3話 鏡のように
第1話 サザンカ5
─5月14日 21:30 倉木邸9号室─
くあっと伸びやかなあくびを一つ。
サザンカは緩慢な動きでベットの上に腰をかけた。
その衝撃に合わせて肺の中の空気を深く吐き出す。
腹から胸にかけての膨らみが萎んでいくのと同時に体から力が抜けて、骨肉の重量だけになりずしりと重くなった錯覚があった。
重くなった、とは言ってもこれは居心地の悪いものではなく……。
どちらかといえば足が地にしっかりとついた時のような、安心感を生む重さだった。
「あーあ、ねみぃ」
そんな独り言をつぶやいて、サザンカはちらりと時計に目をやった。
ヴィンテージなテイストの壁掛け時計。その円盤の中心を飾る長針と短針が示しているのは9の文字だ。
完全に日は沈んで、月が輝く時刻ではあるが睡眠に呑まれるには少々早すぎる。
でも、
もうクタクタだと、休ませてくれと、サザンカの全身が訴えているのがわかった。
その疲労感が、体を横たえて惰眠を貪れと夢の世界へと誘うのである。
昨日もそうだったが、あれとはなにか質が違う。
昨日のは、肉体的にも精神的にも参ってしまっての疲労だったが、今回のはそれよりずっと健全な理由からくるものだった
この日サザンカは、自分よりも大分小さな少年に連れられて太陽光の下で綺麗な花を探す。
そんな半メルヘンチックなことをして来た訳だ。
いくらペラペラと薄い身体をもつサザンカだって、たったそれだけでこんなになっているわけではない。
それなりに必要な筋肉はつけて来たつもりであるし、体力だって平均ぐらいは持っていると自負している。
それではなぜ今こんな体たらくなのかと言えば……。
まぁ、大体は『昨日の疲れ』が消費しきれていないことに尽きるのだが、そればかりではない。
そんな疲労を蓄えた体でサザンカは、あの後も元気に駆け回るトーゴをずっと追いかけていたのだ。
サザンカとは正反対に一切の疲れの兆しも見せず、少年は飛んで跳ねて大騒ぎ。
何がそんなに楽しいのかわからないが、必死に後を追うサザンカを振り返ってはケラケラと笑っていた。
「ほんと、若いってすごい」
なんて言えるほどまだ自分だって歳をとっていないくせに、サザンカはため息まじりにつぶやいた。
幼い頃の記憶と重ねてくつくつと喉を鳴らす。
あれほどとは言わないが、サザンカだってやんちゃな子供だった。
両親はさぞ苦労したことだろう。その心を思うと気が遠くなる。
こんなのが毎日だなんて耐えられそうにない。
僅かな苦笑を浮かべた頰。
サザンカが身じろぎでもしない限り、物音一つしない静かな部屋の中で、それはいたずらにこぼれ落ちるのみだ。
静かな部屋、という点では昨日とも一昨日とも何一つ変わらない。
サザンカ一人きり。上等な家具に彩られている。やけに古びたその部屋。
そこに、一つ違和感があった。
いや、一つではない。部屋の所々にその変化は有った。
サザンカはそれらを確認でもするかのように、ぐるり部屋を見渡した。
古臭くデザインされた家具の他に、空の段ボールが雑多に転がっている。
その上に、部屋に戻って来ていの一番に脱ぎ捨てた服が乱雑にかかっていて、適当に放ったことがわかった。
そうやってトーゴとじゃれあった土ぼこり塗れのそれを放り出して、今のサザンカはシャツとゆるいスウェット。
たったそれだけのラフなスタイルだ。
白い部分の色が目立つその衣服は、明らかに一度も洗濯を通していない新品そのもの。
サイズもちょうどぴったりといった具合だ。
昨日の今日までこの屋敷の仕事着の余りを身に纏っていたというのに、これは如何なることか。
今は綺麗に仕舞われて見えないが、何を隠そうこのほかにもサザンカに合わせた丈の衣類が、この部屋には揃っていた。
さらには、やたらと近代的な機器や私物に溢れていて。
そこには確かな『生活感』が存在していたのである。
さて、昨日までは一切存在しなかったそれが、今現在この部屋を満たしているその訳とは?
理由はまず、サザンカがこの屋敷にやって来た当日の夜にさかのぼることになる。
ここで暮らすことになるのだから生活に必要なものを、と初日に総司郎が提示して来た資金。
これが事の始まり。
もちろん総司郎がサザンカに与えた部屋はほとんど生活に困らないほどに、大半の家具は揃っているのだが……。
それらは非常に大まかなもの。
個人的な衣服、細かな用品までは行き届いていなかったのだ。
こうして手に入れた資金で購入したのが、現在サザンカの身につけているそれだ。
部屋着に最適な動きやすいものから出掛けに着る流行のものまで。
今現在、そんな多種多様の服がこの部屋のタンスやクローゼットに並べられている。
手に入るとなればなんでも欲しかった。
それができるほど、今までの生活は裕福ではなかったから。
いや、そんなことさえできないほどにサザンカはゲームに金をつぎ込んでいたわけである。
だからこそ。
この屋敷に足を踏み入れた当日。
総司郎の言葉とともに手渡された纏まった金額の記されたカード。
初日だっていうのにこんなことをしてくる総司郎にもう少し薄気味悪さや猜疑心を持っていればサザンカの未来も少しは……。いや、結局なにも変わらないか。
この屋敷に足を踏み入れた、和装の悪魔に見初められたその時点で、今この現在は決まっていたも同然なのだ。
さらに言えば総司郎の手渡したそれを、全く疑いもせず嬉々として受け取るような愚鈍な男にこれを回避するほどの何かが備わっていたとは思えない。
それほどまでに愚かで浅はかな男が、久しく自分の身なりのために使える金を手にした訳だ。
夜分遅くに開いている店もなく、屋敷からも出る暇もないとなれば、文明の利器で買い求めるのが定石だ。
こうして軽くキーボードを叩いて、その眼前に広がった多彩な衣服を並べ立てた液晶画面は。
限られているとはいえ、好きに選ぶことのできる資金を手に眺めるそれは、まさに魔性だった。
手当たり次第に購入ボタンを押してしまいそうになる衝動。
それになんとか耐え、まずは無難なものだけを選び抜いたサザンカの気概を褒めてやって欲しい。
きちんと歯ブラシやら湯沸かし器やら、生活必需品に回すぶんは残しておくことができたのだ。
相当な大健闘であったと言えよう。
特にこのサザンカの場合に至っては、いくら賞賛しても足りないぐらいだ。
我慢を利かすことに優れていないゆえに、大きすぎる借金を負うような男である。
その欲望に、染み付いた貧乏性と生まれ持っての小胆さが勝つのは至難の技。
半分以上は衣類に消えたとはいえ、必要最低限のものは押さえた。
しかし、この戦績を褒めてくれる相手もアテもないので、サザンカができることといえば自画自賛。ただそれに尽きる。
まぁ、現在のサザンカにそれができるほどの体力があるかと問われれば答えなど決まりきっていて……。
自分を賞賛して気を紛らわすことさえできずに、サザンカはとうとう寝具の上に体を投げて柔らかな感触に埋もれた。
横になるだけで強い眠気が襲い来る。
途端ぼやける視界の中、ウトウトと船を漕いだ。
そんな睡魔に対する抵抗のつもりか、サザンカは寝転んだままの体制でぐっと体を伸ばす。
凝り固まっていた筋肉に引っ張られて骨の節々が軋んだ音を立てた。
ずれていたそれが元に戻っていくような、その感覚がどこか爽快だ。
ふーと満足げな息とともに全身から力を抜いた。
「はいるよ」
「はぁーい。……って、はぁッ??」
と、その時だ。
かろうじて呼びかける形を取っているが、その声は呟きと大して変わりはない。
ドアの向こうから聞こえたそれをサザンカの耳朶が受け止められたのは、この部屋が無音だったからだろう。
もし、今回の買い物で音楽機器を購入していたら?
それをこの部屋でそれなりの音で流していたら?
きっと彼女の声はサザンカに届かなかった。
まぁ、この様子では届かなかったところで御構い無しに彼女は部屋の中に入ってきていたのだろうけど。
そんな微微たる呼びかけひとつ。
たったそれだけで、ガチャリと口を大きく開いたドア。
戸口に佇むのは、少女だ。
「は?」
「うん、邪魔するよ」
「え、んんんん?」
寝かしたばかりの上体をガバッと跳ね上げて、サザンカは数秒の
すっきりと短く切りそろえられた髪。どろりとした粘性をもつ漆の瞳。そのまだあどけなさの強い輪郭の上にのっているのは全くの無表情。
白と黒を基調とした『作業服』で華奢な体を覆い隠して立つそのひとは。
……そう、和夢だ。
「か、かかかか和夢ちゃん?」
「うん。……ちょっと用があるんだけどすぐ出れる?」
なんの感慨もなくすたすたと部屋の中に歩みを進めた少女。
一方のサザンカは彼女の唐突で些か乱暴な来迎に言葉を失うばかりである。
こんな夜分に用事とは? 何かあったのか? 出るとは一体どこへ?
口に出てもいいはずの、そんなありきたりな問いは、混乱した頭に浮かんでもこない。
ただ、ただ、サザンカはあんぐりとその姿を目で追っていた。
すぐ近くまでやってきた背の低い少女を見上げる形になるまでずっと。
和夢が眉をひそめる。
「え、え、ええ?」
「なに? ちゃんと喋って。失語症かよ」
「え、あ、いや、そのね? あのね?」
どうもこうもないのである。
サザンカは慌てて姿勢を持ち直し、恐る恐る口を開く。
そして諭すような、嗜める口調でこう話した。
「ここ一応俺の部屋じゃん?」
「そうだね。で?」
「うん、そう。昨日案内してくれたの和夢ちゃんだもんねー。知ってるよねー。そこでなんだけど、急に入って来ちゃったりしちゃダメだよね。ほら、びっくりしちゃうじゃん?」
「そうかもね。で?」
単調な返事。
それでさらなる返答を促しながら、和夢はただ無表情にサザンカを見下ろしている。
促すといっても、どちらかといえば彼女が見据えているのはその先。
次第に言葉をなくし、こちらが黙り込むのを待っている。
その思惑通り、どこか圧し潰すような姿勢にサザンカはたじろいで言葉に詰まってしまう。
それでも足りない頭を必死に回して二の句を探した。
「い、いや、困るんだよ和夢ちゃん。もう少しこう、……なんていうのかなぁ、女の子なんだからもーちょっと節操を持って、」
「で?」
「……」
「……」
しかし悲しきかな。
もともと質のよくない頭しか備えていないサザンカは、その先に続く言葉も浮かべられないまま……。
自分より一回りも小さい少女の光を反さない漆黒の視線に呑まれて、あっけなく潰されてしまうのだ。
サザンカは苦笑った。
「き、着替えてたりしたらどうするつもりなのさ」
「どうって、どうもしないけど」
しかし、和夢はそうしれっと肩をすくめてみせる。
半端に伏せた呆れた瞳でサザンカを映して、小さく短息した。
「冬毛から夏毛に生え代わる犬見てお前興奮するわけ? ……変態め、これ以降近寄んじゃねえよ」
「いやいやいやいやそんな特殊な趣味持ってないって!」
「ただその目、シラマルに向けてみろ。……絶対殺す」
「誤解ですー、冤罪ですー、俺は無実ですー!!」
汚いものを見るようにわずかに身を引いて、顔を歪めてみせた和夢。
突如訪れた自分の沽券の危機にサザンカは青ざめて弁解をするが、どうにもなりそうにない。
言葉を重ねれば重ねるほどに、距離が開いていっているのがわかる。
物理的な距離とともに心も離れていく気がする。
サザンカはそれを縮めることも、……縮める気力さえも
はぁ、と小さなため息がサザンカの耳をくすぐる。
吐き出したのは和夢だ。
和夢はそれとよく似た息で呟くようにこう言った。
「まあ、ちょっとは回復したみたいでよかったけどさ」
それは、まるで機械が話しているような淡々とした声音だった。
しかし、その中に僅かながら柔らかいものを感じて、サザンカは軽く瞠目した。
どうやら彼女は彼女なりにサザンカを心配してくれていたようだ。
嬉しい事実だ。メイドの少女に実はちゃんと案じられていたなんて、悪い気は全くしないし、不満なんてかけらもない。
ないのだけど。
『こんなこと』で回復を実感されるのは如何なものか。
サザンカは微妙な顔になる。
「……喜んでいいのかなぁそれ」
「本調子に戻ってきたならいいんじゃないの」
──もしかして、俺の本調子が変態って言われてんのかな?
是非とも杞憂だと信じたい事案である。
鉄面皮な和夢ゆえ、冗談が冗談と伝わって来なかっただけだと、そういうことにしてほしい。
サザンカは表情を引きつらせた。
しかしまぁ、彼女もこう言ってくれているわけだし。
見知ってから短いが、無表情だし、口は悪いし、あんな男に仕えている訳だし、どこか近寄りがたいイメージが染み付いていたのだけど。
そんな和夢が昨日のことをずっと案じてくれていたという。
納得いかない理由とはいえ、サザンカの回復を祝福してくれている。
──ここは素直に喜んでおくか……。
ちらりそちらに視線をやれば、やっぱり変わらず無表情な和夢。
その黒曜の瞳がすっと細くなる。
「シラマルにさえ近づかなければ」
「あ、全然よくないやつじゃん。誤解がとけてないもんねぇ」
どうやら疑いは晴れていないらしい。
サザンカは額に手を当てて、重苦しい息を吐いた。
勝手な憶測で変な罪をなすりつけられたのではたまらない。
念のためハッキリと述べておくが、サザンカが大好きなのは犬ではなくれっきとした人間の女の子のみである。
毛の生え変わりどころか毛のひん剥かれた犬にだって欲情しないということをここに記しておこう。
万が一にも億が一にもそんなことはありえないのだ。
和夢が肩をすくめる。
「そんなに落ち込むことないんじゃない? ……もともとお前なんてそんなもんだよ」
「ねえ、もうこの際ぜーたくは言わないからさあ、形だけでも慰めようとしてよぉー」
サザンカはそう項垂れてみせるが、和夢はふいっと意図的に顔をそらしてその気がないことを示す。
どうやら取り合ってももらえないらしい。
ひくひくと口元がひくついて、乾いた笑いが漏れ落ちる。
サザンカはなすすべもなくベットのヘッドボードに寄りかかってひらひらと片手を振った。
手を白旗に模した、降参の意だ。
それをちらりと目だけで確認して。
和夢はめんどくさそうにサザンカへ向き直った。
だらり、だらしなくもたれかかるサザンカに一つ息を漏らして、和夢は小さく口を開いた。
「トーゴとは打ち解けたみたいだね」
ぽつり、和夢がこぼした言葉。
話題を変えるにしたって、唐突で脈絡のないそれに頭が追いつかない。
サザンカはヘッドボードに寄りかかったまま、訝しげに目を瞬かせた。
「……ん?」
「花は見つかった?」
首をかしげるサザンカなど御構い無しに、和夢はこちらをじいっと覗き込んでくる。
しかし、サザンカは眉を寄せるばかりだ。
別に問われている意味がわからないのではない。彼女の言葉が指しているのはまごうことなく今日の出来事に違いはないのだから。
それでもサザンカが一瞬固まったのは、なぜそのことを和夢が知っているのか、その答えに詰まったからだ。
屋敷の敷地内のことだから、見ていただけという可能性もあるが。目的までは知らないはずである。
まぁ、答えに詰まったとはいえ、さしてその答えは難しいものではない。
狭い屋敷の中なのだ、行き着く答えなんて単純明解。
サザンカだって1秒硬直しただけで導き出すことができた。
「……ああ、トーゴから聞いたの?」
「そういうこと」
その問いに和夢は首肯してみせる。
サザンカはからからと笑った。
「仲いいんだ」
「別に。あっちが話してくるから聞いてやってるだけ」
そっけなくそう返して、和夢は軽くため息をついた。
トーゴが基本無口な彼女に一方的に話しかけるその図が眼に浮かぶようで、サザンカは苦笑いになる。
「花は見つかったよ。なかなかキレーなやつ」
目を伏せてそう応えて、サザンカは数時間前の記憶へと思いを馳せた。
やっぱりシジマの部屋は固く閉ざされたまま、私服の作業員に守られていて。
無事綺麗なまま。そして家主からのお叱りも防げる形で花を手に入れたふたりだったが、その甲斐もなく、当然のように門前払いだ。
だから、サザンカたちにできることなんて、せめてもとその作業員に花を部屋に飾るよう頭を下げるくらい。
結局根負けして渋々花をを受け取った作業員。
彼にすぐさま追い返されて、サザンカとトーゴはすごすご部屋に帰った次第だ。
部屋に花を飾る、たったそれだけ。
これでシジマが目覚めるわけではない。わかってる。
サザンカたちの行動は根本的な解決にはなってないのだ。
でも……
『祈るだけでいい』のだ。
祈るだけでもいい。それだけで充分。
結局サザンカにできることが神頼みに限られていることも勿論だが。
たったそれだけでも、彼女を救う力になるのだ。そう、信じることにした。
祈っていれば、それがいつしか誰かに届いて。
カミサマが、ヒーローが、きっと誰かが助けてくれる。
あの花は、その目印になる。
「なんて名前かは知らないけどさー。結構かわいー花でね。和夢ちゃんもあとで見てくるといいよ、そんでできれば花の名前とか」
「なんでボクが、そんなの自分でやってよ。それよりも……、」
大袈裟なため息とともに、一方的に会話を切って、和夢はサザンカの腕を掴んだ。
半ば強引に腕を引かれる。
その引力に従う、というよりは連れ去られて、サザンカの体は寝具を離れ、二本足になった。
座っていた時とは逆に、だいぶ下の方にある和夢の頭。
訳もわからないまま、一度も染めたことがないと明白な真っ黒いそのてっぺんを見下ろして、サザンカは首を捻った。
和夢が平坦な言葉を吐く。
「後で何か言われんのはボクなんだし、あんま他の奴ら待たせたくないんだよね。早く行くよ」
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