第5話 『サザンカ』3
─5月13日 11:29 ゲーム会場?─
建物から出れば今にも泣き出しそうな空が待ち構えていた。
湿った空気が粘っこく喉を舐める。
太陽からの光を遮った厚い雲がどんよりと重い暗がりを生み出していて。
何処と無くおどろおどろしい。
その下に位置するボロボロに壊れた街も、その雰囲気助長している。
もはや既に身を小さくして燻る火の欠片。
そこから未だ立ち上る黒煙を揺らす風が、生ぬるい酸素を亘の肺に注ぎ込んだ。
どろりとした吐き気に見舞われる。
それを振り払うようにぐるりあたりを見渡してみたが、あの魚ヅラは見当たらなかった。
別の場所に溜まっているか、バラバラに街を徘徊しているのか、もはやどこにもいないのか。
『おお! ついにヒーロー・サザンカが姿を現しました! シジマの影がありませんが、これは仲違いかァ? それとも何かの作戦でしょうか!』
亘が表に出たことをそんな風に囃し立てる実況。
この男がもうこのゲームは時間切れで、ゲームオーバーです、なんて言ってくれたら嬉しいのだけど。
そんなことは同然のようにあり得るはずもない。
亘は静かに歯噛みした。
あのバケモノに初回、素手で殴り込んだ自分が恐ろしくて笑えもしない。
『
あの魚はどこにいるのか。……奴らを見つけたら否が応でも戦わなきゃいけないのか。
ぶるりと亘は身震いをした。
すると、
【ヒーローらしく戦えサザンカ】
体のどこかでそんな声が木霊した。
痺れによく似た感覚が全身を走りぬける。
瞬間、亘は走り出していた。
「からッ、体が勝手に!」
廃ビルから出た時もそうだ。亘の意思など関係なしに体は動く。
これが……首に嵌めた機械のせいだと言うのか。
「なんだよ、なんなんだよこれぇ!」
困惑のままにそう叫ぶが、答える声などありはしないし、拒絶が受け入れられることもない。
崩れ落ちたコンクリートを乗り越え、亘は走る。
あの鱗まみれのシルエットを探してただひたすらに。
……そこに点々と横たわる人だったものは見えないことにした。
亘は焦げ臭い街を走る、走る。
しばらくそうしているうちに、人らしき残骸から流れる赤黒い液体から漂うものとはまた別の。
生臭い
『フィッシャーゴート』のそれだと頭が理解するより早く、亘はその臭いを追う。
「ちょっと! ヤダヤダ行きたくねえってッ!」
そう力一杯抵抗してみるのだけど。亘の脳からの命令は、首の付け根にすら回ることはなくぶつり途切れて無駄に終わった。
大通りを抜け、細い通路に入る。
その道をまっすぐに駆け抜けると、ビルの大群の中に少しだけ開けた場所が見えた。
どうやらそこからこの臭いは漂ってくるらしい。
足音を消して、ビルの壁に沿うようにしてゆっくりとそちらをに近づいていく。
周りに気を張りながらもビルのコンクリートに背を預けながら向こうを伺った。
ぱっと目に入るのは背の高い滑り台だ。
その横にはブランコが揺れていて、ここは公園のようだ。
その中央に、人だかりができている。
人だかりとは言っても、十数人ぐらいの小さなものだ。
それも年齢も性別も多種多様で入り乱れている。これが普通の街中で、どうして集まっているのかと問題を出されたらきっと答えられなかっただろう。
でも今はその理由が容易に想像できた。
人だかりの周りを魚ヅラのバケモノが囲っていたからだ。
ぱっと見ただけで、その数が多いことがわかる。
キョロキョロとあたりを警戒するもの。剣をちらつかせながら人の周りを巡回するもの。踏ん反り返って座るものと様々だ。
いくらザコキャラとはいえ、この数を相手するのは骨が折れるどころではない。
これが『いつものゲーム』でないなら尚更。
その事実に身を震わせて、唇を噛むと……。
『フィッシャーゴート』に囚われた人だかりの中に、覚えのある姿を捉えた。
「あ、」
少年だ。
開始直後に亘が助けた『映像』だった。
少年は大人たちの影に隠れることもできずに、すすり泣いている。
大きくしゃくりあげて、ボロボロと涙を流している姿が、亘のいる場所からでも確認できた。
他に囚われている人たちは、一様に口を閉ざしていて。
少年のすすり泣きだけが浮き彫りになって響いていた。
──ガンッ!!
その声がうるさいのか魚ヅラたちのうちの一体が、少年の近くの遊具を蹴った。
へにゃり無力に折れ曲がる可愛らしい色の金属。
唐突に響いた大きな音に、誰もが体を跳ねさせた。──もちろん少年も。
憐れな事だ。その歳で恐怖を呑み込むことなど不可能だろう。
少年は息を止めて体を強張らせている。
その様子に満足したのか『フィッシャーゴート』は鼻を鳴らして踵を返した。
その時だ。
[ああああああ!! こわい、こわいよぉおお! おかあさあん……、おとおさあん……、うああああああっ!!]
少年がさらにも増して大きな声で泣き出したのだ。
ギョッとして少年から身を離す大人たち。
定位置に戻ろうとしていた怪人がそちらを振り向いた。
そしてどこか苛立ったように、『フィッシャーゴート』は地面に唾を吐いた。
その巨体が、少年の前に立つ。手元で奇妙な反りの剣が揺れる。
亘の足に力がこもった。
助けなきゃ、あの少年を。
華麗に助け出して、あの涙を拭ってやらなくちゃ。
亘の良心はそう叫ぶのに。
それとは裏腹に亘の体は固まったままだった。
力を込めた姿勢のまま、一ミリたりとも動かせない。
だってあの剣はホンモノなのだ。
あれに切られたら、すっぱり亘の体は裂けてしまうのだ。
考えるだけで体中が泡立つ。
自分の『
─アレは映像、映像だ。人間じゃない。人間じゃない。
自分自身がそうでないと知った今、『少年は本当に映像だ』なんて保証は一つもないのだけど。
それを祈るように亘は目を伏せた。
震える少年に向けて、『フィッシャーゴート』が剣を振り上げる。
そのとき、どこかで声が響いた。
【ヒーローらしく戦えサザンカ】
彼の声だ。
亘をこのゲームの中に引きずり込んだ、絶対に逆らえない男。
亘は大地を蹴った。
【ヒーローらしく】……。その言葉が示す未来とは何だ?
──え、ちょっとまさか。
最悪の光景が脳裏を掠めた。
「やだ、やだだめだやめろやめてくれっ……!」
亘は半狂乱で叫んだが。
その言葉とは裏腹に、亘は少年の元まで駆け寄っていく。
その小さな体を抱え込むように、剣を振り降ろすバケモノと少年の、その間に滑り込んだ。
あ、熱い。
それが一番最初の感想。
ジワリ温度を上げた皮膚の中を、冷たい鉄が滑っていくのがわかった。
それから次第に背中に火をつけたかのような、皮膚が焼け付く感覚が広がる。
じりじり、皮が、肉が、熱を外気へと吐き出した。
その熱は激痛へと姿を変える。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!」
喉から絶叫が
うまく息が吸えなくて、吐けなくて、肺を痙攣させるだけの呼吸になる。
──身を呈して少年をかばう──
実に【ヒーローらしい】行動だ。
これがテストか何かならば間違いなく大きな花丸がもらえるところである。
しかし亘はちっとも嬉しくないし、喜ばしくもない。
ただただ苦しくて、のたうちまわるだけだった。
痛い、痛い、痛い、
そう感じるのに、その単語さえ口に出すことはできない。
亘の喉が奏でるのは意味のない母音の羅列ばかり。
[ヒーローだ!]
声をあげたのは、少年。
倒れた亘をきらきらとした目で見つめている。
[ヒーローが来てくれた!]
[助けてヒーロー!]
囚われていた他の大人たちも次々にざわめき出す。
そのヒーローは今まさに深い傷を負って倒れそうだというのに。
どんな状況であろうと彼らは、決められたセリフをつむぐ。
[ありがとう! ヒーロー!][怪人なんてやっつけちゃえ!][がんばってー!][負けないで!][助かった……][信じてたよ!][ヒーロがきっと助けてくれる]
[ヒーロー!][ヒーロー……][ヒィーロー!][ヒーローっ!][ヒーロー][ヒーロおおお!][ヒーローッ!][ヒーローォ!][ヒーロー!]
[[[[ヒーロー!!!!]]]]
大喝采の大合唱だ。
溢れんばかりに声を張る観衆たち。
その真ん中に転がり祭り上げられているのは血塗れで這いつくばる
一方で、ヒーローの登場に緊張を走らせる魚ヅラのバケモノ。
その温度のない目が
ぎゅうと剣の柄を握りこむ音が聞こえた気がした。
「ぐ、ぁ。……ひぅ」
どうにか逃げようと、体に力を込めるが、すぐに激痛が走り抜けて地面に倒れ臥す。
腕も足も、指さえも不用意に震わせれば声張り上げるほどの痛みが伴うのだ。
全身の汁という汁が服に染み出し、ベタベタと気持ち悪い。
ふと、荒い息を繰り返す亘の視界の端に、影がかかった。
目だけを動かしてそれを確認すれば、魚のような鱗がちらついた。
『フィッシャーゴート』が剣を単調な動きでまた持ち上げる。
ああ、死ぬ、死ぬ、死ぬ。
もうだめだ、避けられる訳がない。
死にたくない、……でもそれ以上にこの激痛に耐える方が嫌だった。
鈍い閃光がきらめく。
亘は力なくそれを眺めていた。
でもやっぱり、頭に響く声がそれを許してはくれない。
【ヒーローらしく戦えサザンカ】
『フィッシャーゴート』の剣戟が落ちてくる前に、その腹を蹴り上げる。
その大ぶりな動きに、傷口は悲鳴をあげた。
自分で確認はできないが。
亘の背中は、皮一枚で繋がっていた部分がはち切れて、真っ赤な断面を覗かせていることだろう。
───ああ、でも。
【ヒーローらしく戦えサザンカ】
声が、
【ヒーローらしく戦え……】
響くから
【ヒーロー……く戦え】
声が、響く。
続けざまに鳴るその音は、弱った亘の精神をいともたやすく呑み込んだ。
声が命じる。
【戦え、ヒーロー】
──おれはヒーロー……だ。
「ふっ……、ぐァ……」
亘は拳を握りこんで呻いた。
【戦え】【戦え】【戦え】
どこかでそんな声が聞こえる。
ああ、だから。
だから……戦わなきゃ。
「があああああああ!!!!」
一切の意味をもたないその慟哭とともに、亘は立ち上がる。
それだけの動作で、気を失いそうなほどの痛みが身を灼いたが、歯を食いしばってなんとか耐えた。
体に開いた隙間から血液がどんどん滴り落ちて、頭は深い霧の中だ。
体温だって氷のようで、小刻みに震えている。
涙と脂汗で顔はもうぐしゃぐしゃだ。
──それでも亘は『フィッシャーゴート』を
そして、まるで『ヒーロー』のように雄叫びをあげる。
「『俺が相手だ! かかってこいよ、バケモノどもォ!!』」
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