第2話 フタツミ3


 ─5月14日 21:40 倉木邸広間─




「なんであんたがいるのよ」


 ドアを開けて開口一番にそう言って。

 フタツミは顔をしかめた。


 悪い夢でも見てるのかと、寝不足の目をこすってもう一度部屋の一角をを確認する。

 また同じ景色が映り込む。

 どうやら夢ではないらしい。その事実を確認して、フタツミはため息をひとつ。


 ─悪い夢ならよかったのに。

 そんなことを考えて。


 部屋の窓際。

 木目の目立つ色の濃いサイドテーブルと付随する二つの椅子が幾つか並べられた、そこ。

 そのうちの一つに腰をかけて座る男がいた。

 フタツミも良く知る、一匹の獣。


「俺が知ってるとでも?」

「それもそうね」


 開口一番の不躾な物言いに、男はめんどくさそうにそう答えた。

 椅子の背もたれに背中を押し付けて、体制を傾けてみせる。

 その言葉に肩をすくめて、フタツミはため息混じりに、しかし彼女にしては存外素直に頷いた。


「大変ね。あなたも」

「お気遣いドーモ」


 適当にそう労えば、これもまた適当な返事が返ってくる。


 それを軽く受け流して、フタツミは部屋の中心に足を進めた。

 猛獣と同じ空間にいると言うだけで信じられないと言うのに、その獣と相向かいで座る気にはなれない。

 だからフタツミは、彼とは少し離れた場所に置かれたソファーに腰掛けた。


 そこからちらりと男を盗み見る。


 一房だけ顔の方に垂らした、その髪は黒というよりは灰色に近い。

 しかし灰色と言うには黒に近い、表現しにくい色をしている。

 その上にヘッドホンを引っ掛けた、見た目だけなら大人しそうな男。

 数年ほどの浅い付き合いの相手だった。

 しかしそれにしては深く根強い印象がフタツミの中に刻みつけられている。

 迂闊に近寄りたくない、そう思えるほどには。


 何しろ屋敷の中で大喧嘩をかまして、地下牢に閉じ込められる、だなんて派手な経歴を持っているのだ。

 その暴れっぷりにはさすがのあの道楽男も音をあげて、手をこまねいていたっけ?

 今でもありありと思い出せるその無様な醜態はなかなかの見ものだった。

 実際に目の当たりにしたフタツミが言うのだから。それは相当愉快なものだったのだろう。


 ああ、そうだ。あの男だ。

 ふと、脳裏をかすめた空五倍子色の影。

 その影を探してフタツミは視線を部屋の中に巡らせた。


「あいつは、まだなの?」

「まだもなにも、おまえも今来たばっかでしょうがよ」

「人を呼び出しといて居ないから文句言ってんのよ」


 そう、この屋敷の主人の姿はこの部屋の中にはなかった。

 しばらく前にフタツミの元を訪ねたメイドは、『あいつが呼んでる』のだとはっきり言っていたというのに、だ。

 ギリリ、フタツミがそう歯噛みすると、イチゴはニタリと嫌味に笑った。


「俺はいちいち文句たれんのも馬鹿みてえだと思いますけどね」

「私は逆ね。一言だけでもぶつけてやらないと耐えられないわ」

「そりゃあ随分と血気盛んでいらっしゃいますことでー」


 フタツミが胸の前で拳を握り締めると、それを見てイチゴはけらけらとせせら笑った。

 明らかに馬鹿にしたような態度はもはや隠す気もないのだろう。意地の悪い表情はで顕著にフタツミを見下みくだしている。


 ついついイチゴの方ににも向いてしまいそうになる矛先をなんとか収めて、フタツミは軽い咳払いをした。

 平静を保てないのは自身も認めるフタツミの短所。

 先日だってそれで色々としでかしたのだ。もう同じ轍は踏まない。


 怒りを向けるのは一人だけに絞るべきだ。

 頭に浮かんだ濁りけのない清廉な笑顔を盛大に踏み潰して、フタツミは息をついた。


 それと同じ唇から、まぁ、と自嘲によく似た音がこぼれ落ちる。


「あいつの考えに振り回されんのが私たちの役目、なんでしょうけど」


 だってフタツミたちはあの男のペットなのだから。

 その言葉に、ハッとイチゴが不機嫌に息を吐き捨てる。

 しかし、そんな風に顔の中心に皺を寄せながらも、イチゴはその事実を肯定した。


「腹たちますけどね」

「ほんとにね」


 フタツミもそう息をついて天井を仰ぎ見た。


 そう、フタツミたちは『人』ではないのだ。

 愛玩されるが故にいたぶられる、主人を選べなかった哀れなペット。


 実際のところ、彼の匙加減ひとつでフタツミたちの運命なんてコロコロと転がり落ちる。

 最悪、命を落としかねない。そんな存在。

 何も知らされず呼び出されて、たとえそのまま100年経ったって。


 フタツミは忌々しげに、首の機械を撫でた。


 桃色のそれは、色に反して可愛らしさなどかけらもない。

 ただただ純粋に禍々しい、拘束具だ。


 今すぐにでも取り去って投げ捨ててしまいたいが、それはフタツミに許されたことではなくて。

 その口惜しさも、絶望も、もはや慣れてしまっていた。

 だからフタツミはわずかに表情を歪めただけで、すぐに指を膝の上に戻した。


 この程度のことで、その指を固く結んで手のひらに突き立てるようなことは、もうしない。

 ……たとえ、彼の悪癖でひとりが深い眠りに落ちたとしても。

 そのうち、死ぬかもしれなくても。

 ざわざわと複雑な思いが胸の内で渦を巻くが、フタツミは完全に聞こえないものとして無視を続けた。


 だってフタツミは。

 だってシジマは。


「まあなんにせよ」


 ひとり思考の中に沈んでいると、ポツリ、イチゴがそう息をついた。

 唐突に現実に引き戻されて、自然とフタツミの目線もそちらへと流れゆく。


 かち合った視線が交差した。

 睨む、と言うほど険のあるものではないが、その表情にはありありと苛立ちに似た色が滲んでいて。

 フタツミは訝しげに半眼になった。

 急にいったいどうしたというのか。


「うるせえんで黙ってもらえますかね」


 しかめっ面で吐かれた暴言。

 それにフタツミも眉を寄せる。

 しかし、すぐに彼の言葉の意味を記憶の中から見つけ出し、合点がいく。

 だって『それ』は彼と顔を合わせるたびに、聞かされていたことだから。

 フタツミは半ば呆れたように片肘をついた。


「また『それ』?」

「またもなにもいつもっすよ」


 イチゴはそう鼻を鳴らして、片手でヘッドホンを耳に押し付けた。


 不機嫌そうな表情。フタツミは息をついて、そんな彼の表情を流し見る。

 イチゴが吐き出したその言葉。

 正直に言って、フタツミはそれが指している意味が、未だよく掴めていないのだ。

 数年の時を共にした。……と言っても話す機会など限られていたし、彼が地下に閉じ込められてからその姿さえ目にしていなかったのだから、尚更。


「黙るなんて、無理よ」


 それでもフタツミはそう断言することができた。

 彼の言い分を『仮定』して、判断するなら、どう考えてもできやしないのだから。

 フタツミは顎に指を寄せた。


「口を閉じることはできるけど、あなたの言うのは、そういうことじゃないんでしょう?」


 そう念を押せば、頷きもしないが肯定の意を込めた無言が返ってくる。

 フタツミは困ったように呆れたように半笑いになった。


「死にでもしない限りできないわね」

「じゃあ死んでください」

「さらに無理。ていうかお断りよ」


 極論に過ぎる提案をバッサリと切り捨てて、フタツミはそのまま口を結む。


 相手にするだけ無駄なのだ。そう判断したから。

 彼の言い分は何度か聞かされてきたけれど。

 理解できたかといえば、否。全くトンチンカンで飲み込めたものじゃない。

 大体、記憶の中に鎮座する、かの大騒ぎの中心にいた男だ。……正直なところできればまともに対峙したくない。

 フタツミはつんつんと瞼をつつく髪をかきあげ、深く息をついた。


 これ以上話す話題もその気もない二人だ。

 その息を最後に双方が揃って口を閉ざしたものだから時計の音だけの無音になる。


 カチカチカチカチ……。

 無機質な器械音が1秒ごとに刻まれていく。

 それがあの男を待つ時間を刻んでいるのだと思うとやけに耳障りに思えた。

 ふつふつと湧き出てくる苛立ちを抑えて、フタツミは柔らかなクッションに背中を埋めて瞳を閉じる。


 そうして、数分の時が経った後のこと。


 ギィ、と後ろで何かが軋む音がして。

 ようやくやってきたかと、フタツミは瞼を持ち上げた。

 フタツミが部屋にやってきてからこれまでの間、腹のなかは充分に煮え立った。

 その汁を諸悪の根源に浴びせかけてやらねば気がすまない。

 フタツミとイチゴの剣呑な視線がそちらへと移動する。

 何か言おうとフタツミは口を開いて。


「なんだ、まだ居ないんだ」


 そのまま言葉を飲み込むことになる。

 古びた両開きの扉。

 フタツミはつぶやくようなささやかな声で、そこに佇む影の名を呼んだ。


「……和夢」


 そう、そこに居たのは背の低いメイドだ。

 半分開いた扉の隙間に立って、あたりを探ったあと、息を吐き捨てた。


「あいつ、早くしろとか言ってたくせに……」


 ちっと舌を打って、和夢は不愉快そうに顔を歪める。

 メイドが主人に舌打ち、だなんてあまり聞こえはよくないし、褒められたものではない、

 しかしこの屋敷に長く住む二人は、もはや慣れてしまっていて突っ込む気も湧いてこなかった。

 なんてったって日常茶飯事だ。

 その度に咎めていたのではこちらの気力が持たない。


 それに、

 主人の前以外では礼儀に欠けるこの少女。

 むしろ主人本人がいないときは主人にさえもこのように悪態をついている始末である。

 この屋敷でもなければ、不遜が過ぎると咎められていてもおかしくはない。


 でもフタツミは、逆にこんな毒のある本性をよくもまあ主人の前だけでも隠せたものだと、感心している。

 だって本当に豹変するのだ。

 急にしゃんと背筋を伸ばして、毒舌をしまいこむ。


 自分を抑え込むことの苦手なフタツミだ。こんなに年の離れた少女が、軽々とそれをやってのける様は見ていて本当にすごいと思うのだ。

 そこがまた、彼女の不気味なところであるのだけど。


「おいメイド」

「なに?」


 ふと、低い声がかかって、フタツミは和夢と共にそちらを見やる。

 その声の主は、……イチゴだ。

 イチゴはすぅっと目を細めて、低い声のまま続けた。


「その、後ろにいるやつ……」


 後ろ、とは和夢の背後ということだろう。

 確かにその後ろにはもう一つ影があった。

 その事実に言われてから気づいて、フタツミは視線を持ち上げる。


 ひょろりと細い体と高い背丈だけ見れば、屋敷の主人と似たり寄ったりなのだけど。

 いつも着用している古めかしい和装ではなく。

 見にまとっているものはスエットとシャツだけ。そんなゆるすぎる格好をした、……男だ。


「あ」


 和夢より、だいぶ高い位置にある頭。

 フタツミには、そこに張り付いた顔の造形には覚えがあった。

 そりゃあもう。嫌というほど。


「サザンカ」

「え、あ……」


 そう名を呼ばれて男の方もフタツミに気づいたようだ。

 軽く瞠目して、こちらを見ている。

 しかし、サザンカはすぐに気まずそうな表情になって視線を逸らした。


 だいぶ嫌われてしまったらしい。

 まぁ、それも仕方ないことだけども。

 フタツミはそう、内心で苦笑った。

 こちらだって思いっきり自分の顔面を殴り倒した男を、昨日今日で普通に接せるかといえば無理だと答えることしかできない。

 確かに少しぐらいの非は認めるが、それでも、だ。


 だから。

 笑ってるのか困っているのか曖昧なその表情をちらりと一瞥しただけで、フタツミも顔を背けた。


 そんな二人のやりとりを何の気なしに眺めていたイチゴが、息をついた。


「昨日の新人、か」


 そう言って、品定めでもするかのようにサザンカをじろじろと観察する。

 サザンカは居心地悪そうにそれを受けながら、やっぱり曖昧に笑った。

 フタツミの存在もそうだが、この視線だ。

 サザンカはさぞ息苦しい心情であろうことが想像に容易かった。


 それを感じ取ってか、和夢がめんどくさそうに口を開いた。


「そう、サザンカ。別に仲良くしなくていいけど喧嘩しないようにね」


 和夢はそう言ってイチゴとフタツミ、その両方に視線をやる。

 その視線を受けて……。

 フタツミは昨日のことを咎められているようで、ぐっと押し黙って顔を背けた。

 もう片一方は不満げに和夢の方を睨んだ。


 和夢は無表情のまま、目が合ったそちらの方をまっすぐに見つめる。


「お前からしたら、仕方ないだろうけどさ」


 大した抑揚もなくそう言って肩をすくめてみせた和夢。

 そんな彼女の言葉を受けて、イチゴは不愉快そうに眉間に皺を作って顔を歪めた。

 フタツミの方は先ほどと変わらず顔を背けたまま、我関せずといった風に手足を組む。


 そんな、どこか不穏な色がにじみ出てきたこの部屋の中で。

 ただ一人だけ、ついていけない誰かさんが和夢の後ろで、説明を求めて視線を彷徨わせた。


 しかし結局答えは得られないまま。

 ただ、ただ、いたずらに時は過ぎていくのだった。

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