第6話 ノリナミワタル3
─5月12日 17:58 東京某所─
虚無に呑み込まれた亘の耳に、一つ声が落とされた。
少し離れた亘の耳に届いたのは奇跡だろうとすら思うほどの、小さな声。
「……ゲーム?」
僅かに震えた空気。
揺らしたのは和服の男だ。
「ああ、先生もお好きでしたね」
そういえば、と思い出したように手を打つ粳場。
それに返されたのは要領を得ない うわごとのような声だ。
「ああ、……そうだな」
「……?」
端正な顔立ちがこちらを向く。
癖のある黒髪が風もないのに僅かに揺れて。
その隙間から見えたのは、喜色を帯びた鈍色の瞳。
ぶるりと体の芯が震えた。
「そうか、そうか。ゲームが好きなのか」
なんだなんだ? やめてくれ。そんな目をしないでくれ。変に期待してしまうじゃないか。
もう終わるんだ、ゲームと借金に漬け込まれた日々なんて捨てていなくなるんだ。ようやく腹がくくれたんだよ、これで最期だって。
「なるほど なるほど」
なのに、なんで……。
やめてくれって、もうやめて。
そんなことしないでくれ。バカみたいじゃないか。無駄に期待して、裏切られるなんて。
あり得ないんだから。現実には『そいつ』はいないんだから。
そうわかってるのに、そんなことをされたら……。
いつも画面の向こうにあった影に、重ねてしまう。
その名を細身の彼に重ねるには、あまり似つかわしくないかもしれない。
それでも亘は
幼い日に胸を躍らせて、
何度も何度も夢に見た、
今はそれを模る虚像に身をやつして、
憧れ続けた。
求め続けた。
あの背中を。
和服の男が長考の末、コクリと首を縦に振った。
「わかった。その金は俺が払おう」
「!!!」
先ほど馬鹿げていると一蹴したその期待は裏切られることなく、彼の言葉で肯定される。
目を見開きどよめく強面の男たち。
「なっ……!!」
「倉木先生ッ、しかし……」
それに紛れて『センセイ』の後ろの二人が各自の反応を見せた。小さく舌を打ったのは小柄なメイド。深々と息をついたのは執事だ。
まぁ、その音は慌てふためく男たちの耳に入る事なく終わったのだけど。
まるで突進でもするように『センセイ』に詰め寄る黒服。
そんないきり立つ弟分たちを片手で収めたのは粳場そのひとだ。
微妙な表情ながら、笑みを作る。
「……また、道楽ですかな」
「そういうことだ。和夢、この額を彼らに」
言いながら『センセイ』は粳場の手から借用書を拐い隣に後ろに控えていた少女に渡す。
しかし、何を思ったかサッと手を引っ込めた。
そしておずおずと粳場を見やる。
「ダメだろうか」
少しバツが悪そうに曖昧に笑って遅すぎる了承を問う『センセイ』。
粳場は今度はにこりと綻びのない笑顔を浮かべてそれに応えた。
「いえ、我々としては金さえ貰えればそれでいいんです。……そんな
「ありがとう」
「こちらこそ。お買い上げありがとうございます」
人を商品のように、しかも自分の店に陳列していたもののように言って、他の黒服たちへと合図する。
すると狼狽えつつも亘を『センセイ』の方に無造作に
あまりにあっさりと拘束が解かれて、自分の体を支えきれるほどの力はなく。
亘はへなへなとへたり込む。
それを横目に見ながら、畏まりましたと平坦な声がそう言って。倉木から紙片を受け取ったメイド姿の少女が戸口に消える。
「あ、……ああ」
状況を理解をし得ない亘が意味のない母音ばかりを吐きだした。
茹だった脳が正常な働きをしない。
どこか現実感もないままで脱力する亘。
そうしてしばらく後に帰って来た少女が、強面の男たちとスーツケースやら紙やらをやり取りする姿をなにも言えずに眺めていた。
「お前、名前は?」
見れば『センセイ』についてきた二人の……、男の方だ。
尻餅をついたままでいる横にその男が立ったので、亘は当然見上げる形になる。
背が高いどっしりとした体がすぐ近くに、すぐ真上にあるわけだ。少々威圧されているような気分になる。
男が身にまとうのは執事の着用するそれだが……。
襟元を緩めたり、ジャケットの前を開いていたり、着崩したその
しかしその理由を察することは大して難しくはない。彼のしっかりとした体躯を収めるには、堅苦しい衣装ではいささか窮屈にも見えるからだ。
彼は動きを阻害しない程度に緩めているのだろう。
だが、そうまでして着込んでいる上質な布地は、眼光鋭く筋骨の逞しい彼には似合っていない。
そんな男が亘に向けて言葉を投げかけたのだけど。
今の状況の亘が問われた言葉など理解できるはずはなくて。
「……え? あの、えっと?」
ぐるぐる掻き回された頭ではそうぼやく事しかできない。
彼がもう一度低く問う。
「名前は?」
「の、りなみ。
「歳は?」
「今年で、21っス……」
上ずった声でようやくそう返すと、そうかと男がうなずいた。
「あのッ俺、なんて言ったらいいか、その危ないところを助けていただいて……」
ドラマでも今時少ないこんな展開。
実際に経験してしまった今になんだかわからないようなものが胸を渦巻く。
大きな戸惑いに混ざる感謝に似たものと猜疑心が少々。それをかき回すのは不安とか言う名の感情で。
しかし、何より大きな高揚感が亘のなかのそれらを蹴散らしてしまう。
亘はそんな色々を混ぜ込んだ熱のある目で、執事服に曖昧な笑みを見せた。
そこに冷や水のような声が落とされる。
「別に助けられたってワケじゃないと思うけどな」
「?」
亘と同じ目線まで降りて来て苦笑ったのは粳場だ。しかし、言葉とは裏腹に押し出すように背中のあたりをポンっと押してみせた。
まるで亘を労う、その仕草。
意図がつかめず亘は首をひねる。
そんな風に目を瞬かせていると、ふいに長身の男が腕を掴んで地面に尻餅をつく亘を引き上げた。
無理矢理に立たされたものでおぼつかない足がたたらを踏む。
素っ頓狂な声をあげて、立ち上がっても全部届かない背の男を見上げれば、じとりと亘を見据える目と視線があって。
彼はこう口を開いた。
「来い、お前は今日から倉木総司郎のものだ」
和装の男は事務所の出入り口の前で一つ会釈を残して出て行った。
黒服だけになった部屋の中、粳場はゆったりとビジネスチェアに体を沈めた。
弟分たちは何か言いたげにこちらを見つめているが、黙殺して目を伏せた。
そうするだけで、彼らは何も答えることなどないと察したのだろう。誰からともなく次第に元の業務に戻っていく。
殺風景な部屋がいつもの状態に戻ったことを確認して、粳場は一つ息をついた。
いつの間にやら弟分の誰かがデスクに置いて行ったコーヒを手に取り、静かに傾ける。
そうしてふと、ブラインドカーテンの隙間から窓の外を見下ろした。
すぐ下の、賑わい始めた歩道。
その中に紛れても見落としそうもない一行を目で追った。
先頭を行く和服の男、それに続く少女と青年。そしてその青年に腕を引かれていく、もう一人だ。
戸惑ったように、でもほんの少し亘の表情が緩んでいるように見えて。
その姿が粳場には、哀れな乞食を地獄に引きずり込む……寓話的なバケモノたちのそれに見えた。
しかし粳場には高額滞納者に情をかけてやる義理もない。粳場は去っていくその影たちをそのまま黙したまま見送る。
「ご愁傷様」
それは粳場の中から絞り出して、ようやく一筋垂れた、一滴限りの良心から出た皮肉だったが……。
ガラスに隔たれた向こう側へと去りゆく彼らの背中に、その声が届くことはなかった。
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