第6話 フタツミ4


 ─5月14日 24:50 倉木邸広間─




「あの、ちょっと待ってっ!」



 背中越しに鳴った低音。

 それは突然に空気を揺らして、真夜中の暗い廊下によく響いた。


 少し驚いて後ろを振り向けば、サザンカがこちらを見つめているではないか。


「……なによ。まだ何かあるの?」

「うーん、なんつーかそう大したことでもないんだけどさ」


 訝しげに眉を寄せれば、サザンカは歯切れ悪くそう言って頭を掻いた。

 ……一体なんの用があるというのか。

 昨日からの寝不足のせいもあり、ずっしりと重くなった体。

 ふざけた課題はもう終わったのだ。フタツミは今すぐにでも体を休めたかった。


 用があるなら明日にして、そう言おうとサザンカに向き直ったが、音にするその直前で口を閉じる。

 どうやらそうもいかないらしい。

 ピンと張られた空気の糸。そこには一寸の緩みも感じなかったから。

 これはからかいやじゃれ合い、世間話の類ではない。そう察することは難しくなかった。


 ならば、また長くなる話題だろうか。途方もない疲労感が押し寄せてフタツミははあっと大袈裟に息をついた。

 腕を組んでサザンカと相対し、次の言葉を待つ。

 逃げたって逃がしてくれないなら、無駄に長引かせるよりも決着をつけたほうが早いだろう。そう判断したからだ。


 サザンカがうろちょろと視線を泳がせて、数秒。

 相対する男はようやく口を開いた。


「えっと、昨日はその、悪かったな、って」


 おずおずと照れ笑いのようなものを浮かべて切り出されたその言葉。

 それに、フタツミは虚をつかれたように固まった。

 何を言われているのか、一瞬わからなかったのだ。

『昨日』、その言葉を頼りに謝罪される理由を探して、夕どきにあった一悶着のことだと思い当たった。

 フタツミは軽く瞠目する。


「は……?」

「俺も冷静じゃなかった。……その、ごめん」


 サザンカがもう一度頭を下げて、謝罪の言葉を口にする。

 しかし、フタツミは何も答えられないまま、軽く身を引いたのみだ。

 状況があまりうまく呑み込めなかった。

 謝られる理由はわかったが、そういうことじゃないのだ。


 固まってしまったフタツミ。

 こちらから返答がないことを不安に思ったのか、サザンカはチラチラとフタツミの方を伺ってきた。


「あ、あの、顔大丈夫? もしかしてまだ腫れてたりする? だったら……」

「……別に」

「そっか、ならいいんだけどさ」


 どこかホッとしたように相好を崩して、サザンカは息をつく。

 それを境にプツリと会話が途切れ、静まったようになる暗い廊下。

 少々驚いて固まっているフタツミと、無言の空気に耐えられずに冷や汗を垂らすサザンカだ。

 どうにも嫌な空気である。


 フタツミはめんどくさそうにひとつ息をついて、腰に手を当てサザンカをまっすぐに睨んだ。


「なんなのよ、急に」


 それはジロリとどこか疑わしげな瞳だ。

 脈絡もなくひょっこり頭を出したこの話題。

 フタツミからしてみれば不意をつかれたようなもので。

 そこに、謝られるなんてカケラも思っていなかったことも加えて、正直訳がわからないのである。

 サザンカはそんな懐疑の視線を不思議そうに受け止めて目をしばたかせた。


「いや、悪かったなって思ったから」

「……なんで急にそんな事思ったのかって聞いてるのよ」

「え? ああいやいや別に急に思ったんじゃなくてさ」


 弁解するように手をバタバタと胸の前で降って、サザンカは狼狽した。

 そして言いにくそうに一拍をおいて、口を開く。


「昨日部屋に戻ってさ。頭冷やしたら、そのカッコわりぃなって……」

「……だから?」

「そうそう、女の子に顔面パンチとかシャレになんないじゃん? だからさ」


 サザンカはそうヘラヘラ不器用に笑って視線をそらした。

 確かに、シャレになんないぐらい痛かったけれど。


 その答えを受けても、なおフタツミは訝しげに寄せた眉間のしわを緩めなかった。

 意外、を通り越して異様ですらあったのだ。

 第一印象が最悪だったからというのもあるだろうが、この男がまともに頭を下げて謝ってきた事実が。そりゃあもう、固まって驚くほどに。

 見た目からして、軽薄そうであるし、360度どこから見ても馬鹿っぽい。

 失礼なことを言っているのかもしれないが、フタツミにとってこのサザンカという男は大体そんなイメージで出来上がっていたのだ。


 悪い第一印象というのは案外深く根付くもので。

 信用ならないと、そう警戒するようにそちらを睨むフタツミに、サザンカは苦笑いをした。


「トーゴにも今日怒られちゃって……」

「トーゴ?」

「そうそう、昨日フタツミ一緒にいたでしょ? あの子にちょっとね」


 唐突に出てきたよく知る少年の名前に、フタツミは微妙な表情になる。


 ああ、なるほど。

 あいつが一枚噛んでるわけだ。


 それを理解した瞬間、脳裏をちょこまかと横切った濃褐色の影に、フタツミは頰をひくひくと吊らせた。

 あの横槍好きの殉教徒が関わっているというなら納得だ。


 フタツミは舌を鳴らした。


「あのお節介め、……すぐ首突っ込んでくるんだから」

「あははは、そうそうあの子ってまさにそんな感じ」


 そう毒づけばサザンカもぷはっと噴き出した。

 来たばかりのサザンカにも思い当たるフシがあるらしい。

 まぁ、そのフシとやらが今回の件につながるのだろうけど。たった1日でそれを印象づけるとは、あのやんちゃ坊主も大概である。


 トーゴは厄介ごとがあると、一目散に駆けつけてししゃり出てくる奴だ。

 それが悩み事ならば熱心に耳を傾け、それが喧嘩ならば仲介し、それが悲しみならばかき消すために奔走する。

 騒ぎを鎮めるために一躍買っているといえば聞こえはいいが……。

 そういうのをある意味で好む傾向があるため、平和主義とは言い難い。

 しかし、まあとにかくそういうやつなのだ。


 そういうトーゴの。

 お節介チビガキ殉教徒の指図があったとなれば、こういう事があるのも頷ける。

 あれの頼みは断りづらいし。トーゴ自身、何かと聡い一面を持っている。

 相手の核心をストレートについてくるあの少年にはどうもやりづらいのだ。


 今回のサザンカがそのいい例になる。

 きっとそのことだけが理由というわけでもないだろうが、トーゴにうまく焚きつけられてここにいる、と言った具合に違いない。


 そんなことを思案して、ひとりうんうんと首を振るっていると。

 不意にサザンカは軽く視線を落として俯いた。


「シジマのことは、ホントにごめん。俺なにもできなかったよ」


 ストンと落ちた声のトーン。

 何事かと視線を向けると、サザンカはやはり俯いたまま、静かにそこに立っていた。

 暗闇の中、力なく見えるその肩が、どこか哀愁を誘う。


「フタツミの言う通り、めちゃくちゃダメなやつだなって自分でも思うよ」

「あれは……」


 確かに、似たようなことは言った。

 しかし、あれのまるまる全部が本心なわけではない。

 勢いだったのだ。ただの八つ当たり。

 それを意味する言葉をフタツミが思いつくより先に、サザンカは彼女を片手で遮った。


 フタツミが訝しげにそちらを見やると、サザンカは自嘲するように、でも穏やかに笑ってみせた。


「俺はね、できる気だけはしてたんだ。あの時もそう。……なんでも守れるって、ホントにホントのヒーローになれる気でいたんだよ」


 一分いちぶの隙も綻びもなく、完璧に作られた笑顔。

 その造形物に相応しい、舞台じみたセリフは廊下の暗がりにゆらりと溶けて消えた。


「それこそガキみたいな話だけどさ」


 嘲るようにそう言って、サザンカは目を伏せる。

 その瞼の裏に刻まれているのは、かの映像の一体どの場面なのか。

 画面の向こうから見ていることしかできなかったフタツミにはわからない。

 わからない、けれど。


 その表情が痛ましいものだったから、きっとこの男の一番嫌な記憶なのだろう。


 それは本気で信じていたことが、裏切られた瞬間。

 今のサザンカの言葉どおり、その信じていたこととは『自分はヒーローになれる』、そんな幼稚な妄想そのものだ。


 今時、小学生でもそんなことは考えていないだろうが。

 この男は極度のヒーロー・バース愛好者だと聞いている。そういう『錯覚』をしてしまっても仕方ないのかもしれない。


 リアリティのあるゲーム。極限まで現実に近づけたゲーム。

 それを体感してしまったら、現実感だってゆがむだろう。

 いやもちろん、フタツミもそのうちの1人だから人のことを言えた義理ではないのだけど。


 今回のゲームで、その全てを裏切られて、サザンカはどれほどまでに絶望しただろう。

 本来ならば幼いうちに打ち砕かれているはずの妄想を、今の今まで持ち続けていたと宣うサザンカの。

 その衝撃はフタツミには到底計り知れない。


「フタツミ」


 呼ばれてフタツミはサザンカを見やった。

 ヘラリ曖昧な笑顔を浮かべたサザンカがそこにいた。

 その表情のまま、サザンカは言葉を紡ぐ。


「俺はね……」


 希望が打ち砕かれた瞬間とは、どの場面だったのだろうか。

 やっぱり、シジマに庇われた時? それともまた別の時だったか。

 おそらく前者であろうとフタツミは思う。あれだけ衝撃的なことは滅多にない。

 目の前で繰り広げられたならば、無力感で満たされてしまうことだろうから。


 ……少々気になっていたのだ。

 この男は、シジマの件を一体どう思っているのか。

 そりゃあ、わけのわからないまま舞台に立たされて、状況も掴めないうちに殺されかけて、助けられて。その怒涛のような出来事の罪を問うのは御門違いなのだけど。


 か細くて、気弱で、臆病で、小さく震えるシジマ。

 あの子にあんな形で救われて、この男は何を思っただろう。彼女の意思をどう受け止めただろう。

 ただ単純に『救われた』と思っているのか、あの小柄なメイドのように『巻き込まれただけ』だと思っているのか。

 それとも、それとも?


 ドクン、心臓が鳴る。

 シジマが、体を張ってまで守ったこの新人は、

 一体どんな答えをくれるというのか。


 フタツミがそうどこか身構えて言葉を待つ中、サザンカの唇がゆっくりと震えた。


 そして、

 ────バタン。


 唐突に聞こえたその音。

 それが何か、脳みそが理解するより早く音の下方向へと視線がいく。

 もはや暗闇に慣れてしまった目を煌々とした光が灼いたからだ。

 その光はサザンカの背後、フタツミにはそのまま正面に位置する場所から差し込んでいた。


 先ほどまで、三人で集っていた部屋。その両開き戸が半分に開いている。

 閉ざしたままになった片方に寄りかかった体制で、こちらを睨む人影が1人。


 数秒、目が光に眩んでその姿を確かめることが困難になるが。

 確かめるまでもない、部屋に残ったのはたった1人だけなのだから。


 ……イチゴだ。


「おいこら、いつまでグダグダやってんですか雑音ども」

「え、いいいいイチゴ?」

「夜中だからって乳繰りあってんじゃねえってんですよ」


 地を這うような低い声でそう呻いて、額を押さえたイチゴ。

 部屋から漏れる明かりが逆光となっているせいもあって、その姿はアクション映画なんかに出てくる悪役さながらだ。


「どーしても挽肉になりてえってんなら俺はそれでもいいんですけど?」


 こんなセリフもそのイメージを助長する。

 視線で人を射殺さんがばかりのイチゴにギロリと凄まれて、目の前のサザンカの肩が大きく跳ねた。

 無意味に手をバタバタと降って、大慌てで後ずさる。


「ごめんごめんごめんごめんっ! 今すぐどっか行くからぁ!!」

「ケッ……。とっとと消えろ」

「イエッサーァ……」


 震える声でそう返事をしたサザンカは、続けるようにフタツミへ視線をよこした。

 とにかく今はここから離れようと言っているのだ。

 フタツミは無言で頷いて、廊下の奥へと足を進めた。

 その後ろをサザンカと、扉の閉まる音が追いかけてくる。

 これらを耳で確認して、フタツミは肩をすくめた。


「はぁ、あんたのせいで血を見るところだったわ」

「あ、ははは。今の俺のせいなの?」

「あんたが無駄話しなければこんなことにはならなかったでしょ」

「ごもっともではあるけどさぁ……」


 それでも自分が責められる謂れが見当たらない、とでも言いたげにサザンカは言葉を切った。

 大体別段やかましい声で喋っていたわけでもないというのに、あんな剣幕で怒られては腑に落ちないことだろう。

 しかし、フタツミはそんなサザンカのことなど黙殺して早足に廊下をすり抜けていく。


 次々に、廊下に立ち並んだ部屋のドアがフタツミの後ろへと吸い込まれて消える。

 そのままのスピードで廊下の突き当たりを曲がれば、見えてくるのは玄関ホールにつながる仰々しい階段とその周りを囲う広い空間だ。

 フタツミは迷うことなくそれを通り過ぎた。


「じゃあ、私こっちだから」

「あ、あのフタツミ? まだ話が途中……」


 そうフタツミの部屋は階段を降りずにこのまま行ったその先にあるのだ。

 軽く手を振って立ち去ろうとするフタツミ。

 その背にまた、サザンカは手を伸ばした。


 言われずとも知っている。あの獣さえ出て来なければ話が続いていたことなど、明白すぎて言うまでもないことだ。

 しかし、だ。ここで仕切り直し、というのも間が悪いだろう。

 フタツミはサザンカを背中に置いたまま、広間を抜けた。


 ああ、でも確かに言い残したことはあるか。

 これだけはハッキリ言っておかねばならない。

 そう、思い直してフタツミはサザンカからしばらく行ったところで足を止めた。

 そして、大きく息を吸う。


「わた、」

「?」


 意図せず……。しかし、自分の心情を映すように変に硬くなった声。

 羞恥で顔中に熱が集まる。


 ああ、でも言わなくては。

 これを消化しないままでこの場は終われない。

 だってこんな機会はきっと滅多にない。今言わなくては、フタツミはもう一生口にしない自信があった。


 だから、


「き、昨日はその、私も、わ、わるかっ……」

「?」


 さすがにあれはやりすぎた。

 酷いことを言った。感情で燃え上がった頭で、思いつく限り相手の心を抉る言葉を選んだのだから。

 きっとこの男もさぞ傷ついたことだろう。

 フタツミだって反省しているのだ。

 自分を抑えられない、かと言ってこんな機会でもなければ、謝ることさえできない性分に。


 だから、今。フタツミには今しかないのである。


「わる、……ったわよ」

「え? 何? 聞こえないって」

「だから……、」

「なになにフタツミ? どうかした?」


 フタツミのボソボソと囁くような声。

 それにサザンカは訝しげに首をひねった。

 フタツミは後ろを向いているわけだし、こんな蚊の鳴くような小さな声だ。サザンカに聞き取れないのも無理ない話だ。

 だから、だろうか。サザンカはこちらへと足を踏み出した。


「フタツミ、何? もうちょいおっきい声で言ってくんね?」

「わ、わわわわ私はっ!」


 言わなきゃいけない。

 はやく、はやく、そう頭の片隅で響くたび、舌が戸惑ってうまく音が紡げない。

 だっていのに、

 サザンカはフタツミのその言葉をきちんと拾わんがため、こちらに近づいてくる。

 一歩、一歩、また一歩。


 ああ、こうなればヤケだ。

 一言言って走り去ればいい。

 少々間抜けで格好はつかないが、このまま済ますよりはずっとマシだろう。

 そう決意を固めて、フタツミは勢いよくサザンカの方を振り返った。


 いつの間にこんなに近くまで来ていたのだろうか? フタツミのすぐ後ろまできていたサザンカ。

 彼が覗き込むような体制になってフタツミを見下ろしていたのである。

 咄嗟のことで何にも気付かず振り返ったフタツミの鼻先。

 そこにサザンカの鼻先が擦れて。

 

 一瞬で、頭の中が真っ白になった。


「私は……ッ」


 だからフタツミは……、





「私は悪くないわよ!!!」

「うぐぁっ!!!」





 思わず拳を突き出した。

 それは力任せの右ストレート。

 空気さえ唸らせて突撃するフタツミの拳は、決して軽くはない衝撃を伴ってサザンカの頰にクリーンヒットした。


 女の細腕だからと油断することなかれ。

 振り返る勢いがそのまま拳に乗っかっているのだ。

 ただそれだけ? いや『されどそれ程』だ。

 ……そんな簡単なこと一つで、この鉄拳は冗談ではない重さになる。


 倒れこそはしないものの、ぐらり大きく傾いたサザンカ。

 なんとか足を踏ん張って体を支え、呆然と叩かれた頰に手を添えた。

 じきに、呆然と見開かれた目が、フタツミを捉える。


 状況の説明や行動の理由を暗に問う鳶色の瞳。

 それを受けて、フタツミは胸の内で頭を抱えてうずくまった。

 またやってしまった。どうしていつも自分はこうなのか。

 ……本当に、本当に嫌気がさしてくる。

 だなんていくら後悔したって後の祭り。

 もう遅い、巻き戻せない。


 謝るどころか思い切り殴ってしまっただなんて。フタツミ自身も想定外の展開なのだけど。

 今更フタツミにどうしろというのか。

 これでチャラだ! だとか言って取り繕う手もなきにしもあらずなのだが……。

 真っ白になった頭にそんな器用なことが浮かぶはずもなく、フタツミはクルリ踵を返した。


「おやすみ!!!」

「???????」


 頰を抑えて頭の上に疑問符を浮かべるサザンカを放置したまま、フタツミはスタスタと足早にその場を立ち去る。

 自室にたどり着くその時まで、彼女が振り返ることはなかった。



 ……部屋に入ってから、どうしていたかはご想像にお任せしよう。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る