1話 誰もが

第1話 サザンカ1

 ─5月22日 14:02 ???─



 青々とした葉を所狭しと茂らせる木々が規則性なく立ち並ぶ、森の中。

 わずかに湿った空気がその景色を包み込んで、目に眩しいほどの深緑に水滴を走らせた。


 チュンチュンと囀る鳥の声や、ひらひらと舞い遊ぶ蝶の姿。

 それが、この森の平穏さを象徴している。

 暖かな陽光のさす、そんなあまりにのどかな風景。


 そこをブワッと一陣の風が吹き抜ける。

 突如空気を流したその風は、艶やかな木の葉を擦らせて音を立てた。

 ザワザワと騒がしくなる閑静な緑色の世界。

 予想外に強い風だったため、サザンカは思わず目をすぼめた。

 当然のことだが、その瞬間視界の半分以上が瞼に遮られて見えなくなる。

 たった一瞬のこと。だが……──丁度その時だ。


「っ、……うおっ」


 ギラギラと輝く一閃がサザンカの眼前を通り抜けた。

 ノコギリのような形をした切っ先が高い音で鳴いて空気を切る。

 風とともに流れたその一撃。

 それををサザンカは危なげに重心をずらし、後ろに倒れこむ要領で回避した。


 ヒヤリ、と鼻筋に冷気を感じたものの、なんとか皮一枚のところでサザンカは後ろに飛び退くことができたらしい。

 そのことにホッと息をつくいとまでさえありはしなかった。

 途端すっと温度を下げた肝が、脳内に大音量で警報音サイレンを鳴らす。

 サザンカは大袈裟に早鐘を打つ胸をなだめつつも、『相手』と距離を取った。


「あっぶね……、やっぱ速いなこいつ」


 ヒヒッと口元が吊り上がるのを感じて、サザンカは浅く震える息を吐いた。

 冷ややかな汗が首の根を滑り落ちる。

 危ないところだった。ちょっとの油断が命取りだと、長年の経験で知っているはずだったのに。

 熟練者とは到底思えない自分の間抜けな失態に、サザンカは未だ力の入らない拳を握りしめた。


「……でもまあ、こうじゃなくちゃねえ」


 それでも強がって、わざとらしく無理矢理に口角を上げたサザンカ。

 その姿を『相手』は見ているのか、そもそも見えているのかすらわからないが。

 サザンカを少し高い位置から見下ろすその影はギョロリと目を動かして、もう一度その刃を振り上げる。


 そんな『相手』から視線は外さないまま。

 地面と足をすりつけるようにして、半歩後ろへ。

 白刃の届かぬ位置へと移動する。

 すると、それを見咎めた相手が同じ距離を詰めてくる。

 一歩踏み込めば、その手の刃が届いてしまう距離まで。


 じりじりと互いに距離を探り合う。

 サザンカは後ろへ、相手は前へと、一歩一歩。


 一切の音も立てず、もう一歩踏み出した『相手』。

 それにグッと身を強張らせ身を引いたサザンカの、その背に何かがぶつかる。

 木や岩などの無機質な硬さは感じない。むしろそれは柔らかく、温かな温度さえあった。


 きゅっと頼りなさげにサザンカの服の裾に縋った、その温もり。

 どうやらいつまでも睨み合っているわけにもいかないらしい。

 サザンカはこの温もりを、守らなければならないのだから。


 サザンカは唇を噛み、それを後ろに庇うようにして身構えた。


「大丈夫、俺が守るから、さ」


 ささやくような小さな声。

 それにはっとしてサザンカの後ろで顔を上げたのは、中学生だか、高校生だかぐらいの、少女だ。

 セーラー服に身を包んだ肢体の上に乗っているのは茶色っぽい軽めの色をしたショートボブの髪。

 くりくりと大きな目を携えたついつい守ってあげたくなっちゃうような、幼めの可愛いい顔立ち。


 その見目はだいぶ整っており、普段のサザンカならば、間違いなく声をかけているであろう。

 ……しかし、今。サザンカは目の前の相手にばかり集中して、少女の方に見向きもしない。


 そもそもその相対する影がサザンカにそれを許してくれないのだから当たり前だが。

 状況が状況だ。ナンパなんてしている余裕はない。

 ただ、サザンカが少女に見向きもしない理由はそればかりではない。

 もう一つ、とても簡単な理由がそこにはあった。


 サザンカは、わかっていたのだ。

 知っていた、理解していた。だからこそ。

 サザンカと彼女の間に感情が生まれることは、ありえなかった。


 大丈夫だと繰り返すサザンカの声に軽く目を見張り、服をつかむ指に僅かに力を込めた少女。

 おずおずと息を吐き、震える喉を鳴らした。

 現実離れした、星を散りばめたような黒い瞳がサザンカを上目で見上げる。

 その上ずった声は弱々しく、ただひたすらにに適していた。


[ホントに?]


 少女の形をした『幻影NPC』は、潤んだ瞳でサザンカの背中に張り付いた。

 ただ、『守られる』ために。

 そういう役を、全うするために。

 このヒーロー・バースの世界においてこの少女はそのためだけに存在するキャラクターだった。



 ……ああ、うっかり恋にでも落ちてしまったらどうしてくれるんだろうか。


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