二章 ヒーローを始める

プロローグ

サクライ ユカナ 1


 ─某月某日 まだ胸に残る記憶─




「ねえ、ゆかな」


 高い声が名前を呼んだ。

 幼い記憶の中のものよりだいぶ低くなったが、それでもまだ大人になりきれてない。……そんな声だった。


 ゆかなはのろのろとその声のした方へと目をやった。

 すぐ隣。手を伸ばさなくたって届く距離。

 そこを歩いていた少女がゆかなを覗き込んでいた。

 大きめの丸っこい目をきらきらと輝かせて、少女はからからと笑う。

 ゆかなはめんどくさそうに息をついた。


「なに、どうかしたの?」

「ふふふ、あのねー」


 仕方なく、とでも言った風にそう問えば、少女はパッと表情を明るくした。

 しかし、すぐに口を開くわけではない。

 何故かもったいぶってくるり、その場で回ってみせた背の低い少女。

 この日以降もう袖を通すことなんてない制服のスカートがふわり空気をはらんでゆれた。


「入学式、楽しみだね」


 そうして口にしたのは何故もったいぶる必要があったのか分からない、こんな言葉。

 ゆかなは呆れて頰を緩めた。


「気が早いわ、今日卒業したばっかりじゃない」

「でも楽しみなのー! 今年からは高校生なんだよ?」


 ぴょんぴょんとその場で跳ねてはしゃいでみせる少女の名は、遙香はるか

 その姿は、これから高校生ということだけでなく、今まで中学生だったことも疑わしい。


 七分咲きの桜並木、遙香はつるりとした黒髪を風に遊ばせて、その一房に花びらを絡ませていた。

 それをはらってやりながらゆかなは少し投げやりにため息をついた。


「別に。入学式なんて私はめんどくさいだけだけどなぁ」

「ええ! ゆかな冷めすぎじゃない? 人生損してるよ?」


 長いスピーチとか心無い作業的な歓迎とか、考えるだけで体が重くなる。

 そんなゆかなに遙香はからかうように驚いてみせて目を細めた。


 ゆかなは肩をすくめた。


「なに言ってるの、この程度で損はしないわよ」

「だって高校生になるのは人生で一回きりなんだよ? それを楽しまないのはやっぱ損してるって」


 そう教師のような口調でゆかなをしかる遙香は、ゆかなにとって妹みたいな存在。

 たとえ同い年だって、ずっと幼い頃から時間を共にしているのだ。

 そんな長い付き合いのある彼女は『友達』と呼ぶよりはそちらの方がしっくり来る。

 ずっとそばで肩を並べて歩いてきた、姉妹の片割れだ。


 この少女が、高校生になるなんて。

 少し感慨深いが、それ故に……。

 姉のつもりでいるゆかなはどうにも心配が勝るのだ。


「そういうのにいちいち浮き足立ってたんじゃ、やってけないわよ」


 そう、子供の頃から夢見がちな遙香が、高校生になる。

 そんな遙香にきっと世間は厳しい。

 じきに現実を知って打ちひしがれたり、出鼻を折られて自分という存在の小ささに涙する。そんな時がいつかやってくるのだ。

 中学生だろうと高校生だろうと、さして変わらぬ『子供』なのだけど。


 この時のゆかなにとって、『高校生』になることは完全ではないにせよ、より一層子供じゃなくなること。

 つまりは遙香が、ただの夢見がちな子供ではいられなくなることを意味していた。

 夢を見るにしても、『子供』じゃなくなればそれなりの覚悟がいる。


 果たしてそんなものがこの遙香の中にあるだろうか?

 そんな馬鹿馬鹿しい杞憂が頭をもたげるのだ。


 幾らお気楽で能天気な遙香だって、微塵も危機感がないほど楽観的なお子様というわけではない。

 ゆかなと同じぐらいの人生を生きて、同じぐらいのことを知ってきてるはずだ。

 なんてったって、小学校のころから共にいるのだから。

 それほど同じものを、似たものを見てきたはずなのだ。


 遙香だっていつまでも子供でいるわけじゃあない。そんなことはわかってる。

 とは言え、それはそれ。これはこれだ。

 ……どうしたって心配になるのだ。

 姉として、親友として、幼馴染として。

 彼女の身を想っているから。


 しかし、ゆかなのそんな心配はよそに遙香は子供のような笑顔のまま呑気にゆかなの手をとった。


「浮き足立たなきゃやってけないんだよ。楽しいことは楽しまなきゃ」

「でも、現実は厳しいわ」

「またまたそんなこと言って」


 ふふふ、遙香が喉を鳴らす。

 ずっとずっとそばにいた少女。

 どんなに背が伸びても、ずっとずっと変わらない気がしていた遙香。

 今でもそう。

 いつまでたっても子供のままのような気がして。

 変わらずに幼い気がして、ゆかなは自分を棚上げして無駄に気をはやらせたりしていた。


 そんな幼馴染の妹分。


 その横顔がしゃんと大人びて見えるようになったのは、いつからだろうか。


「現実ってゆかなが言うほど悪いことばっかじゃないよ」


 整地された道に転がる石を蹴飛ばして、ふわりスカートが揺れる。

 ちょっと得意げに、でもどこか落ち着いて、子供と大人のちょうど境に立った彼女が春の中で笑んだ。


「現実は厳しいけど、ちゃんと優しいもん」


 あんまり夢見るなとか言われ始める年代だ。

 ゆかなだってそう言われたし、そう思っている。

 現実は厳しくて苦しくてままならない。その冷たい切っ先を喉元に突きつけられて、そのまま生きていくのが人生なのだ。


 でも。

 だからこそ、こんな風に笑う遙香はゆかなにとって、新鮮だった。


 彼女は知っているのだ。現実を直視した時に、悲しいことやマイナスなことばかりじゃないこと。

 ちゃんと優しかったり暖かかったりすることなんかも。

 そうやって自分の周りとは違った目線で物事を見ている遙香は、ゆかなにとって春の日差しのように眩しくて。


 彼女と同じ感性で世界を見れない自分が、どことなく青臭いような気がしてしまうのだ。


 桜の木がずらり並んだ並木道で、遙香はまばらな花吹雪の中……、綺麗に笑った。


「ゆかなといっしょの高校行けるしね!」

「ふふ、そうね」


 その爛漫な様子にゆかなもつられて笑った。


 世界の全部が春の色に染まって見えて、ぼやけた空も、薄紅の花も、柔らかな風も、全てが美しい。


「あんたみたいのがいると、現実も悪くない気がしてくるわ」

「でしょう!」


 大きく咲いた彼女の笑顔に、ゆかなも同じものを返した。

 鏡合わせのように笑って、中学最後の帰り道を歩いていく。


 これからの季節が、楽しくなればいい。

 こうやって、やっていければいい。

 どちらかが転んだら、どちらかが手を述べて。

 どちらかが止まったら、どちらかが背中を支えて。


 きっと大丈夫。

 ふたりでなら、何処へだっていける。そんな気さえしていた。


「そうだ、ゆかな。アイス屋さん寄ってこう? 春限定の出たんだって!!」

「もう、しょーがないなぁ。遙香は……」


 そんな春の日のこと。

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