

 一件落着、完全解決。まさにハッピーエンドだ。


「……とは、いえなあ」


 サザンカはずっしり重たい引き笑いで辺りを見渡した。

 あともう少しで完璧なゲームクリアだ。それなのに一体何が不安でサザンカは顔に陰りをおとすのだろうか。


 まあ、わざわざ説明するまでもないことなのだけど。


「ラストスパートってか?」


 冷や汗を頰に伝せながらもニヤリと笑みを作ってみせたサザンカ。

 その横でNPCの少女が体を強張らせる。


 そう、サザンカたちはいつのまにやらあたりを囲まれていたようだ。

 十数匹もの緑色がずらりとそこに並んでいる。

 言わずもがな、その緑色の正体は先ほど倒した化け物と同じ……、『キャンサー』だ。

 なるほど、さすが虫の姿をしているだけある。音を殺して近づくのは得意らしい。

 いつのまにか、とそう言ったように全く気付かぬまま、少女に駆け寄ってしまった。

 その愚鈍な行動のせいで、だいぶ重たいハンデを背負うこととなるとも知らずに。


 サザンカはドリームスコープの奥で眉毛をへの字に曲げた。


「あーあ、しくじったなぁ……」


 ため息混じりに呟きながら、守らなければならない少女足枷を自分の近くへと引き寄せた。

 軽い悲鳴とともに胸に飛び込んできた少女。

 そのふわりと柔らかな感触にまたバーチャル世界であることを忘れてときめきそうになる。


「……やるっきゃない、か」


 どうにか堪えて吐き出したのは、決意というよりは諦めの色を濃く宿したそんなセリフだ。

 サザンカの淡い期待ではなんとかこのまま敵に会わずに避難区域に立ち返ることを望んでいたのだけど。

 どうやらそれは叶わないらしい。


 ならば悪あがきするしかあるまい。

 グッと身構えたサザンカの周りでゆっくりと、しかしジリジリと、着実に包囲網を狭めてくる怪物たち。


 さて、こうなっては彼らとの戦いは避けられない。

 先ほどの一体でさえ苦戦したというのに。

 この数を、少女を守りながら切り抜けねばならないわけだ。


 少女の身を守るために、どうすればいい?

 サザンカのとるべき最善策とは?


 程よいピンチと逆境の演出に熱くなる体とは真逆に、空回りの思考ばかりが脳内を巡る。

 気合いはバッチリでも策も武器もないのではこの場面をひっくり返すことは不可能なのに。

 サザンカはただ膨れ上がる気合いを持て余す他にない。その熱で焦げ付いた思考がただぐるぐると空を切る。


 輪は間隔を狭めていく。

 片腕で抱き寄せた少女が、グッと縋りつく手に力を込めるのがわかった。

『キャンサー』が近づいてくる。


 一歩、一歩、一歩と。


「ちょっと! ボサッとしてないでくれる?」


 どこかから聞こえたそんな声。

 非難めいて、トゲトゲとした陰気そうな声音にサザンカはビクリと肩を震わせて声の方へ目を向ける、その横で。


 緑色の化け物のうちのひとかたまりが何か大きな黒いものに押し潰された。


[ギイイイイ!!][ゲギギギ……]


『キャンサー』たちはそれぞれの断末魔をあげて影の下に飲み込まれる。

 突然動いた戦況にサザンカが驚くより先に、ぶわりと非自然的な風がサザンカの横を通り過ぎ、轟音とともに露わになった首筋を撫でた。

 なにか緑色の物体が宙をすり抜けて行ったのだと気づくまで、数秒を要する。


 恐る恐るそちらを伺うと、森の木が成す列の隙間。

 そのあちらこちらに無残な『キャンサー』の遺体が点々と散らばっていた。

 おそらく木の幹にぶち当たり、砕け散ったのであろう。

 それはもはや元の形がどのようなものか全く掴めない残骸と化していた。


 空気を食むサザンカを見下ろす何かがある。

 それは『の体制で固まっている……高く長く伸びた黒だ。

『キャンサー』の死骸を振り返るサザンカ。

 その後ろには地獄から這い出た亡者のそれのように手の形をしている黒いなにかがそびえ立っていたのだ。

 ゾワリ血の気が引く。


 しばらくその形のまま固まっていた『黒』であったが、じきに体制を元に戻しシュルシュルとしぼんでいく。……その先で。

 イキナリこんな派手な登場の仕方をしておいて、惨状の原因であるその人物は微動だにしないで佇んでいるのだった。

 顔に嫌という程見覚えがある。そう彼女は、間違いなくサザンカのよく知る人物であった。


「フタツミ……」

「こっちは忙しくしてるってのに、呑気で羨ましいわ」


 サザンカがそこに佇む人物の名前を呼ぶと、その女は嫌味っぽく肩をすくめた。

 最近知り合い最近不本意ながら絡みの多いいけ好かない女。

 そんな彼女の登場にサザンカは半眼になって抗議する。


「そういう言い方はないだろ、俺だってちゃんとこの子守ってたんですぅー」

「そんなのこの邪魔くさい虫野郎をぶちのめせばすぐ終わる話でしょ」


 仲間の死を目前に、標的ターゲットを変更した『キャンサー』たち。

 その造形物じみた瞳に映るのは、長いチョコレート色の髪を風に好き勝手させている背の高い女だ。


 牙を軋ませるような、独特な音を持つ鳴き声。

 それで幾度かこそこそとささめき合う。

 何を相談したか知らないが、どうやらものの数秒で意見はまとまったようだ。

 緑の化け物たちが、剣呑にフタツミをにらんだ。


 スタスタと何の感慨もなく歩いてくるフタツミ。

 その背後で、影が1つ動く。

 つられるように、ひとつ、ひとつ、また1つと、鎌を振り上げた。


 多勢に無勢。四方八方から迫り来る凶器。

 次の瞬間として予想できる光景は普通であれば長い髪の女の死体……、だろうというのに。

 束になって切りかかってくるその蟲どもを大きな『黒い手』で横薙ぎに払いのけ、フタツミはいとも容易くその危機を免れたのだった。

 彼女の後ろにそびえ立つ巨大な漆黒の出現とともに右下あたりの空間に赤い文字が浮かぶ。


 それはヒーローがスキルを使う時、決まって表示される……『スキル名』だ。


[Shadow《シャドウ》 Claw《クロウ》]


 赤い文字はたしかにフタツミの操る黒い手をそう呼んだ。

 ……なにやら手のような形をしたそれは、名前の通り彼女の『影』であるようだ。

 太陽の光とフタツミを挟むような形で、彼女の足元あたりから伸びた鋭い爪を携えた禍々しい獣の手。

 獣、と称したがその正体がなんなのかサザンカの狭い見聞では全くわからなかった。


 鳥の足のように長い指、猫のような細い爪。グニャグニャと揺れ動く掌。巻きつくように絡みついた同じ影でできているであろう気味の悪い文様。

 そして何よりも。その大きさと言ったらサザンカぐらい優に握り潰せてしまうほどだ。

 なにがモチーフなのか、全く見当がつかない。奇妙な形の手だ。


 それを意のままに操るボサボサの髪の、色気のない女……。

 彼女の纏うジメジメと陰気臭い雰囲気と相まって……、ああその姿はまるで幼い日に絵本なんかで見た魔女そのものだ。


「潰れ、ろ!!」


 掛け声とともに勢いよくフタツミが腕を振り下ろす。

 それに合わせるように、真っ黒な影は『キャンサー』の頭上に落とされ、地面を割った。


[ギチチ、ギギ……]


 鈍い振動が空気を震わせる。

 やっぱリーチのある能力は便利だ。HPは低いくせにちょろちょろとすばしっこくて捉えにくい……『キャンサー』のような相手には特に。


 叩きつけられた影の手。

 その地面との接合部から緑色の液体が広がっていく。

 昆虫を潰した時のあのドロドロした体液ではない……。どちらかといえば、人間のそれに近いであろう。

 つまり、色が緑なんかじゃなきゃ下にいるのが化け物なんだか人なんだか見分けがつかない、という具合なのである。


 慣れてしまっているサザンカからすれば大してそうでもないのだけど。

 初見のプレイヤーからすればグロテスクな表現なのだと言えよう。

 これが、広く深く愛されるヒーロー・バースが一時期社会問題になった原因のひとつでもある話は今は置いておいて…。


 それに気分を悪くしたのか、フタツミは顔をしかめて鼻を鳴らした。


 ぺしゃんこに潰されて多少グロテスクになる蟲の死骸。

 その輪郭はもう空気に馴染み始めている。じきに光の粒になって消えていくことだろう。


 尻目にそれを流し見て、フタツミは風に遊ばせたままの髪を後ろへと投げやった。

 一瞬だけ、そのチョコレート色が広がり落ちる。

 サザンカがそれをなんとなく眺めていると、その視線に気づいたのかフタツミはじとりとサザンカを睨んだ。


「簡単じゃないの」

「……あーそ。そりゃあスミマセンねえ」


 何かとサザンカにあたりの強いフタツミは隙あらばこうして突っかかってくる。

 いちいち気にしていてはキリがない。サザンカは適当に相槌をうって顔を逸らした。


「その体たらくじゃあ任せておけないわ。ほら、その役立たずなんかのとこにいないで。こっち来なさい」

[……? は、はい]


 フタツミが少女のほうに目を向けて、そう手でまねくと少女はおずおずとサザンカの元から離れていく。

 フタツミは、そばに寄ってきて背中に隠れるその少女を観察するように見つめながら口を開いた。


「これで14人目……、あと何人だったかしら?」

「…ミッションの重要なとこじゃんか。そのぐらい覚えてろよ」


 そうして投げられたフタツミのセリフにサザンカは思わずガクリと肩を落とす。

 経験回数なんて知らないけれど、この女はヒーローバースを何度かプレイしたことがあるはずだ。

 サザンカと同じくペットで、先輩? のようなものであるわけだから、一回以上は確実と言っていいだろうに。

 サザンカは大袈裟にため息をついた。


「『キャンサー』の討伐とキャンプ客15名の生存」


 サザンカがそらで読み上げた項目はゲーム開始直後にサザンカたちに提示された任務の内容だ。

 ここを覚えていないでゲームの何を楽しむというのか……。

 サザンカは肩をすくめた。


「勝利条件だぞ」

「うるさいわね。私はあんたみたいなゲームオタクとは違うのよ」

「明らかにそれ以前の問題じゃね……?」


 勝つ条件ぐらいおさえておくのが普通だろう。こういうゲームでなくとも、例えばスポーツなんかでも条件を知らないまま始めたのでは話にならない。

 サザンカは呆れて呆れ果ててそれを体全体で惜しみなく表現する。

 しかし、フタツミは何も反応を示さずに……。

 森の奥の奥を見つめていた。


「つまり、あと一人で最後ってことね」

「そーいうこと。……あとはこいつらぶっ倒せばいいワケ」


 はぁ、と息をつくと、フタツミはようやくそれを横目で捉えてフンと鼻を鳴らした。

 やっと返ってきた反応もそんな微々たるもの。

 サザンカは暖簾に腕押し、その言葉の意味を噛み締めてがくりと脱力した。

 その背に、ヒヤリと冷たい冷気が伝う。


「まあなんでもいいけどさ……っと」


 言いながらサザンカは上体を横に傾けた。

 すると、それまでサザンカの体があった場所を緑色の刃が通り過ぎる。

『キャンサー』だ。


 そろそろ遠巻きに見ているのも飽きてきたのだろうか。

 行動を起こさない限り盤上は動かない。賢明な判断だ。


 サザンカもそれを見習ってチラリ左下のタイムリミットに視線を落とす。

 まだまだなんとか余裕はある。…が、サザンカがそう判断するのは『いつもの条件』であった場合ならば、なのである。

 現在、状況に置かれている身としては、早め早めの行動が吉と出るはずだ。


「それ、ちゃんと退治して来てね。私はこの子、ポイントに届けてくるから」

「え、俺ぇ?」


 その判断を先方に伝えるより先に、フタツミの方が口を開いて長い髪を後ろへと払った。

 もんどりうつ形となってしまったサザンカはそれに素っ頓狂な声を上げる。


 ─俺よりそっちのが相性いいだろうがよ。

 そう思わずにいられなかったから。

 素手素足しか武器を持たないサザンカよりフタツミが戦った方が効率がいい。……火を見るより明らかだろうに。


 フタツミは首を傾げた。


「なによ嫌なの? あんたこのゲーム好きなんでしょ?」

「……あ、いや、まあ。そうなんだけど、」


 眉を寄せて、本当に訳がわからないといった表情で。

 ……また嫌味か何かで返されるだろうと身構えていたというのに。

 どうやら珍しく気を遣って? くれた? らしい。……たぶん。

 いやどうせめんどくさかっただけなんだろうが、そういう風に言われてしまうとサザンカとしては無下にできない。


 半秒だけサザンカは思考をめぐらし、結局色々考えることに疲れてしまった。

 きゅっと顔にしわを寄せ苦い表情を作り、コクコクと頷く。


「……りょーかい。そっちこそちゃんと届けろよ」

「どーぞご心配なく。言ったでしょ? あなたとは違うの」

「サヨーでゴザイますか。それなら安心だなぁー」


 ハッと鼻で笑ってわざとらしくため息をつく。

 フタツミはそんなサザンカのことなど見向きもしないまま、少女の背中を押した。

 戸惑うようにサザンカのほうに視線をなりながらも、少女はフタツミに導かれるままに足を進め始める。


 少女に反論がないことを確認して、フタツミはくるり踵を返した。迷いも淀みもない足取りでスタスタと去っていく、フタツミ。

 その背中に向けて。

 最後にサザンカは釘を刺す。


「ただ、こんな程度でゲームオーバーなんて、シャレになんないからな」

「わかってるわよ」


 その釘をいとも簡単に受け流しフタツミはヒラヒラと手を振った。

 そのまま振り返ることもなく少女を引き連れてこの場を後にする。

 無論邪魔に入る『キャンサー』らを影の手で掻き分けながら……。


 鋭い獣の爪に抉られて、『キャンサー』たちは醜いうめき声をあげる。

 その一瞬の断末魔の合唱を背中に彼女は悠々と森の奥へと消え去った。

 無残に転がる緑の影を引きつった笑顔で眺めながらサザンカは肩を震わせる。


 やはり好きにはなれない女だ。

 やっぱお前なら楽勝なんじゃねえか、とか。任せるって言ったくせにこんなことをして情けのつもりか、とか。

 言いたい言葉がただ無闇に頭の中に溢れかえる。


 サザンカを気遣ってこの役を任せたのではないのか。そうならそれでもう少し気を遣い切って欲しいところだ。

 サザンカは守らなきゃならない少女の存在から解放されたらそれだけでこの怪物たちと渡り合えるのに。

 なのに、こうして去り際にお茶を濁したりして……。全く無駄なことをしてくれたものである。


 フタツミのその行動を口惜しく思いつつも、その考えはただの強がりだとどこかで苦笑いする自分がいるのがわかる。

 グルグルと巡るモヤにサザンカは顔を歪めた。


 珍しく冷静に、こんなことで心を乱すなど不毛であると判断できたからである。

 兎に角認めたくないが、心底腹立たしいことだが、今回ばかりはこの女に感謝してやらなくもない。


 ──あーあ。……クソッタレたスキルなんかでさえなきゃ、俺は。


 心にもない謝辞を思わなくて済んだのである。

 そのことがどうにも悔やまれてならないが…。

 悔しさに浸るのはこの後だって遅くはないだろう。


「さてと…、」


 呑気に物思いにふけってる場合ではない。

 先ほどもそれで痛い目を見たのだから。もう同じ轍は踏まないぞ。


 サザンカは息を吐いた。

 こんな簡単なステージで躓いてはいられないのだ。

 サザンカにはサザンカの意地がある。

 このゲームの中である以上……。

 である以上、ただで負けるサザンカではないのだ。


「とっとと片付けるぞっ!」


 サザンカは自分のもう片方の掌に拳を叩きつけた。

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