第6話 シジマ2
─5月12日 24:44 倉木邸内3号室─
真夜中だというのに部屋に明かりは付いていない。
天井からぶら下がった細かな装飾の施された電灯。それはどうやら役目を果たす気が全くないらしい。消灯したまま、佇んでいる。
でも、誰一人それを咎めるものはいない。だって毛布を被ったままの部屋の主にとっては、明かりがあろうとなかろうとどうでもいいことだから。
それでも目さえ慣れてしまえば特別不便なことはなかった。
代わりとばかりにカーテンがまとめられたままの窓の外から、賑わう都会の人口灯が部屋を照らしている。
閑散とした部屋のベッドの上。震える子羊が一人。
ベットにうつ伏せになり、体をシーツに沈ませて……。
その様子は数時間前に男が訪ねてきたときと、寸分変わりない。
変わりがあるとするなら。
この静かすぎる部屋の中にもう一人の影があるということだろうか。
影はどうやら女のようだ。
「新しい奴? またあの男が連れてきたっての?」
そう言ってベットの
険しい眼差しの、背の高い女だ。チョコレート色の長い髪は、癖っ毛なのかそういう髪型なのか判断に迷うほどに、ところどころ跳ねが目立つ。
その髪と顔に引っ掛けた眼鏡が相まって、どことなく野暮ったい印象だ。
「そう、みたい。あの男はそういってた」
シジマはシーツの上に伏せたまま、ぼそぼそと先ほどの問いに応えた。
消え入りそうな小さな声が弾力のあるボックスシーツや柔らかなマットレスに吸収されてさらに聞き取りづらいものとなる。
しかし女は慣れたように、その微々たる音を耳で拾ってため息をついた。
「また性懲りもなく……。他には何か言ってた?」
「あ、あ明日のゲームではよろしくって……」
「はあッ? え、あ……明日ぁ⁉︎」
シジマの応えに驚いた女が素っ頓狂な声を上げる。
突然大きな声が響いたことに、毛布の中の住人が大きく肩を跳ねさせた。
そのまま臆病なシジマは萎縮してしまう。
「あの、えっと……。ご、ごめんなさい」
「え、あ……ちょ、ちょっと驚いただけよ。べつに怒ってるわけじゃ」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
女はあっと口元に手を当てて
ぐっと勢いを呑み込んで声を小さくしたが、時すでに遅し。
シジマはすっかり縮こまってしまっていた。
しばらく置き場のない手を持ち上げたり降ろしたりを繰り返していたが、やがて諦めたのか女は深く息をついた。
「あーもう。……それにしても、明日ねぇ。いくらなんでも早すぎるんじゃない?」
「……私も、そう思う」
ようやく居どころの収めた腕を組んで、女は難しい表情になる。
「倉木のヤツ、ホントなに考えるんだか」
ただ、女の口から名前が出てきた。
それだけでシジマの頭の中にあの男の姿がちらついて。
シジマは震える体を押さえつけて声を絞り出した。
「私だって、わからないわ」
あの男のことなど、わかるはずがなかった。
フシマはどんなに足掻いたって人間。おぞましい悪魔を理解など、できるはずがないのだ。
すっかり恐怖に呑まれ、掠れた嗚咽をこぼすシジマを、女は哀れむように眉を寄せて見下ろした。
とんとん、小刻みに震えるその背を毛布越しの指がなぞる。
毛布越しではあるが、気遣うようなそれは優しい手つきで。
シジマは遠い日の母の姿を思い出した。
「シジマ、あんたは大丈夫なの?」
「え。あ……わた、しは……」
「この前だってぶっ倒れたじゃないの。もしダメそうなら私があいつに」
彼女が悪魔に口利きをしてくれる。
確かにそれはシジマにとって嬉しい申し出ではある。
しかしそうは言っても、彼女の言葉などあの男が聞くとは思えない。
結果が目に見えているのにそうしてくれと頼む気にはなれなかった。
シジマは毛布を手繰り寄せずるりと体を起こす。
窓から差し込む百万ドルには遠く及ばない安っぽい電飾の海が彼女を照らした。
それを反射して僅かに濡れた銀灰の瞳がきらめく。
「いいの。……私は、大丈夫」
「……」
「大丈夫って思ってないと、やってられないわ。だって……」
シジマが女の方を向いて、その振動で頭に引っかかっていた毛布がはらり溢れた。
隠れていた顔が露わになる。
高校生ぐらいだろうか、若いというよりはまだ幾分か幼い顔立ちだ。
女と反対に背は低く、血肉を包んでいるはずの肌は赤みが薄く青白いほどだ。
その少女にはきっと『か弱い』と言った表現がよく似合う。
明るくも暗くもない部屋の片隅で、シジマは諦めたように笑った。
「どうせ、……やるしかないんでしょう?」
「そりゃあ、そうかもしれないけど」
なら、どうしようもないじゃない。シジマはまた俯いて胸元に両手を寄せた。
小さな体が、さらに小さくなる。
女は袖ごと拳を握りしめた。
「私はあんたが……」
しばし言葉に詰まり口ごもった女だったが、思い直したのか口をつぐむ。
「……なんでもないっ。もうこんな時間じゃないそろそろ私も帰るわ」
何かを吹っ切るように女は立ち上がる。
ぎしりベットが軋み、上に座るシジマを少しだけ揺らした。
シジマは下げていた視線をようやく持ち上げ、女をぼうっと見上げる。
女は去り際に手元にあったその色素の薄い髪を乱暴にかき回した。
「ひ、ひゃぁっ」
「じゃあね、シジマ。明日の勝利を祈ってるわ」
「あ、あり、がと」
「いーえ、おやすみっ」
曖昧に笑んで女は踵を返す。
ひらひらと揺れる手とその背中が見えなくなるまで、シジマはずっとそれを見ていた。
バタン、と鳴った音を最後に静寂が訪れる。
シジマはひとりになった部屋にホッと胸をなでおろしつつ、小さく身じろぎをした。
剣呑な眼差しと、語調の強い彼女にシジマはいつも怯えてばかりだが。
彼女は案外いい悪魔なのだ。いつも助けこそしてくれないがシジマの身を一番に気にしてくれる。
シジマは彼女の消えた扉に笑みをこぼした。
「あーあ……、でも」
続けざまに窓の外を見上げれば、都会の夜景が映し出される。
真っ暗な夜空と、その下の背の高い建物たちの群れ。
ピカピカキラキラうるさい光のせいで、星が死んでいる。ましてや月さえも、その美しさを霞めさせて人工の
光っているくせに、輝いてるくせに、綺麗じゃない。
まるでゴミ箱の中身みたいな風景。
あまりの惨状にシジマは顔を歪めた。
「光なんてどこにもない」
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