中編 何よりも

第1話 シジマ1


 ─5月12日 19:49 倉木邸3号室─




 シジマは今日も部屋に籠る。

 この場所から出たくもないし、出る気なんかない。

 どうせ逃げられないなら、せめて自分の身だけは守れる場所に籠城するしかあるまい。

 ……そう思うから。


 ふかふかな毛布のなかに自らをさらに閉じ込めて、ベットの上で猫のように丸まるのだ。

 柔らかな鎧を纏ったシジマは外の穢らわしさを断ち切り、一人だけのその空間にほおっと息を漏らす。

 ──ぜったいにだれもはいってこない。

 その空間がシジマは好きだった。


 いや、好きと表現するのは事実とすこし違うかもしれない。

 シジマにはその場所しか、なかった。

 ……ただそれだけのことだ。


 シジマ一人分しかない毛布の作り出す空間。

 それならば、だれ一人入ってこれないから。この事実がひどくシジマを安心させているのだ。


 ──おそろしい。ここはじごくだ。


 シジマは身を震わせた。

 地獄と名付けるに相応しい。心の底からそう思う。それほどまでにシジマはこの屋敷を嫌っていた。


 ほんの三年前にここにきたシジマでさえそう思う。

 そう思えてしまうほど、この屋敷は忌わしい場所だった。

 しかし、シジマにはもうここに縛り付けられてしまって逃げる術などない。


 諦めて息をついて目線をずらせば上等なベットの脇に置かれたテーブルが目に映る。そこには空になった食器が放置されていた。

 昼は要らないと伝えたから、きっと夜の夕食時になればあの侍女が片付けてくれることだろう。


 いつもの漆黒の目のその侍女が朝食を置いて行ったので、シジマは手をつけた。

 今は端にはじいたもの以外は無くなっている。

 忌わしい住人の一人が差し出したそれに手をつけたのには単純に腹が減ったからという理由以外に、もう一つ理由があった。

 綺麗に盛り付けられたまま返すと侍女が酷く機嫌を悪くするのだ。


 あの侍女は好き嫌いをするのも許せないらしく、シジマのその偏食にも渋い顔をするのだけど。

 シジマにはこればかりはどうにもできない。侍女の格好をした悪魔の遣いにも、わかってくれと再三頼むのだけど受け入れられずじまいだ。

 陰険な彼女らに強引に食べさせられたこともある。


 眉間にしわを寄せて、いじわるな侍女の幻影を握りつぶしていると、


 廊下の方で足音がした。


 シジマの小さな肩が跳ねる。

 背中を這いずる寒気に呼吸が詰まった。


 おぞましい おとこの あしおとがする。


 少々引きずるような草履の足音は特徴的で、誰のものかなどシジマにはすぐに想像できた。

 近づいてくる足音。

 どうか、どうかこのまま通り過ぎてくれとはやる胸を押さえてその時を待つ。


 しかし、残酷なことに足音はシジマの部屋の前で止まった。

 底知れない震えが体のうちから溢れ出してくる。

 小刻みに揺れる指が毛布の端をつよく握った時、コンコンと軽いノックの音がした。


「シジマ、少しいいか?」


 ドアの板のわずかな隙間から侵入してきた声は、シジマが予想した通りの声だった。

 にこやかなトーンで入ってきたそれで、扉の前に立つ男が笑っている事がわかる。

 シジマはかぶりを振るった。


「……いいえ、いいえ、いいえ、ダメです。かえって……、帰ってください」


 そうシジマは凍りついた喉を叱咤し、無理矢理に声を絞り出してそう応えた。

 あからさまに上ずった自分の声が耳に入って不快感で胸が焼ける。


 しかし男の方は、シジマのその要求を渋った。

 同じにこやかなトーンでもう一度こちらへ呼びかけてくる。


「話をしたいのだけど」

「いいえ……、いいえ……、だれもここにはいません……」


 ベットから降りてドアと反対方向に這いずりながら、シジマは震える声でそう言った。

 あまりに苦しすぎる上、脈絡もないその言い訳に、扉の向こうの男は笑い声を立てる。


「ふはは。そうか、シジマはここにはいないのかい?」

「はい、だれも。誰もここにはいません」


 淀みなくそう答えれば、男は小さく息をついて微妙な顔を作った。

 もちろん、扉越しにそんなことフシマに見えるはずもない。

 だが、シジマは確かに思い描くみることができたのだ。

 困ったように、苦笑う……忌まわしき男の顔が。


「そうか、残念だ」

「はい、帰ってください……。もう来ないでください……」


 なんとか壁とバランス感覚で体を支えて立っていられるが、ガクガクと震える脚は長くは保たないだろう。

 幸いこの悪魔は女の部屋にズカズカ入ってくるような無粋な真似はしない。

 シジマが扉さえ開けなければ、この男が入って来ることはないのだ。……よほどのことがない限り。


 ──だからはやくいなくなれ。

 シジマは震える声を吐き出す。


「お願い、です……。もう、わたしはもう……」


 その声は切羽詰まったもので。シジマが瞳を潤ませている姿を想像することは容易い。

 男は諦めたように笑った。


「……シジマに新しい子の指導を頼みたかったのだけど」

「!!」


 その言葉に、シジマは再び身を固めた。

 ああおそろしい、おそろしい。

 また新たな誰かがここに引きずりこまれたのだ。

 なんてあわれな。

 なんておろかな。


 シジマは手で顔を覆う。

 大きく歪んだそれの上についた黒目はもう決壊しそうなほどに水分をためていた。


「まぁ、明日でいいか」

「早く帰ってください……。もう二度と訪ねてこないでください……。……明日も来ないでください」


 おねがいしますおねがいします。

 うわごとのように何度も何度もシジマは繰り返す。

 扉越しの恐怖から少しでも逃れんがため身をよじり、反対方向の壁に背を擦り付けた。


 しかし向こうの男は朗らかな声で笑う。


「じゃあ、明日のゲームのとき。彼の面倒を見てやってくれ」


 ああ、叶わない。来ないでくれと言う祈りは届かない。届いたとしても無慈悲な神はその願いを聞いてはくれないのだ。

 去っていく男の足音に、詰めていた息を大きく吸いこむ。

 乾いた喉が悲鳴をあげて熱を持ち、ずるずると力なく壁に合わせて体が沈む。


 ああ、なんて……

 ああ、なんて……


 扉越しだからこんな強気で居られたが、シジマは目の前にこの男がいたらきっと。

 身体中から湧き出る嫌悪と吐き気で心臓さえ止まってしまうだろう。


 それなのに……。

 明日、扉が叩かれた時。シジマの意思など関係なく、否応なく外に引っ張り出されるのだ。

 シジマにはあの悪魔の力に抗うことなどできない。


 なぜならあの男はシジマの飼い主だから。

 そして、シジマは彼の。


 しゃらん、首元で忌々しい金属が音を立てて。

 シジマは震える子羊のように、再び毛布の中の闇にうずもれていく。

 真っ白なシーツに縋り付いてすすり泣く。



 すでに自分のいるその場所が悪魔の手の上なのだと知りながら。

 それでもほんの少しでも、その指から逃れるように。

 微睡みの闇に身を沈めて、シジマは意識を手放した。

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