第2話 サザンカ 1
─5月13日 18:30 倉木邸玄関ホール─
体のどこにも力が入らないまま
サザンカより先に降り、後部座席の扉を開けたままそこに佇む小柄なメイド。
動かないところを見ると、サザンカのために開けたままでいてくれているようだ。
──じゃあ、またせちゃ悪いよな。
のそのそと重たい動きで外へと繋がる穴から這い出た。
その先で、顔を上げてそのメイド、和夢の方を見れば、向こうもサザンカを見ている。
ずっと変わらず無表情な彼女と、サザンカの視線が交差した。
まるで意思を持たない人形のような、そんな冷徹な色を湛えた漆黒の瞳。
まだ外は明るいのに一切の光を反射しないどろりとしたその色は、覗き込めばそのまま絡め取られてしまう。
奥へと
しかし、そんなものを今のサザンカにどうやって感じ取れというのだろう。
足が棒のようで、関節がうまく曲がらない。頭はボーッと靄がかかっていて、体はずっしりと濡れた砂袋でも詰め込んだみたいだ。
重くて重くて潰れてしまいそうなぐらいに。
何も考えられなくなる。いや、もはや思考なんてだいぶ前に奪われてしまっていた。
だから、探る気力も誘われる気力もなかったのだ。
サザンカは生気のない抜け落ちた表情で彼女を一瞥しただけで、すぐに視線を落とした。
ずるずると体を引きずれば、肩越しに和夢の姿が見えなくなる。
後ろから背中を撫ぜる視線だって気づかないまま、サザンカはゆらゆらと歩いて行った。
バタンと無造作に扉が閉まる音を背に、サザンカは妙に上機嫌な和服の男に続いて木製の重厚な両開き戸をくぐる。
足取りのおぼつかないサザンカを小綺麗な玄関ホールが迎え入れてくれた。
昨日はひどく感心したはずの、足の底を包み沈ませるふかふかの絨毯。
それは、持ち上がらない膝から下を引きずって歩くサザンカには、嫌に引っかかって邪魔っけだ。
しかし、だからと言って立ち止まることはなかった。足を絨毯に絡めながら、サザンカはふらりふらりと屋敷の中に足を踏み入れる。
すると、
「シジマッ!」
玄関ホールから見える大きな階段。
その上の階から女がひとり、早足で降ってくるところだった。
どこか焦燥に駆られるような足取りは乱暴で、床板を小気味よく叩いて音を鳴らす。
そんな女の後ろを追うのは、黒人の子供……、少年だ。
女に遅れないよう、小走りでこちらに向かって来ていた。
妙な組み合わせである。
どうしたって無視できない。目を惹く二人だ。
サザンカは無造作にそして無意識に2人を視線で追った。
その少し先で、総司郎が彼女らを見つけてふわりと笑む。
「ただいまフタツミ。……トーゴもか。わざわざ出迎えてくれるなんて、嬉しいなぁ」
「おかえりクラキ!」
「んなバカな事一生するもんですか。……で? 倉木、シジマは?」
流暢な日本語で明るく挨拶する黒人の少年。女はそれを軽く押しのけて大股に総司郎へ詰め寄った。
「シジマはどこにいるのか聞いてるのよ」
女の声は不自然に低く、拭いきれない怒気を押さえつけて立っているのだとわかった。
険しい瞳が総司郎に向けられている……。
だというのに、それをつるりと受け流して、総司郎はにこにこと朗らかだ。
そんな総司郎を横目に、サザンカはぼんやりとその女を観察していた。
ぴょこぴょことあちらこちらに飛び回る毛先は髪型だろうか、単なる癖だろうか。その判断にすら悩むチョコレート色の髪。
紫色の眼鏡の向こうの湿度の高い瞳からは陰気な印象を受ける。
あまり美人ではない女だ。それが、サザンカの第1印象だった。
確かに色めきにも艶めきにも欠ける彼女はサザンカのストライクゾーンから大きく離れていて。
いつもならそれでも調子よく冗談まじりに口説いたりするのだけど。今、そんな気力はカケラだってなかった。
だからただぼぉっと彼女らのやり取りを後ろから見ていた。
ただ、
ただ、呆けたように。
「まぁ、そう焦るなフタツミ。ちゃんとシジマは生きてる」
「じゃあ早く出しなさいよ。いるんでしょう? ……もしかしてまだ車の中に、」
「フタツミ」
苦笑った総司郎に矢継ぎ早に言いよる女。
その表情には焦燥が見て取れる。
──前に出たのは、和夢だ。
眉を寄せて総司郎から視線を外し、和夢に移した『フタツミ』とか言う女。
和服の主人の半端後ろを陣取って、彫刻のように佇むメイドの少女。
その深い瞳に絡め取られて、女はぐっと押し黙った。
それを見計らってか、和夢が息をつく。
「あいつは生きてるよ。まずこれだけは確実」
「……そんなの、あたりまえじゃないの。何よ急に」
そう落ち着けるようにゆっくりと言ってから和夢はすぅと目を細めた。
フタツミが警戒したように身構える。
まあ、それもそのはずだ。
『ゲーム』をしに出て行ったシジマが、死ぬわけがない。
命の心配なんて、もともとしちゃいなかっただろうから。
女がおそるおそる口を開く。
「『あれ』はあくまでゲーム……でしょう?」
「そうだね、たしかに遊びで単なる娯楽。いわゆる疑似体験だよ」
和夢は素直に首肯する。
その素直さが逆に不気味だ。
フタツミは眉を寄せて、少女を睨んでいる。
……言葉を待っている。
その胸にあるのは不安か、切なる祈りか、その両方か。
サザンカには、わからない。
わかりはしないが、わかるはずもないが、ズキリと胸が痛んだ。
機械的で単調な声が続ける。
「ただ、どんな遊びだって人によっては刺激が大きすぎることだってある。
「……」
フタツミは吐きづらそうな息を吐いて緊張を走らせている。
この後に告げられる言葉があまり喜ばしいものではないと、悟っているのだろう。
それでもそんな『最悪』を振り払うように、唇を噛んだ。
ああ、でもサザンカは知っていた。
だから、わざと視線を晒した。
だってこれから先に告げられる真実は。
彼女の望む通りではなく、それどころか……
「……あいつは今、昏睡状態ってやつだよ」
「!!!」
普段通りの平坦な声が予想通りの。いや予想以上の、最悪を紡いだ。
フタツミが言葉を呑む。
大きく瞠目して、蝋型にはまったように動かなくなる。
そう、なのだ。
あの後もずっと、シジマはまだ目覚めない。
車のなかで、そうなれば届くはずの着信音は一度も鳴らなかったから。
眠っているのだ。あのまま。
ずっと、ずっと、ずっと。
まだ、なんて言葉を使うほど長い時間は経ってないはずなのに。サザンカには僅かな時間でさえ永遠のようだ。
はやく、はやく、目覚めてほしいのに。
もう大丈夫なのだと、もう案ずることはないんだと。
彼女は無事だったのだと、安心したいのに。
彼女は目覚めない。
その期間について全くの目処が立たないのだと、執事が言っていた。
しばしの絶句のあと、フタツミは唇をわなわなと震わせる。
「は、あ? なに、よ昏睡状態って、」
「意識障害のひとつだよ。外からのどんな刺激にも反応しない状態のこ……」
「そんなこと聞いてるんじゃないでしょ! 私はなんでそうなったのかって言ってるのよッ」
和夢の全く的を射ないずれた返答にフタツミが声を上げる。
先ほどの低い声とは違う。
明らかに動転した、裏返った叫びだ。
仕方ないなと肩をすくめて和夢はため息混じりにこう言った。
「お前も観てたんでしょ? 原因なんか知ってるはずだよ」
「だからッ……!!」
ゲームの中での怪我で何故そんな状態になると言うのか。
食い下がった彼女の言いたいことはそういうことだ。
リアルすぎるゲームの光景が頭をよぎり、サザンカは顔を歪めた。
夢なんかではなかった、確かにあれは『現実』であったのだ。
あの痛みも苦しみも絶望も。少なくとも、サザンカにとっては。
……じゃあ、なぜサザンカは生きているのだろうか。
「まぁ、今までゲームであいつは後援役だったからね。直に死ぬのはかなりクるものがあったんでしょ」
「そん、な」
和夢はあくまで淡々と自分の考察を語った。
震える声でうわ言を吐いてフタツミは腕をだらんと落とした。
僅かな希望でさえ掻き消けされた胸の内に、引き換えに押し付けられたものは失意か、悲哀か、絶望か。
力ない背中が、その答えを物語っていた。
「気を落とすことはないさ、フタツミ」
それを彼女に押し付けた当の本人。……総司郎はフタツミの肩を抱くのように、優しく静かに手を添えた。
そして明るい陽だまりのように笑う。
「大丈夫、絶対に死なせたりしないから」
「……」
それを受けてフタツミが浮かべたのは疑うような、訝しむような表情。
凍りついた目に無理やり力を入れた固いそれで、その笑顔と対峙している。
「全力を尽くして彼女を救ってみせる。そう約束しよう」
穏やかな声、落ち着かせるためなのか、それは随分のんびりとした口調だった。
窓から差し込む西日に霞むことなく総司郎は鮮やかな笑みを浮かべている。
「すぐにまた活躍してくれるさ。だから、安心してくれ」
「……ッ!」
その言葉にハッと肩を震わせたフタツミ。
総司郎はそれに優しく一つ頷いて彼女の背を撫でる。
彼の手に触れられて、フタツミはブルリと身を震わせた。
その顔に張り付いているのは確かな『嫌悪』のそれ。
先ほど総司郎が吐き出したのは、安堵させることを目的として吐かれた言葉だったはずだ。
実際に総司郎の表情にカケラの毒気だって見当たらなかったし、穏やかなその顔にはフタツミを案じる色さえある。
──言葉と、状況に合ってないのは、果たしてどちらの言動だろうか。
そんなことも分からなくなってしまったサザンカは、きっとどこかがおかしいのだろう。
身を震わせたフタツミの反応の意味を知ってか知らずか、総司郎はその全てを薄い笑みで受け流した。
そして、ふと思い出したように手を打つ。
「そうそう、ちょうどよかった。彼を紹介しようと思ってたんだ」
骨ばった指がサザンカを示す。
サザンカは気だるげにそれを眺めていた。
「昨日は忙しくてできなかったからな」
総司郎がにこやかな笑みをこちらに向ける。
もしも、ここに立っているのが普段通りの彼ならば、意気揚々と前に出てでしゃばっていたところなのだけど。
今のサザンカはまるで畑にそびえる案山子のように佇んでいるだけだ。
一方のフタツミは俯いたまま、小さく肩を震わせている。
引きつった唇から、歯を食い縛っているのだとわかった。
ふと、彼女の襟元を見れば女の首をくるりと一周する輪っかを目視出来た。
……薄桃色のネックプレイメーカーだ。
そのまま斜め下に視線を移せば、黒人の子供、確かトーゴとか言ったか。その子にもオレンジ色のそれがはめ込まれていて。
彼らが総司郎の『ペット』だと気づくまでにそう時間はいらなかった。
なるほど、頭の隅でそんな声が鳴る。
きっと彼女は何も言えないのだ。
この男の『ペット』だから。
こうまで激昂するのだ。彼女にとってシジマはそれほどに大切な仲間なのだろう。
そのひとが、どんな目にあおうと。
フタツミには何も言うことなんてできない。
ぐっと押し黙ったフタツミを愛おしげに眺める総司郎。
その光景だけ見れば、ドラマティックな一幕にも見えないこともない。
まあ実際にはそんなものカケラもないのだけど。
あるのはただ飼い飼われるものの間にある一方的で利己的な愛情、それだけだ。
フタツミがようやく口を開いた。
「紹介なんていらないわ」
「まあまあ、これから共にやっていく仲間じゃないか」
「いらないって言ってるのよ」
ストンと何かが抜け落ちた彼女の声。
ゆらゆらとあげられた顔が、サザンカを捉える。
「……そんなコシヌケの名前なんて、聞く必要ないでしょ」
「……」
ぶつけどころのない宙ぶらりんの激情は、どうやらサザンカに当たりをつけたようだ。
まぁ確かに一番ぶつけやすい位置にいたのかもしれない。
頭の中でひとり納得して、サザンカは静かに目を閉じた。
刺々しい言葉を放ったと言うのに、全く反応を見せないサザンカに、フタツミはつまらなそうに小さく舌打ちをした。
「なによ、……気まで抜けちゃったのかしら?」
「そういうことだよ。なにせまともな説明もなしに突っ込んだからね」
「へえ、それは災難なことね。同情するわ」
ため息混じりに和夢がそう言ってチラリと総司郎へ視線をやる。
紛いなりにもそれはサザンカをフォローした形になっていたはずだ。
しかし、フタツミは嘲笑するように鼻を鳴らしてサザンカへ明らかに悪意のある言葉をぶつけた。
「確かにそれじゃ、なんの役にも立たない訳よね」
冷たい目が向けられている。
唐突に向けられた言葉の
それを喉元に押し付けられてもなお、サザンカはなにも発言する気になれなかった。
疲れていたのだ、どうしようもなく。
早く横になりたかった。
睡魔にさらわれてしまいたかった。
目を伏せて、しまいたかったのに。
「情けないったらないわ、あんなのザコキャラでしょう? アンタは……」
「フタツミ、気持ちはわかるが少し……、」
「アンタはッ! あのゲームの熟練者って聞いてるわよ」
間に入ろうとした総司郎を押しのけてフタツミがサザンカの前に立つ。
──ああ、イライラするなぁ、この女。
ぽつりサザンカの頭に浮かんだのはそんなことだった。
──そんな甲高い声でキャンキャン……。吠えんなよ頼むから。
ガンガン痛む頭がさらに不愉快で、サザンカは顔をしかめた。
もう耳を塞いでしまいたい。
そう思うほどにだるい身体を、精神を、サザンカは引きずっていた。
だというのに、サザンカを抉ぐるためだけに選ばれた言葉の雨が、容赦無く降り注ぐ。
「それが、手も足も出ないで? バディの女の子に守られて? なにもできずに見てるだけだなんて」
フタツミが早口にまくし立てて、その声は一言一言大きく高くなっていく。
それはまるで慟哭のようで、痛々しい。
……ああ、それでも。
全く耳障りなことに変わりはなかった。
そんなこと俺か一番わかってんだ。
いいから黙れ、黙ってくれ。
俺だって、流石に女を殴るのは『
止まってくれよ、じゃないとうっかりお前の喉を握りつぶしちまいそうなんだよ。
──……だから、頼むから、
「のうのうとひとり戻ってきて恥ずかしくないのかしら‼︎」
「……ッ!」
ほとんど反射的に、体は動いていた。
プツリと視界が暗転する。
真っ暗になった視界には何も映らない。
ただ、ドクドクと心臓がやかましかった事だけは確かだが。そのほかのことは一切わからなかった。
気付いた時には
こちらを呆然と見上げていた。
視界が暗転したのは1秒。
それを回復するまでに1秒。
周りを確認するのに1秒。
状況を理解するのに1秒。
そんな瞬間的なこと。
たった4秒だけの短い時間であった出来事。
サザンカはこの視力を失っていた数秒で何があったのか。
自分が何をしたのか、サザンカは理解した。
サザンカは、目の前の女を、今……、
自分の手で殴り飛ばしたんだと理解した。
──あーあ、やっちまったなぁ。
頭の中で冷静な声がそんなことをぼやいた。
周りの視線がサザンカに集まる。驚愕と、少々の冷たさをはらんだものだ。
──ホントかっこわりぃの。
そうは思いつつも、サザンカは少しも後悔なんかしていなかった。
震える声を吐き出す。
「俺はッ……、」
「サザンカ、やめろ。フタツミも、冷静になるんだ」
ようやく本格的に仲裁に入って来た総司郎だが、遅すぎる措置だ。
そんなものなんの歯止めになると言うのだろうか。
フタツミがゆらり立ち上がる。
先の一撃が彼女の唯一保っていた糸を断ち切ったのだろう。
こちらを睨みつけたフタツミは半狂乱に叫んだ。
「アンタなんかッ、……アンタが!!! 代わりに──ねばよかったのに!」
「────。」
完全に裏返った叩きつけるような女の声。
その一部を脳が本能的に拒否した。
それでも彼女の一言で、サザンカの頭の中でも同じくプツリと糸が切れた音がした。
もやもやと胸を渦巻いていたひやり冷たい氷の風。
今、それが……爆発して。
「…………うるせえんだよ、ちったぁ静かにでき───ッ!!」
サザンカはフタツミに何か言い返そうと口を開いた。
しかし、唐突にぐいっと有無を言わさぬ力で腕を引かれる。
和夢だ。
半分に伏せた目が呆れたような表情を作っている。
和夢はなにも言わずに、腕を絡め取ったままくるり踵を返した。
当然サザンカの体も奥へと引きずられる。
サザンカは和夢を睨んだが、さらに研ぎ澄まされた視線を返されて、おし黙る。
「いいからお前は黙ってろ」
低く言いつけられて、ひとまわりも年下の少女に気圧されて、サザンカはただ彼女に従うほかにない。
そうやって連れ去られていくサザンカをフタツミが見ていた。
彼女の憎々しげに歪んだ顔が、サザンカの脳ミソに灼きついた。
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