第5話 トガミヤイチ1
─5月14日 13:20 倉木邸総司郎自室─
別段声もかけず。かと言ってノックをするでもなく、弥一はその戸を開けた。
そして同じく一言も発さぬまま、部屋に足を踏み入れる。
外観のイメージに相応しく、どちらかといえざ西洋味の強いレトロ風な内装。
所々で煤けたり禿げたり。この部屋ばかりかこの屋敷の全てに言えることだが、古風で年季の入った印象を受ける。
だが、別に全てがそういうわけでもないのだ。
壁や天井、窓枠やランプシェード。
これらのようなもともと部屋に備わっているものはまごうことなくその通りなのだけど。
机や本棚、その他インテリアはわざと古めかしく作られた。
いわゆるアンティークとかいうデザインとしての傷や汚れ。実際のところほとんど新品と同じだったりする。
そんな、どこか古びた厳格さと品性を感じさせる。
しかし、やっぱり現代的な部屋の隅で。
一人、男が弥一を顧みた。
「……」
「ああ、弥一か」
そう涼やかに笑ったのは和服の男だ。
部屋に敷かれたフローリングの上。一段高く構えられた畳の上から弥一を見つめている。
艶やかな畳の巡らされた和室のような一角。
いや、ような……という表現はふさわしくない。
確かにそこは洋室の中にあるだけに、一つとは呼び難いが。
一つの「部屋」として完全にそれだけで完成していないだけ。
畳が床を覆い、砂壁をひと角に寄せるようにあしらった、その場所は。
欄間や床の間まで設置された一角は小さな和室。
簡易和室とでも呼べばそれらしいか。
そんな『簡易和室』で文机を前に座る男。
彼は静かに筆を置き、ゆったりとした動きで弥一の方へと体を向ける。
「どうした。なにかあったか?」
「……」
ひょろりとした体を落ち着いた色の和服を纏い、座布団の上に鎮座する男。
仕事上、弥一の
しかし、弥一は彼の質問には答えず。主人の前だというのに一切の丁重さを感じさせない軽い動作で、戸をバタンと閉じた。
同じく全く気遣いもない足取りで、彼の方向へ足を進める。
黒い執事服に似つかわしくない、その行動。
彼の多少丸まった背が、決して気の緩みでそうなったわけではなく、そもそもそうする気が無いのだと物語っている。
あまりに不遜で、無遠慮な仕草。
だが、しかしと言うべきか、やっぱりと言うべきか。
総司郎の方もさりとて気にもとめずその行動を受け入れている。
全く自然な様子でもう一度彼に問いかける。
「シジマのことか?」
「……そうだ」
今度は返事があった。
それもとても短いものだったのだけど。
総司郎はにこりと一つ笑って、畳の一角の前で足を止めた弥一を座ったまま見上げた。
「しばらく前に容態が悪化したと聞いたが……?」
「ああ」
たしか長距離移動のストレスにからくる呼吸不良、脳波の乱れ……だったか。
医者の一人がそんなことを言っていた。
弥一は軽く息をつく。
「今は、ようやく落ち着いたらしい」
「そうか、それならよかった」
弥一の一言にそう頷いて、総司郎はどこかホッとしたように薄く骨ばった胸をなでおろした。
安堵で、浮かべた表情が力が抜けたようになる。
しかし、総司郎はすぐにその顔を引き締めた。
「落ち着いて、……眠っているのか?」
「そうだな。んな早々に起きねえだろうってくらいにはな」
「そうか……」
もしかしたらもう目覚めて、なんて期待があったのだろうか?
その答えに、総司郎は曖昧に笑んで端正な顔にわずかな陰を落とす。
痩せた肩を少しばかり下げて総司郎は口惜しげに言葉を続けた。
「はやく起きれるようになるといいんだが」
「……」
言いながらついっと移した視線。
そこにはカーテンではなく、小ぶりな障子が間を隔てるガラス窓があった。
二つ合わせた
その片方だけが開いていて、屋敷の庭の片鱗を映し出している。
総司郎は嫌に上機嫌な空の下に広がる、古臭いデザインの庭へと視線を下ろしたのだ。
そもそも建物自体が古い作りをしていて、あまり開放的で無いことに加え、今日は病人なんかが担ぎ込まれてきた。
そのせいで仄暗い気で溢れるこの屋敷。
朝昼ずっとそこで動き回っていた弥一としては、窓の外の日差しが眩しい。
いささか眩しすぎるくらいだ。
その日差しを迎え入れる磨き上げられたガラス戸。
そこを見つめる男の唇が、ふと笑みをつくる。
ついさっきまで陰っていた表情と、打って変わったような柔和な笑み。
弥一は怪訝にそちらを伺った。
──……何を見ている?
視線の方向からして、その目が映すのは大分真下の景色。
庭になにかあるのだろうか。別段変わったものは置いた覚えがないのだが。
そんな、探るような視線を受けて、総司郎はまるで言い訳でもするようにくつくつと笑った。
「トーゴがな、サザンカと庭で遊んでいるんだ」
「……」
朗らかに吐かれた言葉に弥一はのろのろと足を動かした。
目の前の畳で覆われた一間には上がらずに、避けてもう一つ隣の窓まで向かう。
そして、すっと視線だけでその洋風のガラス窓を捉えた。
キラキラと陽光を受けて葉を光らせる植物達。
その中で一際立派な松の木の下。
そこには総司郎の言葉通り、濃褐色の肌の少年とひょろりと背の高い茶髪の青年があった。
そういえば、医者に呼ばれるままこの二人を残してロビーを立ち去ったのだった。
確かにシジマの部屋を出た時は、彼らの姿を見なかったかもしれない。
大して気にしていなかったから今思い出してみれば、といった具合だが。
窓の外では、唐突にトーゴが太い木の幹にしがみつき、ズルズルと体を持ち上げて行くところだった。
それを見て慌てたようにあたふたと駆け寄るサザンカ。
どーのこうのと言い合ってやりとりをしている二人の姿は、少々年の離れた兄弟のそれだ。
どうやら二人で何かを探しているらしく、トーゴが木の上から、キョロキョロと辺りを見渡している。
その様子を見てか、総司郎がくすくすと笑った。
「ははは、可愛らしいなぁ」
「……」
幼いトーゴにならまだしも隣に並んだ大の大人であるサザンカにその表現は如何なものか。
総司郎の言葉の、そんなどうでもいいことが引っかかって弥一は苦笑った。
が、ふと弥一は何かに気づいて考えを改める。
ああ、……いや。
──『ペット』なんだから、当たり前っちゃあ当たり前なのか。
そう、全てはこの飼い主に遊び殺される憐れな畜生。
男か女か子供か大人か。何も関係はないのだ。
その鈍色に囚われて朽ちゆく定めに変わりはない。
それでも。
弥一は鋭い瞳をさらに鋭利に光らせ、低く問うた。
「……何を企んでる」
なにか意味ありげな笑みを浮かべる総司郎の奥を覗くように、弥一はそちらをまっすぐに見つめた。
見つめた、と言ってもその眼光が故にほとんど睨んでいるようなものだったのだけど。
そんな弥一からの厳しい視線。
しかし、総司郎はそれを全く意に介した様子もなくあっけらかんと答えた。
「別に何も?」
とは言え、こんな答えは見え透いているのだけど。
なにもないはずがあるか。
弥一は黙ったまま続く言葉を待った。
「ただ、」
総司郎は一つ息をついてわざとらしく間隔を置いた。
そして、こちらに視線を投げかけてくる。
「次のゲームは面白くなりそうだと思ってな」
悪戯にでも成功したかのように破顔して吐き出したセリフ。
しかしすぐ、何かに気づいたのか表情を固めて、少々慌てた様子で言葉を続けた。
「ああ、いや、違うんだ。もちろん今回のゲームもなかなかだったが……。それよりももっと、ということで」
あたふたとなにやら的のズレた弁明を図る総司郎。
しかし、そんなボケた返答を弥一は黙殺して……。
いや、何も返すことができずにその一つ前の言葉を反芻していたのだ。
その意味を理解して、弥一はわずかに瞠目した。
昨日、ゲームをしたばかりだ。
非合法な遊戯をこんな短期間で?
いやいや、無理だろう。開催側はもちろん参加者だって迂闊な行動には出られないはずだ。
ならば、総司郎の指す『次のゲーム』とは?
それはおそらく、次に出場させるイベントだか大会だかに目星をつけただけ。
弥一は少々安堵の息を漏らした。
次の開催は早くて1ヶ月か2ヶ月後と言ったところだろう。
昨日の今日で、よくもまぁ。
その趣味に貪欲というか、自分の興味のあることに関しては人一倍行動力があるというか。
これが別の、もっと他の形で現れれば何物にも代え難い美点になると思うのだけど。
額に手を当てて、弥一は重そうにそれを支えた。
大体、もし仮に百歩譲ってその判断を良しとしたって。
つい昨日、『あのゲーム』で遊んだばかりなのだ。
そんなのは、
「……早すぎる」
弥一は頭と同じく重苦しい息とともにそう吐き出した。
そこには総司郎を咎めるような、諌めるような色が伺える。
総司郎は瞳を弓なりに細めてにこりと笑った。
「何が?」
「サザンカはまだ昨日出たばっかりだろう」
弥一は顔の中心にしわを寄せる。
そう、あの『新しいペット』は前回のゲームで深く傷を負い、今日だって意気消沈といった様子だった。
あんなのをまたゲームに出すのは愚策でしか無いだろう。
「まぁ確かに」
「やめとけ、今は使い物にならねえだろ。もし出場させるなら別の……」
「まぁ、弥一」
言葉を募って主人を窘めようとする弥一だったが、総司郎に呼びかけられ反射的に口をつぐむ。
そんな弥一をふくふくと眺め、総司郎は薄く笑んだ。
「心配するな、大丈夫だ。サザンカは大丈夫」
はっきりと言い切って、その骨ばった指で窓ガラスの艶やかな表面をなぞる。
音もなくそれが流れていくのを見て、弥一は怪訝に息をついた。
容易くポキリと手折ってしまえそうな指。
しかし、それはまさしくペットたちの首を絞める鎖で。
彼らが踊り転がされる舞台そのもので。
どこかの絵画で見るような、悪魔の禍々しいそれに違いがないのだ。
「……心配してる訳じゃねえよ。俺は」
ぽつり、唇から溢れた言葉。
それは、目の前の主人へ向けられたものではなかった。
窓の外で戯れ遊ぶ憐れな愛玩動物へ落とされた言葉だ。
そう、弥一の言葉は良心や優しさからくる目のではない。
だって弥一はこの主人とともに、彼らを無慈悲に貶める手駒の一つなのだから。
決してサザンカを気遣ったわけではなかった。
ただ、
「面白みもねえ一方的なゲームは好かねえ」
弥一は冷たくそう言い放って窓から視線を離した。
弥一にとって、総司郎の言う『ゲーム』とはさりとて面白くもないものだったが。
それを更に面白くなくす理由はどこにもないだろう。
今までだってまともに楽しめたことはない。
そればかりか、今回のよりも酷いゲームだって観戦したことがあった。
しかし、だ。
今回のゲームはその『ひどく面白くなかったゲーム』のうちの一つだ。
サザンカの戦いが、見ていられないほどのものだったことよりも。
観客のウケはなかなかのものだったらしいことが、特に。
……胸糞悪い話だ。
弥一は口には出さず、胸の内で舌打ちをした。
ちょうどその時だ。
「ははは」
総司郎が唐突に噴き出した。
一体なにが琴線に触れたというのか、全くわからないが湧き出たそれは止むことがない。
弥一はそんなに笑うほど面白みのあることなど、なにもしていないのだけど。
総司郎は面白いコントでも見たかのように笑い声を立てた。
それを見て、弥一は大きく驚くことはしなかった。
軽く肩をすくめただけだ。
この主人の奇行に、弥一はもはや慣れてしまったのだ。
言葉を失うもなにも、もう何も突っ込む気にはなれなかった。
でも、止まる様子のない高らかな笑い声。
弥一は根負けして半端呆れたように、総司郎へと視線を投げた。
「……んだよ」
「大丈夫だ、弥一。少しは俺を信用しろ」
そうからからと笑った和装の男。
総司郎は繰り返す。
「サザンカは大丈夫」
先ほどと全く同じセリフだ。
同じ語調で、同じトーンでもう一度吐き出されたそれ。
弥一は二度目にして、その言葉が確かな『確信』を持って放たれたものなのだと気づいた。
「あいつは
続いたのはやっぱり納得するには難しい、適当な理由。
いや、もしかしたら総司郎の中では何が回路が繋がっていて筋の通った発言やもわからない。
しかし、残念ながら弥一にはそれが理解できるようなトチ狂った脳みそが備わっていないのだ。
だから、理解などできなくても飲み込まねばならない。
どうしようもないことなのだ。弥一にできることなんて限られている。
「……」
「な、いいだろう?」
ほら、たとえばこういうこと。
文字にしてみれば総司郎のこの言葉は、子供が菓子をねだるようなそれに見えることだろう。
しかし、今度のは決してそんな可愛らしいものではなかった。
有無を言わせない、すでに決まったことを確認する意味を強く持っている。
弥一は小さく嘆息した。
これ以上食い下がるのも面倒だ。
結局、何を言ったって耳を貸す気なんてないんだから。
「……好きにすればいい」
「そうか! ならよかった」
ぱっと明るくなる表情。
総司郎はそのまま朗らかに笑った。
「お前の了承があれば、ひとまず安心だな」
「俺の意見なんか聞く気もねえくせによくもまぁ……」
よしんば聞いたって、最終的には強制的に言いくるめていいようにするのがこの男の常だ。
そう、半端諦めたように肩を竦めて弥一は頭を掻いた。
まぁ、決して諦めばかりではないのだけど。
それでも構いやしないのだ。そう納得している節が確かに弥一の中には存在する。
なぜならそう騒ぎ立てるほどの『大ごと』でもないのだから。
傷つこうがのたれ死のうが、弥一の知ったことではない。
理由なんて簡単だ。ペットたちなんぞみんな。
「どうせ、お前の所有物だしな」
「ははは」
その言葉に総司郎が笑う。
横で弥一は眉間にしわを作って、難しい顔で彼の様子を眺めていた。
この屋敷に住まうものは誰も彼もこの男の
きっとこの毒気のない笑顔に弄ばれて、逆らうこともできずに堕とされていく。
「じゃあ早速準備しなければならないなっ」
「……」
ウキウキとした心情をを隠そうともせずに和服の男は軽く机を叩いた。
色づきの悪い頰をわずかに紅潮させ、目を輝かせた。
「次は誰と組ませようか。トーゴ、でもいいがフタツミとでも面白そうだ」
ふふふと穏やかに微笑む総司郎。
穏やか、とはいったがその横顔は興奮の色がありありと伝わってくる。
弥一は黙したまま、それを眺めていた。
彼を不謹慎だと咎めることもなく、かと言って意見に同調するわけでもなく。
返事もなしにじっと。
和服の男が、笑みを深くしていくその様をただ沈黙の中でひとり。
「ゴゼンも捨てがたい。……いや、いっそニノマエかイチゴもいいなぁ」
窓の外で戯れつき合うふたりのペットたちを見下ろして。
もうすでに大分成熟して丸みを失った形をしているはずの鈍色の瞳が、それこそ子供のようにがきらきらと光る。
「武器は持たせようか、アイテムは要らないだろうか、ステージは、……そうだなぁ」
一人そんなことを呟いて楽しそうに、楽しそうに顔を綻ばせた。
あまりに朗らかで、柔らかい、平和ボケたような笑みだ。
まるで飼い犬の出産を喜ぶ飼い主のようなそれ。
あまりに会話の内容と全く噛み合わないものだから、むしろなにか他の深い意味を内包しているようにも勘ぐってしまう。
しかし、弥一は総司郎の奥に潜むものが、決して複雑なものではないと知っていた。
それはただ、単純な……。
それはただ、純粋な……。
ああ、だからこそ。
弥一は静かに目を伏せた。
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