第2話 フタツミ2


 ─5月14日 13:57 倉木邸6号室─




 コンコン、と軽いノックの音が聞こえる。

 音自体はほんの少し空気を揺らす程度の小さなものだったが、そのじつ無遠慮で適当なそれだった。


 フタツミは閉じていた瞼を持ち上げた。

 瞼を持ち上げた……とは言っても、別に眠っていた訳ではない。

 フタツミの意識は はっきりとしていたし、少しも微睡みはなかった

 ただ単に目を閉じていただけ。


 ずるずると重たい動きで体を起こす。

 眠りにはついていないフタツミだったが、でも体はまるで寝起きの時の泥袋のような気だるさがあった。

 重苦しくて息苦しくて、重心が定まらない。


 それでもだらだらと上体を支えて、音のした部屋の扉に目を向けた。

 その奥から、少女の声が鳴る。


「起きてる?」

「何の用、かしら?」


 扉の奥で、その掠れた声をきちんと耳で拾ったのか、ガチャリとドアノブの回る音がした。

 開いた扉から出てきたのは侍女服に身を包んだ少女。格好の割には一切の礼もなく、我が物顔で無造作に部屋に足を踏み入れる。

 まあ、主人のものとはいえ、ペットにまで礼を尽くす気はないのだろう。


 ちらりとベットの上にいるフタツミを認めて和夢は口を開く。


「別に、様子見に来ただけ」

「すこぶる悪いわね。最悪よ」

「それは御愁傷様」


 フタツミがつんけんどんに投げ出した言葉。

 それにしれっとそれだけ返して、和夢は口を閉じた。

 そして、無言のままフタツミを見つめてくる。


 様子を伺うような、気遣うようなその視線。

 はたから見ればまるで姉の身を案じる健気な妹、のようにも見えるかも……。

 この無機質なやり取りでそう見えたりするんだろうか? あまり自信はないが。そう見えることもあるやもしれない。

 

 しかし、当然そんなはずはない。

 だってフタツミは知っている。

 彼女はしているのだ。

 自分が世話を任された、フタツミペットを。

 どろどろと搦めとるような黒曜の目が、隙間なく舐めるようにフタツミを映していく。


 和夢は自分たちの世話係。

 食事や身の回りの整理、体調の管理などを主に担う。

 まだ幼ささえ感じる彼女に世話を焼かれるのは、なにか言い難いものがあるが。そうも言ってられないのである。


 ヒーローなんて名ばかりで、実際の自分の身分なんて畜生以下。

 プライドも矜持もなにもあったものじゃない。

 それが、この屋敷に数年住んでフタツミが学んだことだ。


「頭痛いとか、吐き気がするとか?」

「体が重いだけ。寝てればなおるわ」

「そう」


 こちらを覗き込みながら軽い調子で体調を問うメイドの少女。


 こんな質問もまた然り。当然フタツミの身を案じているわけではない。やっぱりただただ作業的に仕事をこなしているだけだ。

 別に大して気になってもいないだろうが、こちらをまじまじと伺ってくる。

 そしてふいに、ポケットから取り出したメモ用紙に軽くペンを走らせた。


 きっとあとで観察日記でも書くのだろう。

 その行動が悪意など存在しない事務的なものだとわかっていても、観察される側からすれば複雑な気分になる。

 フタツミはその様子を眺めて顔をしかめた。


 ややあって無造作にパタンと閉ざされる小ぶりなメモ帳。

 和夢はふと付け足すようにこんなことを口にした。


「あいつ、シジマが帰って来てるけど? お前は見に行かないの」

「見に行ってどうすんのよ」


 まるでシジマを見世物のように。……いや、本当にこのメイドにとっては見世物程度の認識なのだろう。

 頼んでた荷物が届いたよ並みの軽い口調が、その事実を顕著に表している。


 それに対してもう苛立ちも覚えないほど、フタツミはこの屋敷ここに染まっていた。

 その事実を再認識して、ただ途方もない気持ちになるだけ。

 そんな気分ごと吐き出すように、フタツミは息をついた。


「どうせ会えないんでしょ?」

「まぁ確かにそうだけどさ」


 ほら見なさいよ。フタツミは小さく毒づいてこれ見よがしに肩をすくめた。

 壁に寄りかかった和夢はそんな棘のある物言いにも、呆れたように半眼になったのみで、大きく反応することはなかった。


 代わりとばかりに和夢は続ける。


「サザンカは来てたよ」

「……」


 その名前に、フタツミは一瞬だけ身を固まらせた。


 昨日会った男の名前。フタツミが感情のままに言葉をぶつけて、それを見かねたこのメイドに回収された、そいつ。


「朝からずっとね。だいぶショックだったみたいでさ」

「そう……」


 フタツミは少し顔をしかめて部屋の隅へと視線を移した。

 朝から、ずっと。

 その言葉が、なぜか胸の内で木霊した。


「馬鹿だよね。あいつは今回の件の、被害者みたいなもんなのに」

「……」


 ──わかってるわよ、そんなこと。

 彼女のセリフに昨日のことを思い出して、フタツミは責めらてでもいるような気分になった。

 それが顔に表れて、苦々しい表情になる。


 そう、サザンカは被害者なのだ。

 あの飼い主に遊ばれて、死にかけた。憐れな被害者のひとり。

 責めてもなんの意味もない、男なのだ。

 それを昨日のフタツミは。


 和夢は呆れたように眉を寄せた。


「そう睨まないでよ。お前を責めてるわけじゃないんだから」


 睨んでいた、つもりはないのだけど。

 言われてフタツミは和夢から視線を逸らした。


 責めているつもりはない。

 その言葉通りこの少女には何の意図もないのだろうことはわかっていた。しかし、フタツミにとってはどうにもこの話題は気まずい。

 そのせいで、目つきが険しくなっていたのかもしれない。


「睨んでないわよ。私だってわかってるもの」


 フタツミは頰をチクチクとつつく自らの鬱陶しい髪を、乱暴な動作で後ろに払った。


 わかっては、いるのだ。

 サザンカには何も罪はない。彼が自ら手を下してシジマを殺したわけではないし、勿論彼がそれを意図して企てたわけでもないのだ。


 もし、今回のことに罪人がいるとしたら?


「……全部倉木あいつのせいじゃない」


 きっとそう。

 我らが飼い主、倉木総司郎そのひとだ。


 全てを企み、測って、実行した。

 サザンカも、シジマも、それに振り回されただけ。……いや。


 ──結局、あいつの手の上で踊っただけだわ。


 そうとも気づかぬままに、ただ悪戯いたずらに。

 その果てには転がされ、落とされ、割れて砕ける運命にあるというのに。

 必死に、必死に。

 踠いて、足掻いて、そのまま。


 そう唇を噛むフタツミの横で、ふと和夢は肩をすくめてみせた。


「馬鹿だね」


 そんな和夢が呟いたのはこんなこと。

 フタツミは思わず眉をひそめた。


「何よ」

「別に。気づきたくないのか本当に気付いてないのか知らないけどさ。どちらにせよお前は滑稽だよ」


 ふぅ、と息をついて和夢はベットの横の壁に背中を合わせ、体重を預けた。

 相変わらず彼女の纏う衣装には幾分か似合わない姿勢。でも和夢をよく知るフタツミには何の違和感もない動作だった。


「倉木は関係ないでしょ。あのゲームだけならサザンカはああはならなかった」


 腕を組んで、頭も壁に預ける。

 和夢のその整えられた短い髪が壁に擦りついて、少し形を崩した。


 一方のフタツミは彼女の言葉の意味を掴みあぐねて訝しげな表情になる。

 しかし、フタツミは急かすことはせず。

 古ぼけた壁に寄りかかる和夢を横目で視認しながら、次に続くものを大人しく待った。


 ややあって、メイド服に身を包んだ少女の、小さめの口がぽっかりとその形を作った。


「シジマだよ。あの偏屈猫」


 全く抑揚に欠ける平坦な声。

 それが告げた名前にフタツミは目を見張った。


 和夢は静かに息をつく。


「あいつはどう考えても自殺でしょ」


 ズキリ、胸のどこかが痛みを訴えた。

 ──自殺、だなんて。そんなこと。

 ふざけたこと言わないで。そう、吐き出そうとして。

 言葉は喉に張り付いて引き攣った息に変わった。


 だってフタツミも、から。

 あの映像を見たときに。頭のどこかに浮かんだその文字。


 シジマのあの行動は、きっとサザンカを想っての行動ではない。

 サザンカには少しばかりの感情があったかもしれないが、きっとシジマは。

 あそこにいたのがサザンカじゃなくたって同じ行動をした。

 シジマにとってサザンカはただのきっかけに過ぎなかったのだ。


 そう思ってしまった。そう思えてしまった。

 そう、わかってしまった。

 あのゲームのあの瞬間、フタツミは無意識にそれを理解できてしまった。


 ああ、それでも。

 それでもなんとか否定する言葉を探す。

 認めたくなかった、信じたくなかった。そんなこと、あり得ない。

 なのに、


 フタツミの口は細い息を吐き出すばかりだ。


「……」

「哀れな奴だよ、そんなのに巻き込まれて、塞ぎこんじゃってさ」


 和夢はどこか遠くを眺めながらそんなことを言った。

 そのどろりとした黒曜に映るのはこの部屋の天井だというのに、彼女はその向こうにあるどこかを映しているようだった。


 そんな和夢の表情に、ほんの少し苦味が混ざる。


「まぁ、あいつもあいつなりにおかしな奴なんだけど」

「……?」


 ぼそり、そう付け加えた和夢。その意図が掴めずフタツミは目を瞬かせた。

 しかしすぐに合点がいく。


 飼い主総司郎の連れてきた男だ。彼の好みそうな一面を持っていなくちゃ、こんな場所に連れてこられないだろう。


 和夢ははぁっと大袈裟にため息をついた。


「なんにせよ、シジマは被害者じゃないよ。あいつは今回の加害者で、自業自得」

「……」

「心配なんて、する義理もないんだよ」


 和夢の黒目がちの目がフタツミを貫く。

 それに射抜かれてフタツミは苦虫を噛み潰したような顔になった。


「それでも、全部の大元おおもとは倉木だと思うわ」


 そうして呟いたのは、こんな負け惜しみとばかりの言葉。

 シジマの、彼女自身の選択だったとしたって。

 誰に罪があるか、それを問うたならば。


 シジマがそれを選んだのはきっと。

 選ばざるをえなかったのはきっと。

 あの男のせい。


 あいつさえいなければ、こんなことにはならなかった。

 それだけは変わらない。


「諸悪の根源だからね。それを前提として今回のはってこと」


 和夢の方も小さく首肯し、これに限ってはフタツミと同意見だとした。

 全ての根元にいるのはあの男。

 その穏やかな笑みが頭にちらついて、フタツミは唇を噛んだ。


 ぐわんぐわんと不快にぐらつく頭を振るってその影を払う。

 昨日から一睡もできてないフタツミの脳はたったそれだけの動きにも耐えられず、軽い吐き気と眩暈を引き起こした。


 不安定な視界のなか、振り払ったはずの人影がまたちらつく。

 ああ、でもそれは、あの男総司郎の姿ではなく……、


 その影の姿を確かめて、フタツミは思わずこんな言葉を落とした。


「私も、なにもできなかったわ」


 サザンカと同じように、もしかしたらそれ以上に。

 するだけ心配して、なにも行動に移せぬまま。シジマを見殺しにしたのはフタツミだ。


「そうだね。お前は無力だ」


 そんなフタツミに返ってきたのは短く簡単な肯定。

 ギリッと音を鳴らした奥歯が痛みを訴える。


「どうにか、したいのよ。……できないってわかってても」


 苦しげに吐き出した声は掠れていた。


 無力とは罪だ。なにもできないのに、誰かに祈るなんて馬鹿馬鹿しい。

 ヒーローもなにもいるはずなんてないんだから。


 結局、自分で対処しなきゃ。そのために力をつけなきゃ、いけない。

 力のないうちは反撃などもってのほか。蹂躙されたまま耐えるしかないから。


 今回のことはまだしも、ペットのうちの誰かが不能になるなんてこと予測できたことだ。

 その対象が、シジマである可能性を思えば、備えることだってフタツミには。


 それをしなかった……、だから今がある。

 ああ、やっぱり無力とは罪だ。


「非合理的だよ。人間、結局できることしかできないんだ」

「……」


 フタツミの言葉に和夢はため息をつく。


「うまいとこで折り合いつけなきゃ」


 すぅっと細めた目の奥に、どこか諦めのようなものを滲ませた少女。

 その言葉にフタツミは低く呻いた。


「……じゃあどうしろっていうのよ」

「知らない、ボクに聞かないでよ。そこは自分で考えて」


 和夢はそう言ってため息を一つ落とした。

 しかし彼女の唇は、でも……と言葉を続ける。


「諦めてなかったことにすることはできるでしょ」


 ……そんなの。フタツミは唇を噛んだが、その後に続くのは苦しげな呼吸のみ。

 和夢は呆れた声でフタツミを嘲った。


「お前も懲りないね」

「……」


 ああ、その言葉はフタツミにとって何よりもの皮肉。

 何よりもの侮蔑。


 ……そして、何よりもの断罪だった。


「それができなかったから、お前はここにいるんじゃん」


 フタツミの脳裏に浮かぶのは、数年前のこと。

 あの日、あの時、あの場所で。

 地獄ここに身を堕とした夜のこと。


 それは、血反吐を吐く思いで悪魔に縋った、記憶だ。


 フタツミは震える指を握りこんで、腹の底を震わせるような声で呻いた。


「うるさい、わね」

「ピリピリしないでよ。煮干でも持ってこようか?」


 小首を倒してそんなことを尋ねる和夢。

 その表情には、悪意どころか善意でさえも映されていない。


 無表情で吐かれたその言葉はなんの意味もなく。

 ただただ、機械的に用意されたセリフを読み上げただけのようだった。


 もし仮に、場を明るくするためのジョークだったとしても、全くもって形を成さないそれは一周回ってやっぱり無意味だ。


 出てって。自分でも驚くほど低い声が出た。

 同じ声音で、繰り返す。


「出てって、気分悪いって言ったでしょ。……もう寝たいの」


 体が重い。それは寝不足からでもあり、気の重さがそのまま体に出ているせいでもあった。

 思わず額に寄せた片手。それは並みの熱を拾うだけに終わった。

 グラグラ浮つく頭を支えるのには、震える指では役者不足だったのだ。


「あそ、それは悪かったね」


 和夢は、なんの手ごたえもなくその要求を快諾して、踵を返した。

 ひらりと膝丈のスカートが翻る。


 機械的な靴音が少しずつ遠ざかる。

 それに続いてノブの回る音、ドアの軋む音、細かな布擦れ。最後に静かに響いたバタンとドアを閉める音。

 フタツミは視線さえ投げずうつむいたまま、その一つ一つを聞いていた。


「……」


 少女の足が外の廊下を辿っていく。その機微を感じて、フタツミの肺が大きく広がった。

 深く吸い込んだ空気。

 それを体が潰れるまで吐き出した。


 フタツミの頭を無益に巡るのは先ほどの問答だ。

『シジマは自殺した』

 そんな言葉の一つさえ……否定、できない。

 この事実が、フタツミの胸を締め付け呼吸を奪った。


 だから、それをかき消すために深い呼吸を繰り返す。

 ああ、でも結局はこの行動になんの意味もない。

 酸素は身体中に行き渡っているはずなのに、息の詰まるような閉塞感がフタツミを襲う。


 何もできずに、何もせずに、彼女を見殺しにしてしまった。

 自ら死の淵へ飛び込む彼女を止めることも、支えることも、なにも。


 過ぎたことだ、考えたってしかたない。

 ただ、後悔するだけで何の特になるというのだ。こうやって頭を抱えるだけじゃ彼女は目覚めない。

 そんなこと、わかってる。


「じゃあ、なにができるってのよ」


 部屋の中、いやに響いた自分の声。

 それがフタツミの胸を突き刺した。


 どこまでも無力なフタツミに、許されたことはなんだろう。

 浪費でしかないのに、考えることは許されるだろうか。

 なんの役にも立たないくせに、祈ることは許されるだろうか。

 泣いたり、喚いたり、苦しんだり、息を続けたり……。


 自分を責め続ければ、赦されるだろうか。


 ──「お前も懲りないね」


 ああ、あのメイドの声が頭の中で反響する。

 フタツミは自嘲気味に頬を持ち上げた。

 ふふ、乾いた笑い声がこの古びた監獄自室にとめどなくあふれた。




「ばっかみたい」

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