第2話 サザンカ2


 ─5月22日 14:05 ???─




 ヒュッと空気が細く鳴く。

 迫りくる刃から少女を守るため、サザンカは咄嗟にNPCの少女を軽く突き飛ばした。


「危ないっ!」

[きゃっ]


 地面に倒れる少女と反動で傾いたサザンカの横を、その緑色の鎌が振り下ろされた。

 このまま少女を庇いながらでは分が悪い。

 サザンカは傾いた体のバランスを素早く整え、刃を振り下ろした相手の、隙の多い胸ぐらに突進した。


「っ……!」

[ギギギ]


 現在のサザンカの身体能力は現実のそれとは違う。

 数十、数百倍にも跳ね上がったサザンカの体当たりはいとも容易くその異形を宙に浮かばせた。

 トラックに撥ねられたが如く、異形の影は体をくの字に曲げて一直線に飛んでいく。

 数秒の浮遊の後、立派にそびえ立つ森の木にぶつかりうめき声のような気味悪い声を吐いた。


「っし、これで……、」

[ギギギ、ギギギギギギギギギ]


 とりあえずこれで少女を巻き込む可能性の低い場所で戦闘を行うことができる。

 サザンカはほっと息を吐き、少女を振り返った。


「どっか隠れてて! これ終わったら避難区域に連れてくからっ!」

[……は、はいっ]


 少女が頷いたのが見えたからなのか、ただ言い捨てただけだったからなのか。

 サザンカは少女が口を開く前に走り出していた。


 異形が飛んで行った軌跡をたどるように大地を蹴ったサザンカ。

 その視界の向こうでズルズルと体を起こす異形の姿があった。

 ああだからサザンカは。

 そいつが、完全に立ち上がる前に。


「うらァ!」


 拳を、叩き込む。


 岩をも砕く、とその言葉通りにサザンカの拳は太い木の幹を見事に粉砕してみせた。

 支えを失って倒れてくる大木を器用にかわし、何とかその衝撃を免れた異形は一旦飛びのいて距離を取る。

 耳を塞ぎたくなるほどの轟音が鳴り響く。

 その音はサザンカの小さな舌打ちをかき消して閑静で森の中に溶けて消えた。


 ざわめく森。

 この騒ぎを聞きつけたためか、あののどかな鳥たちの声はいつのまにか消え失せている。

 だからなのだろう、こんな大きな木が倒れたというのに、もはや逃げ去る生き物の姿は1つも見えない。


 何もかもがいつの間にやら息を潜めていた。

 故に、轟音が鳴り止むと次に空気を満たしたのは小さな風の音と静けさ。

 じいっと相対する2つのどちらとも動かないものだから、その静けさはまるで永遠のようにゆっくりと流れたのだった。


 サザンカは睨み合うもう1つをじっくりと観察する。


 見れば見るほど、馴染みのある姿をしたそいつ。

 サザンカがこのゲームをやり始めて長いから、……ではない。

 サザンカの方をギョロリと見つめる化け物は、きっと誰もが一度は目にしたことがある、そんな形をしていた。


 緑色の体、長い触覚、逆三角の顔。そのどれもが異様な形をしているが、1番に目を引くのは両手に携えた鎌、だろうか。

 携えた、と言ったがそれは手に持っているわけではない。手の部分が鎌になっているのだ。

 ギザギザとした鋭い刃はその見た目からノコギリのような凶悪さを表している。


 そう、それはまるで幼い日に見たあの昆虫の。

 見つけるたびにその胴に比べて細すぎる脚を、指でつまんで引っこ抜いた。その悪趣味な遊びの被害者、……カマキリのようで。

 いや、その姿はまさに二本足で立つカマキリそのものだ。


 この異形の名前は『キャンサー』。

 凶悪な鎌を振るう、恐るべき存在。

 ──ヒーローの倒すべき、悪だ。


「ったって……」

[ギイッ!]


 軽く片頰だけで苦笑いしたサザンカ、そのため息を合図に『キャンサー』が動き出す。

 強く大地を蹴ってギュッと間合いを詰める。


 高く振り上げた凶器が。こぼれ落ちる木漏れ日を受けて鈍くきらめいたそのギザギザとした切っ先が、少し後ろに下がったサザンカの首元を通り過ぎる。

 しかし一撃を回避できたところで油断はできない。次の瞬間にはもう片方がサザンカの方へと迫っていたのだから。

 それを避けられたなら次の鎌を。もう片方を、さらに追い詰めるようにもう一撃、そしてまだまだ……、と言った具合に。

 緑色は何度も何度もサザンカの目の前の空気を切る。


 もはやリズミカルとさえ言える一定の感覚を持って高速に繰り出される刃を、サザンカは一心不乱に退けていた。

 右の刃がすり抜けたあと、一拍もおかずにすぐさま左の刃がサザンカを掠める。


「どうしろってんだ、よ!」


 一瞬たりとも気が抜けない今の状況に、サザンカはギリリと奥歯を鳴らせた。


 目を剥くほど早いテンポで繰り出されるそれだが、何も別にしっちゃかめっちゃかに振り回しているわけではない。

 その軌道はたしかに数秒前までサザンカの急所のあった場所を辿っている。


 滲みだした引き笑いに、か細く吸った息がヒヤリと熱のある喉の奥を冷ました。

 普段から回らない頭で、この危機的状況をサザンカは打破する方法を導き出すことができるのだろうか。

 甚だ疑問なところなのだが、今のサザンカにはそうすることしか手段がないのが現実だった。


 ──だって俺は今……、


 その鋭利な刃が自分に当たらぬようにうまく鎌を避けながら、サザンカは弱音にも似たその言葉を内心でつぶやく。

 どうしたって惜しまれてやまないのだから仕方がない。

 長すぎず短すぎないサザンカの人生で、こんなに悔しいことがあっただろうか?


 ……いや、あったか。それ以上は幾らでもあった。2つの手の指で足りないくらいには。

 でもそれでも、これだって歯がゆいことに変わりはないのだ。

 サザンカは歯を噛み締めてこの悔しさを表情で示した。

 それと、緑色の異形が両の腕を高く振り上げたのはほとんど同時のことだったように思う。


 流れるような連撃のループに、突然加わったその異質。それにサザンカはハッとして散漫だった意識を引き締めた。

 しかしときすでに遅し、思考にかまけていたせいか一瞬反応が遅れる。

 そんなサザンカのことなど御構い無しに、2つの刃は容赦なく襲いかかってくるのだ。


 一瞬の遅れが命取り。焦るあまりにサザンカは思わず姿勢を低くし、それを躱す。

 大ぶりな一撃を躱す時のように、大袈裟に。

 こんな体制では今の一撃を避けられても次は難しいであろうことが目に見えてるというのに。

 しまっただなんて思っても、後の祭りだ。


[ギギィ!]


 ニヤリと、笑う口さえないだろうに。

『キャンサー』は顎をギチギチと動かして、確かに『笑って』みせた。

 全身が粟立つハッキリとした感覚があった。

 ……あった、のだけど。サザンカはその感覚さえ感じ入ることはできない。

 そのいとまさえなかった。

 なぜなら、サザンカの上を通り抜けた刃は急に方向を変え。


 もはや頭上に振り下ろされただったから。


「っ……!!」


 ──バキバキバキバキッ!!


 途端、弾けるような音がした。

 その轟音はあまりにサザンカの近くで鳴り響いたもので。

 サザンカは降りかかる木の破片などよりも、耳をつんざくようなその轟音に顔をしかめた。


 振り下ろされた片腕の鎌。

 サザンカはそれを咄嗟に横から殴り払ったのだ。

 強引が過ぎる力技ではあるが、どうやらそれが功を成したようでサザンカはまだここで息をしている。


 そんな幸福にほっと胸をなでおろしつつも、ふと目をやるとヒーローの剛力で硬い木の幹に叩きつけられた『キャンサー』の片腕は、嫌な音を立てて折れ曲がっていたた。


[ギイイイイィィイイィイイイイイ!!]


 奇怪な化け物の声が森の中に響き渡る。

 風に揺られた木々の葉が、まるでその声に揺られたかのようにガサガサと音を立てた。

 一瞬だけの二重奏、その真ん中に。


 サザンカの身代わりとばかりにひしゃげた木の幹は無残な姿でそびえ立っているのだった。

 思わずたらりと冷や汗が顎を伝う。


 その雫が落ちてしまう前に。

 サザンカは地面に接していた両の腕に力を込めた。

 それを軸にして、ぐるりと大きく旋回した脚が化け物の体に吸い込まれて炸裂した。


 キギッ……、短い悲鳴とともに投げ出される『キャンサー』。

 しかし、その体が再び地面にぶつかることはなかった。


 異形の影は、ある一定のところまで飛ばされたとき、空中にしたのだ。


 バザバサと煩わしいほどの羽音が鳴り続く。

 そう、『キャンサー』は翅を持っていたのだ。

 カマキリの姿をしていておいて、その翅はどうやらジャンプ力を元に滑空するため使う彼らのそれとは違うようだ。

 幾らか操作ができ、滞空も可能らしい。


 現に今、この化け物は宙に浮いたまま停止している。

 一度だけ不安定にぐらり大きく傾いたものの、どうやら調子を戻したらしい。すぐにその体は揺らぎをなくし、ピタリと動きを止めるのだった。


 ギョロリ、その頭部についた大きな目がサザンカの方を向く。

 ガラス玉のような、プラスティックでできた作り物のような、丸くむき出した楕円形の瞳。

 その不気味な目がどこか恨めしそうにサザンカを睨んだのだ。


 ゾワゾワと全身の毛が逆立つ。

 背筋を撫ぜた冷気の塊に、奥歯を噛みしめる。


「──ああ、もういつもならこんなんじゃないのに……」


 外気に触れることなく、ただサザンカの口の中で呻くように低く鳴ったそのセリフは、誰に拾われることもない。

 サザンカの胃の中に落ちていくのだった。


 相手は片方使えなくなったところで、まだもう一本武器がある。

 折れてなくなった腕の反対についたもう一つの鎌。

 加えて言えば、キャンサーには牙もある。足の鉤爪だって馬鹿にできない威力を誇るのだ。


 対してサザンカは?

 両の手を広げてみたって何も落ちない。握ってみても肉の感触しかない。

 何度確認したところで素手は素手。手ぶら、丸腰、……つまり一切の武器を持っていないわけだ。

 故に、今この時サザンカの持ちうる武器は、己の身一つということになる。


 ──身体強化スキルでも持ってりゃ別なんだけど。


 サザンカは顔を歪めた。

 チラリと浮かんだ未練がましい言葉は、運命に毒づくような血気だったものではなく。

 もはや切実な願望に近い。

 その情けなさに、唇を噛んだ。


[ギィギィッ!]

「っ……!!」


 その刹那。

 しばらく距離を取ってこちらを伺っていた相手が切りかかってくる。

 サザンカは小さく舌を打って、襲いくる敵を迎え撃つため身構えた。


「どうしようとか、言ってる場合じゃない、か」


 その前にまず行動だ。

 ヒーローらしく。そう、【ヒーローらしく】あるためには。


 何よりこれはゲームなのだ。遊ぶために、楽しむためにプログラムされた世界。

 ─楽しまなきゃ、損でしょ。


 拳を胸の前で軽く振るい、心身両方に気合いを入れ直す。

 ピンと張りつめた空気がこの場を満たす。

 その、視界に。

 ……チラリ映り込む小さな影があった。


 立ち並ぶ木々の向こうに見えたそれに一瞬だけ目を向ける。

 たった一瞬だけ。それだけの短い間であったが、その正体をサザンカはハッキリと知ることができた。


 それは……、

 だいぶ離れた位置からこちらを伺う、少女だ。

 彼女が不安げにこちらを見てる。

 役割どおり、『守られるため』に浮かべられた表情に、『守られるため』に弱々くこちらを伺う少女。


 それはただ役割。

 それはただ幻影。

 彼女はただのNPC。

 わかってはいるが、この『場面』に立つサザンカを奮い立たせるのには十分だった。


 グッと拳に力がこもる。


 NPCの作り物。……それでも彼女は、『ヒーロー』の助けを待っている。

 その事実に変わりはなかった。

 ならば。

 たから、ヒーローとして。どんなに無力であっても彼女を守らねばならない。

 そのためにどんな敵にも立ち向かわねばならないのだ。


 お安い御用である。この化け物にに立ち向かうぐらい。

 いや『キャンサー』だからではない。それがたとえ敵わないような強敵だとしても。実に簡単なことだった。

 なぜって? 恐ろしさなど、そこにあるはずがないからだ。

 1つも震える必要性がなかった。


 ヒーローだから?

 いやいや、違う。もっと当たり前のこと。



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