まるで
第1話 トーゴ1
─5月13日 18:21 倉木邸広間─
夕暮れの窓辺に、床板を叩く靴音だけが響いている。
苛立ったように繰り返す音は神経質で、決して耳に心地いいものではなかった。
コツコツコツコツ……、規則的でありながら、少々の棘を伴ったそれ。
奏でているのは椅子に座った女だ。
ぴょんぴょん好き勝手跳ねるチョコレート色の髪も、そのリズムに合わせて踊っている。
彼女の剣呑な光を宿す少々陰気臭い目は、窓の外を見下ろしていた。
下に広がるのは和風の庭。彼女の眼光に似てツンツンと突き出た松の木なんかが植わっている。
庭の中心。
そこに走る砕石の車道を睨みながら、女が舌打ちとともに低く「遅い」と呟いた。
そんな険しい女の表情を横目に見て、トーゴは何の気なしに口を開いたのだった。
「確かに、シジマと新しいやつ、遅いなぁ」
「……そうね」
まだ幼いその声に女が短く返す。
トーンが落ちて低くなった声は剣呑な瞳と相まって、まるで怒ってでもいるようだ。
しかし、相向かいに座ってそれを真っ向に受けているはずのトーゴは、やっぱり全く意に介した様子もなく。
そっけない返事にもめげずに、彼女に繰り返し言葉を投げた。
「早く帰ってこねーかなぁ」
「そうね」
「二人とも大丈夫かなぁ」
「そうね」
そんな簡単なやりとり。
女は同じ言葉を返すばかりで、大してこちらの言葉なんて耳に入っていないのだろう。
適当な相槌がまさにその証明だ。
もはやトーゴの方に一切視線をよこそうともしない女。
でも、トーゴは明るく笑ってみせた。
「フタツミ、大丈夫だってシジマもすぐ帰って来るよ」
「そうね」
その一言で少しでも不安を拭ってやれたら……。
なんてことを思案して、トーゴは幼いながらに気を回した言葉を投げかけたのだけど。
女、フタツミの鋭い眼光も、苛立ったような態度も、何一つ変わらない。
トーゴはすこし苦笑って、自らの浅黒い頬を掻いた。
会話だけ聞けば微笑ましい年の離れた姉弟に見えるかもしれない。
いや、女の方は20歳そこそこで、トーゴは11をこの間越したばかりだ。
たがら2人を表すならせめて
ただ、明らかに染めたチョコレート色の髪を抜かせば、東洋人と見分けのつく彼女とは違って。
トーゴは黒っぽい肌に宝石のようなグリーンの瞳を持っていた。その上で揺れる短い黒髪は日に焼けていて、濃褐色の肌の色に紛れ、何処が境目なのか判断に迷う。
……その出で立ちは東洋人、ましてや日本人のそれには見えない。
従姉弟以前に彼女とトーゴは国籍さえ違うのだ。声だけならまだしも、彼らを目にしてそんな風に思う人はいないだろう。
むしろ、この2人にどんな接点があるのかと勘ぐってしまう。
まぁ、とは言えトーゴは彼女をまるで姉のように慕っていた。
この家の主人が、自分の『飼い主』が「ここにいるのはみんな家族だ」と言ったから。そう思うことにしたのだ。
だから、こんな風に不機嫌でいられるとトーゴも居心地が悪い。
トーゴがおろおろと視線をさ迷わせていると、おもむろに後ろからもう1人女の声が鳴った。
「ンふふふ、フタツミったら。ダメねぇ、ひどい顔になってるわよ?」
艶のある声だ。
低くて、いやに耳障りのいい……そんな声。
それにフタツミはぎゅっと眉を寄せた。
「ゴゼン……」
トーゴが振り返ると、ソファーにゆったりと深く腰掛けた女が1人。
軽くウェーブのかかった艶やかな黒髪の女だ。
髪と同じくやけに艶めいた雰囲気を全身にまとっている。
トーゴはまだそう感じられるほどの年齢ではなかったが、一挙一動滑らかに空気をなぞる動きは扇情的とも表現できるほどだ。
そんな、ゆったりとした動きで背もたれから腰を浮かせて、ゴゼンは半分伏せた目でフタツミを舐ぶった。
「そんなに心配?」
「心配もなにもないでしょ、あんなの」
その問いに、フタツミは窓を睨んだまま苦虫を噛み潰すように呻いた。
するとゴゼンがくつくつと笑う。
馬鹿ねえ、ゴゼンは艶やかに笑んだ。
「フタツミ、でもこれはゲームよ?」
「わかってるわよ」
「知ってるでしょ、ゲームで受けた傷は単なる
「……わかってる、わよ」
短く息をついて、ようやくフタツミはゴゼンを振り返った。
眼鏡の奥のじめじめとした鋭い瞳がゴゼンを貫く。
そう、トーゴたちは今回の『ゲーム』の様子をずっと見ていたのだ。
サザンカとかいう男が地に伏す様も、シジマのあの氷撃、……による死に様も。
フタツミはシジマと仲が良かったから。尚更気がかりなんだろう。
シジマがちゃんと、生きているかどうか。
でも、
そんなものは杞憂なのだとゴゼンはフタツミを柔らかく咎めた。
「あくまで『お遊び』なんだから」
「……」
ゴゼンの皮肉とも取れるそのセリフに、ギリリと歯を鳴らせてフタツミは顔を逸らす。
その
自分も、シジマも、遊ばれるだけの存在だという事実を。
トーゴはフタツミの表情を曇らせるその影を払ってやりたくて、しかしその手立てもなくて。
とりあえず、何か言わなきゃ。
幼い頭を必死に回し、トーゴは大きな声でゴゼンの方に言葉を投げた。
「でもゴゼン。オレはねー、オレもねー、シジマのこと心配だぜ? 怪我してないといーなとか思うしなっ!」
「ふふふ、トーゴは優しいのねえ」
「トーゴ……」
優しくゴゼンに微笑みかけられてトーゴは得意げに胸を張ってみせた。
もちろんフタツミだけではなく同じく飼われている全員が、トーゴの家族だ。
お揃いの首輪を首に巻いて、一つ屋根の下に暮らすみんながみんなそう。
ここにいるゴゼンや地下に閉じ込められてる2人、新しく来たというサザンカも、……当然シジマもその1人だ。
トーゴだって安否が気にならないわけじゃない。
だから、
「今オレね、無事にかえってきますようにってお祈りしてるんだ! だから絶対大丈夫だよ」
トーゴは胸の前で手を組んでみせた。
それはトーゴの故郷で崇拝されていた、神を崇めるポーズ。
神に礼拝し、供物を捧げ、その力にあやかったり救済を求めたりするとき、トーゴの故郷では誰もがこうしていた。
あまりポピュラーな宗教ではないから。いや、かなりマイナーなものだから、それに詳しい人でも知らないかもしれない。
小さな集団でのみ愛される神。故郷を離れてなお、トーゴの敬愛してやまない神だった。
トーゴの心の拠り所でもあるそれに、祈りを捧げればシジマも無事だろう。
きっと、だなんてそんなものじゃない。絶対に、確実に。カミサマは助けてくれる。
そんな確信がトーゴにはあった。
しかし、トーゴのその行動に苦い顔を浮かべたのはフタツミだ。
前に似たような会話をした時カミサマもヒーローもいないんだと冷めた口調で返された。
それでもいるんだと主張すると、なんだかんだで諦めて認めてくれたのだが。
はいはいと、適当にあしらうような声にトーゴを信じたような色はなかった。
少なくともトーゴはそう感じた。
だからきっと、
ほら今も、カミサマなんて全然信じてないんだ。
そんなんじゃダメだ。カミサマだって機嫌を悪くしてしまう。
「……」
「フタツミ、『しんじるこころ』だぜ? フタツミが信じれば、きっとカミサマがたすけてくれるよ!」
そう、トーゴは信じてるのだ。
この世界にはカミサマがいて、トーゴやフタツミや他の家族を助けてくれるのだと。
きっと大丈夫。トーゴが信じているぶんカミサマは力を貸してくれる。
でも、多いことに越したことはない。
シジマを助けるためにもできればフタツミのぶんも欲しいのだ。
「フタツミも元気だせって」
安心していいんだぞ。
だってカミサマはどんな罪人だって助けてくれる優しいカミサマのはずなのだから。
そのカミサマをヒーローと呼ぶのなら、きっとヒーローだって存在する。
彼らを信じることさえできれば、フタツミはこんな暗い表情を浮かべなくていいのだ。
「そう、……ね」
ため息混じり。まさにそんな様子でフタツミは息を吐き出した。
その肯定はやっぱりトーゴの言葉に賛同してのものではなくて。
前回と同じく、あまりの熱弁に呆れかえって諦めたような色が強い。
突っ込むのも面倒になったというか、これ以上の否定はさすがに大人気ないと判断したのだろう。
フタツミはトーゴから視線を外した。
「だいたいっ、まだシジマがケガしてるかどーかもわかんないじゃんか!」
「さっきゲームだってゴゼンが言ったでしょ? ……悔しいけどそうよ。怪我なんてするはずないわ」
口惜しげにそう、ゴゼンへちらり視線をくれて、そう白旗をあげたフタツミ。
そらみたことか、その視線にゴゼンがくすくすと笑みを貼り付けた。
「じゃあ、」
そんな二人に挟まれたトーゴはからり幼い顔に笑顔を浮かべる。
ゴゼンのそれとは違い、無邪気な、屈託のない子どもらしい笑みだった。
「なんも心配はいらないな!」
そうやって吐かれた短絡的な考えにフタツミの胸の内で呆れが溢れる。
先ほど言ったように、これはゲームだ。
別に怪我の心配なんて元からしていない。
彼女が心配なのは、
あの気弱な少女が、心を壊して。
ぐらり、ふわり、くるり、どろり、そんな風に。
フタツミはポツリ浮かんだ映像を振り切るようにサイドテーブルに置かれていた冷めきったティーカップを傾けた。
「……確かに、心配だけしたって詮無いことね。私だって落ち込み損はごめんだわ」
「だろ?」
溜息のように、無理やり外に何かを吐き出すように、フタツミはそう片肘をついた。
その返事に満足したのか、にへにへと笑ったトーゴも椅子に座りなおして、シンプルなバタークッキーを摘まむ。
妥協に似た答えといえど、トーゴは今のところはこれでいいかと判断した。
別にカミサマがいるとかいないとかは、今どうでもいいのだ。
本来、トーゴの目的はフタツミの影を払えたら……、ということだったのだから。
先の会話で、フタツミの顔にかかっていた影は大分払えたようだ。
その表情から苛立ちの色が薄れているのがハッキリとわかる。
まだうっすらと暗い靄が残ってはいるが、先ほどよりは心が軽くなったろうとおもう。
そんな事で、機嫌よくにこにことしているトーゴ。
フタツミはまた呆れた表情でそれを一瞥した。
しかし、一拍おいた後どこか決まり悪そうに少し鼻を鳴らしてそっぽを向く。
「ふふふふふ、2人ともかわいいわぁ」
「……」
その様子を見ていたゴゼンが後ろで笑い声を立てる。
彼女の言葉にどこか棘を感じたのだろう。即座にそちらを睨みつけるフタツミ。
一方、ゆっくりと席を立って、こちらに歩みを進めてきた女。
そんなゴゼンに、トーゴは不満げに唇を尖らせた。
「ダメだぜゴゼン、男はかわいいじゃなくてかっこいいものなんだから」
「そうねえ〜、ごめんなさい。トーゴはやっぱりかっこいいわ」
「おうッ。そ、そうかよ、……えへへ、まあオレはつよい男だからな。えへへへへ」
クスクスと笑って柔い腕がトーゴの首を絡める。
後ろからぐしゃぐしゃ頭をかき回されて、ぎゅうぎゅうに抱きとめられて、トーゴは顔を赤くした。
無理やりに平静を取り繕うトーゴをちらりと見て、フタツミはせせら笑った。
「トーゴ、鼻の下伸びてるわよ。お世辞一つで無様ったらないわ」
「のばしてねーよ!」
「あらお世辞だなんて。私はそんなつもりないのよぉ? 信じてトーゴ」
その濃褐色の手を取って哀れっぽくトーゴを覗き込むゴゼン。
きゅっと力のこもる柔らかい手に自分のそれが包まれる。
トーゴは気を良くしたのか、にへにへとだらしなく相好を崩した。
フタツミは大きく肩で息を吐く。
「はぁ、……ガキでも男は男ね」
「ふふふ、嫉妬しちゃって。みっともないわよぉ」
冷やかしの色の濃いゴゼンの笑みに、フタツミはむっとしたしかめっ面になる。
そんなフタツミを上機嫌で眺めて、ゴゼンはするりとトーゴの手を解放した。
そうして、次に手を伸ばしたのはフタツミのいる方だった。
「あなたもこれを機に身なりに気を遣ったらぁ? その髪をもう少し整えるとかすれば少しはマシになるんじゃないかしらぁ」
痛んで刺々しい彼女の髪をくるくると指先に絡めて弄ぶゴゼン。
フタツミは眉間にしわを寄せて、その手を軽くあしらった。
「余計なお世話よ、こんなガキでも構わず 引っ掛ける年増なんかに 何も言われる筋合いないわ」
「あらあら、色気のカケラもない小娘よりずっとマシよぉ」
じろりとゴゼンを睨んだフタツミ。その鋭い目を向けられてなお穏やかに笑むゴゼン。
もしかしたら、多少気心の知れた友人同士のやりとりに聞こえないこともないかもしれない、それ。
ゴゼンはいつも微笑んでいるし、誰に対してもこんな感じだ。
フタツミも同じく。四六時中険のある表情を浮かべているのだから、いつも通りと言えばいつも通り。大して変わりはない、普通の光景。
……の、はずなのだ。
そのはずなのに、2人の空気の温度は確かにどんどん急降下していくのだった。
トーゴはブルリ身を震わせた。
下がって下がって、底知れずさがって冷え切った部屋の中。
暖かな西日に包まれているというのに、冷蔵庫のようだ。
トーゴにとってこの二人は家族で仲間。
遠慮なく甘えられる相手だ。トーゴが誘えばなんだかんだ二人とも構ってくれる。
しかし、だ。
べつにこの二人は仲良しなわけではない。
トーゴとは仲良くしてくれるが、2人の仲は水と油、犬と猿。とどのつまりはめちゃくちゃ悪いのだ。
なにか切り口を探そう。いや、見つけなきゃ。
トーゴはそんな使命感で辺りを見渡した。
サイドテーブルを見る。
紅茶? クッキー? ダメダメそんなのじゃ。
部屋に置かれた本棚を見る。
本の話でもしようか? トーゴはまだ日本語に慣れていなくて読めないのだけど。
窓の外を見る。
今日もいい天気だなぁ、きっと散歩なんかしたら気分も晴れるだろうに。
ああ、ダメだ。何も思い浮かばない。
トーゴはがっくりと肩を落とした。
──そのとき。
「あ。……ああああ、フタツミ! 帰ってきたみたいだぜっ!」
「っ……!」
窓の外の砂利道に黒いツヤツヤした車が入ってくるのが確認できたのだ。
同時に、トーゴはそう大きく声を上げる。
トーゴの声にフタツミが大きく反応を示す。
そして、窓の外を確認する事もなく席を立った。
ガチャ、ドアノブの回る音。バタン、扉の閉まる音。
この二つがリズミカルに部屋の中に響いて、フタツミは姿を消す。
それを見送ってゴゼンはくつくつと喉を鳴らした。
その後も扉の向こうからコツコツとあの靴音が小刻みに鳴っている。フタツミは玄関の方へと早足に歩いて行ってしまったようだ。
それが完全に聞こえなくなる前に……──。
トーゴも扉を押しのけて駆け足で続いた。
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