第3話 フタツミ1


 ─5月13日 18:40 倉木邸玄関ホール─




「……あいつは今、昏睡状態ってやつだよ」


 まだ低くなりきれてない声が淡々と告げる。

 予想していた『最悪』すら凌駕する、その事実。

 それに足元が、崩れていくような錯覚を覚えた。

 ふわりとした浮遊感ののち、なすすべもなく下に引き摺り下ろされる。

 失墜の表現としてはありきたりな、しかしそれだけに確かな形を持ったビジョンが頭の中を駆け巡った。

 突如消え去った足場に戸惑うより先に、全身が宙を舞う。

 そして、容赦無く叩きつけられて、そのあとは……。


 なんて。

 その間、僅か数秒。言葉を告げられてから少しもたたない瞬く間の出来事。

 そんな短い時間でそのまま深い谷底にかばねを横たえた。


 ああ、こんなことって……あるかしら?

 こんなの、こんなのは。


 震える肩。軋む奥歯。

 理性の糸がブチ切れて、何を喚いたかも覚えていない。

 感情のまま、本能のまま、半端何かにすがるような気持ちで。

 吐き出した言葉は全く弾丸のようで。

 撃ったら帰ってはこない。相手の胸を貫いて、ずっとそのまま。


 気がついたら床に倒れていて、頬と口内に痛みを感じた。

 冷たい痛みが、どろり溶け出した鉄の味が、まだ脳の隅に残っていたフタツミの正常な思考など飲み込んでしまった。


 感情に抗う術はどこにもなかった。


「あ、いつッ!!」


 和夢に連れ去られた男を睨んで、ギリリと奥歯が鳴る。

 別に彼らを追いかけて行ってどうしようと言うわけではないが、煮えたつ腹はおさまらない。

 それをぶつけて気が晴れるということでもないが、何もしないで突っ立っているのも締まりが悪い。


 そんな感情のままにふたりを追おうとするフタツミの手にすがったのは、トーゴだ。


「フタツミ、なあフタツミってば」

「あの子はッ、シジマはッ! なんであんな奴のために!!」


 腹が立つ 腹が立つ 腹が立つ 腹が立つ 腹が立つ!!!

 ただ阿呆のように佇むだけの男が、シジマに助けられたあの男に、腹が立ってしょうがない。


 頭ひとつも下げないでぽおっと立っていた青白い顔の男。

 その横っ面を引っ叩き返してやりたい。

 フタツミは手のひらを握りしめた。


 いやあの時、逆に謝られていたとしても、相手が下手にいるのをいいことに怒鳴りつけてある光景しか思い浮かばないのだけど。

 そんな冷静さを今のフタツミが持ち合わせているはずもない。フタツミはただ煮え立った腹を沸かせることしかできないでいた。


 トーゴをやんわりと振り切って一歩踏み出したフタツミ。

 そこに空五倍子うつぶし色の影が立ちふさがった。


 背は高いが、肉つきの悪いひょろりとした体。そのシルエットは、いくら相手が男といえど女のフタツミの力でも難なく突きとばせてしまえそうなほどに頼りなかった。

 もちろん、瞬間的にそう判断したフタツミは実行しようと、腕に力を込める。


 しかし、だ。

 その思考が現実になることはなかった。

 目の前に立ちふさがった影。

 そいつは不意に手に持った小型の機械を口元に寄せたのだ。

 奇妙な動き。

 しかし、彼女には。『彼女ら』にはあまりに馴染みのある体制だった。

 影が、あくまで柔らかく、穏やかな口調のまま【命じ】る。


「フタツミ、【落ち着くんだ】」

「────ッ」


 冷や水を浴びせかけられたような衝撃。

 その【音】が紡がれた瞬間、フタツミの呼吸が止まる。


 奪われる。

 それは呼吸だけではない。

 ……全て、何もかも。

 その声は彼女の全てを奪って駆け抜けた。


 ざぁっと引いていく熱と、瞬時に霧散していく昂り。

 沸騰していた血液が正常以上に温度を下げ、心音が穏やかなテンポを刻み始めた。

 そうやって、フタツミの心音は落ち着きを取り戻していく。


 なすすべも、抵抗するすべもなく。

 彼女の意思にすら反して。


「……」


 その【命令】を最後にぷつりと黙り込んだフタツミ。

 彼女に総司郎は穏やかに微笑みかけた。


「どうだ? 頭は冷えたか?」


 少し困ったような柔和なそれに、悪意など微塵もあるはずがなく。

 フタツミは表情を歪めた。


「……お陰様で、ね」


 それでもなんとかそう口にして、忌々しげに首元の輪を撫でた。

 フタツミはゆっくりと深く息をつく。

 ぼんやりと痺れる首の接合部。

 薄桃なんて可愛らしい色をしているが、この首輪の忌々しさを知っているフタツミは小さく舌を鳴らした。


 ここから流れる電流に、フタツミたちは支配されているのだ。

 逆らえない、抗えない。

 ──この【声】には決して。


 首にはめ込まれた拘束具。

 これこそ、フタツミたちが『ペット』と称される所以だ。

 首輪で繋がれて、主人に忠実に従い、縛り付けられる生き物。


 その1人である少年、トーゴが総司郎に並んだ。

 そして、忠犬らしく主人に追随する形でフタツミを叱った。


「フタツミ、だめだぜ! サザンカだって悪気があったわけじゃないんだから」

「……」


 幼い少年にそう諭される。

 そのことに若干のむず痒さを覚えるが……。

 平静より冷静を取り戻したフタツミの頭は、普段以上に理性的な回答を見出した。


 そう、考えてみればトーゴの言う通りなのだ。

 全くにその通り。彼は見物人の娯楽で、飼い主の娯楽で、見世物にされて遊ばれただけ。


 言うなれば被害者。詰られるわれなどないはずなのだ。

 それなのに、


「……そうね、悪意なんかあったのは倉木こいつだけだわ」


 先ほどのフタツミの言葉は、自体の大きさに冷静を欠いていたことを差し引いてもお釣りがきてしまう。


 頭に血がのぼると何にも見えなくなってしまうのはフタツミの短所のひとつ。

 シジマのことで頭がいっぱいで。でもぶつけどころがどこにもなくて。叩きやすいサザンカを的に選んだ。ただそれだけのこと。

 つまりこれは酷く理不尽な八つ当たり。


 強制的に静まった頭で追えば追うほど自分の非ばかりが浮かんでくる。

 あまりにも目に余る、大人気ない行動。

 ──我ながら馬鹿馬鹿しくて笑えるわ。


 そうため息をついたフタツミの、先の言葉に総司郎が苦笑いをする。


「なんだそれは、悪意だなんて失礼な」

「言葉の通りよ」


 思考さえ冷えれば、もとの皮肉屋なフタツミが戻ってくる。

 その皮肉屋な一面が暴走した結果が先の騒動なのだけど。

 暴れ出さなければ、彼女は物事を慎重に見極めて相手の出方を探ることのできる思慮深い人間だった、


 相手のアラを探し、容赦無く叩く。

 現状で言えば、その相手とは総司郎だ。

 

 そうする為に、フタツミが目を向けたのは、総司郎自身ではなくその後ろに佇む執事。

 彼に冷めた視線を送りつつ、小さく肩をすくめた。


「弥一も和夢もあんたに従ってただけでしょ。ならやっぱり悪意があるのはあんただけよ」

「そんな! 俺は二人を無理やり従わせたりはしてないぞ」

「悪意の否定はしないのね」


 やっぱりあったんじゃないの。フタツミは顔をわずかに引きつらせた。

 大体、


「本当に無理やりじゃないから不気味なんじゃない」


 そう言うと、執事はわずかにむっとしたような表情になる。

 しかし何も言わないところを見ると、あくまで沈黙を守るつもりのようだ。


 そんなフタツミの顔を見て総司郎が急に慌てたように後ろの弥一の腕を引いた。


「ああっフタツミ! そういえば頰は大丈夫か? ……ほら、弥一。タオルかなにか、冷やすものを」

「……」


 言われてようやくひりつく痛みを思い出した。

 きっと赤く腫れているのだろう。総司郎が眉尻を下げて見つめている。


 そして追い出すように執事を奥へと押し出し、急ぐように命じた。

 執事はその命に、めんどくさそうに顔を歪める。……執事にあるまじき反応だ。

 しかし変わらず文句も何も発言しないまま、そのまま素直に奥へと消えていく。


 フタツミは顔をしかめた。


「んとに不気味」

「そんなことを言ってやるな。あいつは案外ひょうきんなやつなんだぞ」

「ひょうきんって……、更に輪をかけて不気味ってことがわかったわ」


 総司郎のセリフにそう返して、身を震わす仕草で怖気を表した。

 確かに総司郎がいないところでは二言三言話したことがあるが。あの口数の少ない執事に、「剽軽ひょうきん」と表現できるようなおとぼけた一面があるとは思えない。


 総司郎はまだ心配そうな顔でフタツミを見つめている。

 心配ではあるが、タオルが来るまで何かする事もない。

 そんな事で困ったように端正な顔を歪める男を、フタツミは鬱陶しく思いながら無視を決め込んだ。


 ヒリヒリと痛むだけではなく、熱を持ち始めた頰に触れる。

 ──自業自得とはいえ、これはちょっと。

 鏡を見て自分の状況を確認したい気もあるが、逆に絶対にしたくないと言う思いもある。


 フタツミが悶々と爪を噛んでいると、視界の端でトーゴが倉木の袖を引いた。


「なあクラキ」

「なんだ? トーゴ」

「シジマは?」


 問われた言葉に固まったのは総司郎ではなくフタツミの方だ。

 総司郎が質問の意味を掴みあぐねて首をかしげる。


「……?」

「シジマは今どこに?」


 そうだ。取り乱す前に聞かなくちゃいけないのはそういう事だ。

 あまりの事態に大事なことを忘れていた。


 フタツミも総司郎に視線を送る。

 すると総司郎はふわり柔らかく笑んだ。


「ああ、安心してくれ。検査があって今は医者の元で療養してるが、明日には家に戻ってくる」

「ほんとかっ、やったー!」

「なんでよ」


 無邪気に飛び跳ねるトーゴとは裏腹に、フタツミは眉をひそめた。

 仮にも昏睡状態の重患者をただの民家に預けてくれるだろうか。

 確かに民家のなかでも上級の住宅で、もはや屋敷と呼べる建物だが、それでもだ。


 ──大体、まともな機材のひとつもないでしょうが。

 しかし、総司郎は事も無げにヘラリと笑った。


「自宅療養って言葉があるだろう?」

「あるけど……、それが何?」


 これもそのひとつだというつもりか。

 フタツミは呆れの表情を作るが、どうやらあながち間違いではないらしい。

 総司郎が首肯した。


「案外一般的な処置らしいぞ? 環境さえ整っていれば眠ったままでも可能らしい」


 感心したようにそう言って総司郎は顎を撫でた。

 医療知識に疎いフタツミにはにわかに信じがたい話だ。

 しかし、最近の医療技術はおいそれと否定できないほどの進歩の一途を辿っている。

 まぁ進歩するだとか言う以前に、事実上でも随分前から可能なのだけど。フタツミが知る由も無い。


 訝しげに眉を寄せるフタツミを横目に、総司郎はそれに……と続ける。


「ひとり寂しい病室よりはそっちの方がいいと思ったんだ」

「ふん、それはそれはお優しいことで」


 鼻を鳴らしてフタツミは冷めた視線を投げた。

 もちろん言うまでもなくこれは皮肉で、彼が優しいだなんて思ったことは今回に限らず一度もない。


 その証拠にフタツミは、続けざまにボソリとこんなことを呟く。


「ホントの理由は?」

「彼女は非合法な怪我を負った訳だし、手に届かない場所には置いておきたくない。できれば近くで内密に処置できたらと、な」


 すらすらと先程とはガラリと気色けしょくを変えた答えを述べる総司郎。

 その様子にフタツミは顔を引きつらせた。


「いつになく素直じゃない」

「今日は機嫌がいいのさ」


 そう言って大仰に腕を広げてみせる、和装の男。

 さらりと朝一番の風のように清々しく、軽やかに笑む様は、この屋敷地獄の主とは到底思えない。


 ……これだから、この男は掴めない。信用できない。

 フタツミは唇を引き結ぶ。


 大きな動きに合わせて揺れる大判な袖が風をはらんで音を立てる。


「いい拾い物をしたからね」


 くすくすと喉を鳴らす男。

 その言葉にフタツミは肩をすくめた。


「あのフヌケ野郎のことかしら?」

「サザンカのことだな!」


 フタツミの嫌味にトーゴが大きく頷いた。

 フタツミの中でサザンカが『フヌケ野郎』だということを、トーゴは案外きちんと理解しているらしい。


「あははは、言ってやるな。初めてだったんだから仕方がないだろう」


 少々苦味を足した笑顔でそう言って、総司郎は穏やかに、しかしそれでいて諌めるような色を混ぜた声でフタツミの肩を叩いた。


「仲良くしてくれよ? お前たちの新しい家族なんだから」

「快諾はしかねるわね」


 ふははっと大きく笑って総司郎はふと視線を屋敷の奥へと投げた。

 するとそこにはようやく戻ってきたらしい弥一が小ぶりな桶を片手にこちらへ歩いてくるところだった。

 そのもう片方には別の何かを持っている。


 手の届く位置まで来たところで弥一は総司郎にそれを渡し、フタツミにも無言のまま桶を寄越した。

 総司郎は渡されたその紙片にスラリと視線を流す。


「……うん、明日の午後には担当の医者がうちにいろんな機材を持って来てくれるらしい」


 何が書いてあったのかは知らないが総司郎はうんうんと頷いてみせる。

 ポツリとそんな事をこぼして、すぐにフタツミたちに笑いかけた。


「その時に、彼女に会えるさ」

「……」


 それだけ言って総司郎は踵を返す。

 絨毯を擦る部屋ばき用の草履の音が遠くなる。

 フタツミたちは何も言わずにそれを見送った。


 空五倍子色が見えなくなると、フタツミは深く息をつく。

 それから無造作に渡された濡れたタオルのひとつを掴んで、痛む頰に押し当てた。


「大丈夫だってさ」


 無音になった空間でトーゴが呟くように言った。

 そしてさらに続ける。


「また会えるって」

「だからって喜べる結果じゃないわ」


 慰めようとしているらしいことはわかったが、フタツミの方は呆れたように素っ気なく応えた。

 会うと言ってもシジマは深い眠りの中で、大丈夫だなんてただの願望に過ぎない。


 そんな冷めた返答にトーゴは苦笑う。


「でもシジマは生きてるよ」

「生きてりゃいいってわけでもないし、私たちには……、」


 フタツミはそこで言葉を切った。

 これは。この先は、幼い彼に告げるべきではない事だと思い直したから。


 そんなフタツミに微笑みかけてトーゴはにししと子供らしい笑顔を見せた。


「そうかなぁ」

「そうよ」

「そこをなんとかっ」


 意味もなく食い下がってくるトーゴ。

 陽気なその空気に押されて、フタツミは今置かれている状況を忘れそうになる。

 ひき結んだ唇が、僅かに緩む。


 でも、だめだ。

 ぐっと引き下げた口角。それを自らの歯で押さえつけて、痛みで自信を叱った。

 だって、この幼い子供にさえ、取り巻く世界は無情に牙を剥く。


「無理ね」

「そっかぁ」

「ええ」


 眠ってしまって目覚めないシジマ。

 つぎ、こうなるのは彼かもしれない。もちろんフタツミにだってありえることだ。


 そうならないためには、そうしないためには、だなんて。

 抗いようもない癖に、考えたりして。


 トーゴはポツリと彼女に呼びかけた。


「なあ、フタツミ」

「何よ」


 なにか言いにくそうに口ごもり、ごにょごにょと口内で言葉を組み立てる少年。

 大人しくそれを待っていると、ややあってトーゴは口を開いた。


「サザンカのこと、まだ怒ってる?」

「……」


 なんの気なしを装って、ちらちらとこちらに視線をよこす。

 ……彼なりにさっきのやり取りは気ががりなのだろう。

 なにせ、彼は本当に自分たちを『家族』のように思っているのだから。


 フタツミはため息をついた。


「いけ好かないやつだけど、今回のはちょっと悪かったかなとは思ってるわ」


 ボソボソと早口にそう言ってフタツミはそっぽを向く。

 するとトーゴは大きく笑ってみせた。


「いけ好かないけどね!」

「あははは」


 負け惜しみとばかりに念を押して、フタツミは眉間にしわを寄せる。

 しかし、何が嬉しいのかトーゴは相好をふやけさせたまま。


「えへへ」

「それが何かしら? ニヤニヤしちゃって、気持ち悪いわよ」


 フタツミが訝しげに眉をひそめると、ふにゃふにゃと笑っていたトーゴが意味ありげに少々の間隔を置いた。

 フタツミがむすっと続きを待ちぼうける中、トーゴが返したのは悪戯めいたこんなセリフ。


「なんでもないっ」


 ひとり笑みをこぼす少年にそう跳ね除けられてしまえば、フタツミになすすべはない。

 だからただ、訝しげに首をひねるしかないのだ。

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