三章 ヒーローを築く

プロローグ

イチゴ 1

 

 ─いつかの朝─




 心地よい無音が溢れている。

 なんの混じりけもない、耳に痛いほどの静寂だ。


 広い部屋だというのに、その中にはたくさんの物が存在しているというのに。

 全てが息を潜めて、絵画にでも描かれたそれらのように時を止めていた。


 実際に壁の高い位置にかかった古びた時計が沈黙しているから、余計にそれが顕著だ。

 この木目調の時計は、いつもはコチコチと煩い秒針の音を響かせている。

 だから今この時も同じように騒がしい秒針をならせているはず……、だというのに。

 今は静かに壁に佇むだけで、どうやら時間を刻むことを忘れてしまっているらしい。

 毎日のそのルーティンワークですらこなせないそいつはまさに生粋の役立たずといえよう。

 ……まぁ、これはその騒音にしびれを切らせた彼が、数十日前に原動力である電池を無理矢理に奪い去ったことに起因するのだけど。


 こんなゴミ同然の機械のことなどどうでもいい。

 それがいなかったところで全く支障はないのだ。細かい時間こそわからないが、朝昼夜ぐらいは判別できるのだから。

 現に部屋の外にはもう朝日が差していて、小鳥や風が爽やかに1日の始まりを唄っていることが、カーテンの隙間から漏れ出す光でうかがい知れる。

 の、だけど……。

 この部屋の分厚いガラス窓はピタリと丁寧に施錠されている。

 そのため、外からの音も綺麗に遮断していて……。


 だから空気が震えることはない。

 だから締め切ったカーテンは揺られない。

 だからその綺麗に静寂は破られない。

 だから彼は満足そうに無音の息を吐く。


 彼は今、目を伏せたまま、部屋いっぱいに溢れる無音の中に身を沈めている。

 静かな世界にはなにもなかった。彼以外の誰一人存在しない。

 と言うことはつまり邪魔なものは、何一つありえないということ。

 ここに存在するのは無音と彼の二人きり。

 これ程の幸福が他にあるだろうか。

 この静寂以上に美しいものが他に在るだろうか?


 現に風の音一つしない空間の中。息を殺して、物音ひとつたてず身を横たえる……。

 たったそれだけで、雑音ノイズに侵された体が今この瞬間に浄化されていくような神秘的な感覚さえあった。

 馬鹿馬鹿しい話だが、こうしているうちに己の身でさえ、この『無音』に溶けて、その一部になっていく。

 そんな狂言じみた錯覚さえ心地よい。

 触れれば壊れてしまうような、繊細な無音の世界。

 儚く脆いそれを、壊してしまわぬようにそっと。あくまで静かなままで彼は口元を歪めて笑みを作った。


 ずっと、こうあればいいのに。

 ここだけじゃなく世界中が、ずっと……、


 ああ、だというのに。丁度そんなことを思った時だ。

 この完璧な静寂に亀裂が走ったのは。


 それはカラカラと遠慮がちに小ぶりの車輪が地面を転がる……、乾いた音。

 記憶の片隅に確かに覚えのある音だ。

 部屋の外から微かに鳴るそれが、美しく繊細な無音をあっけなく打ち砕いてしまった。

 聞こえるか聞こえないか、わからないような小さな音だったが、どうやらこちらに近づいてきているようで次第に音が大きくなってゆく。


 イチゴはゆっくりと瞼を持ち上げた。


 もともと浅い眠りだったせいだろう。

 意識の覚醒は早かった。

 イチゴの中にあったのは微睡みに漂う時の不明瞭なものではなく、ハッキリと冴えた思考。

 それでならば音の正体にあたりをつけることなど造作もないことだった。


 瞬時に答えを出して、イチゴは寝転んでいた上体を起す。

 意識の覚醒はだいぶ早いものであったが、どうやら身体の方はそうもいかないらしい。

 唐突に外気に晒された瞳が映したのは、ぼやぼやと輪郭の掴めない景色。


 半秒ほど、そのまま焦点の合わない状態が続いた。

 しかしイチゴは動く気もないのか、ただ黙したまま、正常な視界に戻るその時を待ち続ける。


 次第に霞が払われ、鮮明になっていく視界に映り込んだのは、湿ったコンクリートの狭い牢屋の壁ではない。

 いささか煤けてはいるが、高く白い品のある天井だ。


 フカフカとした上等なソファーから体を起こせば、そこにあったのは地下室とは違う、広々とした空間。

 そう、ここは常時イチゴが閉じ込められている冷たい、しかし騒がしいあの部屋ではなかった。

 昨日今日の話ではない。しばらく前のことだ。イチゴはあの狭い部屋から解放された……。


 あの頃の騒がしく忌まわしい毎朝を思い出してイチゴは今手元にある目覚めの尊さを噛みしめる。

 これとほぼ同時に、外から聞こえ続けていた小さな音が止むのがわかった。


 響いていた音が止まってしまって、無音に帰った部屋の中。

 その空気を再び揺らしたのは軽いノックだった。

 この扉に続く廊下を歩いてきたその主は、どうやらイチゴに用があるらしい。


 しかし、ノックされたに関わらずイチゴはなにも答えないまま……。

 それどころか、視線さえくれずにのびのびとした大あくびを一つ浮かべる始末である。

 まだ寝ているとでも思って帰ってくれればいい……。そんな淡い思惑があったせいだ。


 結局いつまでも返事が返らないことにしびれを切らせたのだろうか。

 ややあってギィギィと扉の片方がきしみ始めるのだった。

 半分開いた扉。その戸口からすっと顔を出したのはいつものエプロンドレスの少女だ。


「餌だよ、イチゴ」


 かっちり固められた無表情のまま、おきまりのセリフを吐くその少女、和夢。

 イチゴは不機嫌に舌を鳴らした。


「いらねえ、帰ってくれません?」

「はいるよ」

「帰れって言ってんでしょうが」


 そう言って睨むイチゴの視線など御構い無しに……、そもそも聞く耳すら持たない様子でズカズカと和夢は部屋に足を踏み入れてくる。

 餌だ、そう口にした通り彼女が押しているのは重厚そうな木製のレストランカート。

 ところどころに金の装飾をちりばめたその台の上に乗っているのは木目調の食器だ。

 綺麗に並べられたそれらの蓋を開ければ、ほかほかと暖かな料理たちが姿を表すのだろう。


 その様子を目に浮かべて、イチゴは何故か眉間のシワをさらに深くした。


「邪魔くせえな、いいから失せろ」

「後ででもいい、ここ置いとくから」

「捨てといてくれます?」

「食えって言ってんだろ」


 先ほどのイチゴのセリフと全く同じトーンでそう言って和夢はイチゴを睨んだ。

 どろりとした漆の瞳がイチゴを捉える。

 そこには有無を言わせない、というよりは有無を聞く気がないのだという意思がはっきりと浮かんでいた。


 そのまま、睨み合うこと数秒。

 先に動いたのは、和夢のほうだ。

 軽く息をついて、イチゴの言葉とは反対の行動を始める。

 カツカツと硬い革靴を鳴らして、イチゴから見える位置にある窓際のテーブルのそばにカートを押していく少女。

 イチゴはただ苛立った様子で忌まわしげにその様子を眺めていた。


「三食餌もらえるだけいい身分だと思うけどねぇ。何が不満なんだか」

「黙れメイド人形。全部に決まってんでしょうがよ」

「畜生風情が。いいから文句言わずに食えよ、いちいちワンワン吠えやがって」


 大人しい見た目とまだ幼い声には似合わない粗暴な言葉遣いで、ふんっと鼻を鳴らした和夢。

 それにイチゴも縊り殺さんがばかりの視線を返す。


 外には清々しい朝の風景が広がっているというのに……。

 あまりにそぐわない空気がこの部屋には満ちていた。

 まあ、締め切ったカーテンが陽光を遮っているせいで、この部屋の中は夜とさして変わりは無いのだけど。

 それにしても険悪がすぎるだろう。


 和夢は手際よく机の上に料理を並べながら、呆れたように肩をすくめた。


「ボクは別に餓死して死んでくれてもいいんだ」


 ……でも。

 和夢はそう溜息のような言葉を続けて。忌々しげにこちらを睨み、二の句をつぐ。


「お前が死ぬとボクの職務怠慢になるじゃんか」


 和夢はそう吐き捨て舌を打つ。

 そう、この幼い少女の纏うエプロンドレスは伊達でもコスプレでも無い。

 その年齢に反して和夢はこの屋敷の主人、倉木総司郎に仕えるまごうことなき使用人であるのだ。

 そして、彼の飼うすべての『ペット』の面倒を任されている。


 その細腕と小さな体躯で、『ヒーロー』全員の体調や食事の管理、コンディションの確認・記録などなど。

 主人に仕える通常の職務の他にも、多くの仕事をこなしているわけだ。

 まぁつまりまだ幼いながら、なかなか忙しい毎日を送っているわけだ。


 しかし年若いからといって案ずることはない。その働きぶりはまさに大人顔負けと言える程だ。

 丁寧な仕事も、意欲的な姿勢も、どれを取っても評価に値する。少なくともイチゴは評価している。


 まぁ、自分たちを畜生扱いし、無作法で手荒な手段と態度はいただけない……。

 だから突然評価した部分からその分を差し引かれるわけで。するとどうだ、彼女の全体的な印象など底辺だ。


「クビにでもなってろ」

「じゃあお前はあのクソもやしご主人様にでも手を焼かれてるんだね」


 イチゴがそう嘲るように言えば、和夢は無表情のまま応える。

 言いながら開いた重たいカーテン。

 そこからこぼれ出す燦々と照る朝日に目をすぼめながら、和夢は息をついた。


「お前とも長い付き合いだしね。もしそうなった時は葬式ぐらいは出てやるから安心しな」


 そんなゾッとしないようなことを口にして。

 和夢は振り向いた。

 動こうとしないイチゴを咎めるように、その黒曜の瞳がすっと冷たく細められる。


「食い終わったら集合、忘れないでよ」


 イチゴは騒しいのも煩わしいのも大嫌い。

 無音をこよなく愛し、静寂を最高の美とする男だ。

 神経を逆撫でる邪魔な音が嫌い。それが大きければ大きいほどに。


 ああ、だというのに。

 それをわかっているくせに、この無粋なメイドはイチゴを無理矢理にそこに押し込める。

 煩わしい騒音の中に……、イチゴを連れて行く。

 対するイチゴはろくな抵抗もできないまま、舞台に立たされる。そういう運命にある。

 非常に腹ただしいことではあるが、おそらく今日この1日、彼の元に静寂が戻ることはないだろう。

 この騒がしい1日は彼を苛立たせ、きっと最後には……。


 イチゴは舌を打った。


「雑音どもめ」



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