第3話 ナシモトカズム2


 ─5月12日 9:12 倉木邸内庭園─




「シラマル、お座り」


 そう言えば、白くて毛並みの良い犬が和夢の手に自分の前脚を乗せる。

 ふさふさとした尻尾を左右に揺らし、次の指示を待つシラマル。


 和夢はしゃがんで彼の目線に合わせ、お手、おかわり、伏せ、順を追ってそう命じる。

 シラマルはきちんとその通りに動いてみせた。


「よしよし、おまえが一番いい子だ」


 穏やかに、しかしどこか陰を色濃く残して和夢が笑う。

 わしゃわしゃ頭の毛を掻きまわせば、シラマルは目を伏せて心地よさげにした。


 シラマルはこの屋敷で飼育されている野獣畜生の中で、唯一和夢の愛する生き物だ。

 毛の密度の高いふわふわとした毛並みにつるりと濡れた瞳が和夢の心を癒すのである。


 よし、と声をかければ器に口をつける真っ白な体躯。

 手のひらでその感触に浸っていると、その背中に低い声がかかった。


「……、朝から大忙しだな」


 和夢が無音で振り返れば、長身の男が立っていた。

 その男はどうにも微妙な表情を浮かべている。

 片頬をひくつかせながら切り出した言葉はこんな事だ。


「もう少し加減とかはできないのか」

「……」

「ちったぁ手懐けてくれると助かるんだが」

「……」


 どうやらそんな顔をする理由は朝の騒動のことらしい。

 あの後も、先ほどの獣たちは結局料理に手をつけないまま。

 いやもうニノマエのものはひっくり返っていたからそもそも手をつけられない常態だったのだけど。


 イチゴの方も何か気に食わなかったのかずっと目もくれずにいたのである。


 それが頭にきて少々手荒にしただけだ。少なくとも和夢にとってはそんなもの。彼にとやかく言われる覚えはないのだった。


 和夢はむくれてぎろりと険しい視線をおくる。


「ボクは悪くないね。ちゃんと仕事はしてるもの」

「なにもエサくれりゃあいつらと同レベルに争っていいってワケじゃねえんだぞ?」


 男は息とともにその大柄な肩を落とし疲労感を主張する。

 そんなもの関係ないとばかりに和夢はぷいっと顔を背けた。


「知らない、大体勝手に暴れたのはニノマエたちのほうでしょ。文句ならあいつらに言って」

「言ったって聞きゃしねえだろ、頭はホンモノのドーブツなんだから」

「ほらね? 弥一やいちでダメならボクがなに言ったって無駄に決まってるじゃんか」

「……、そりゃそうかも知れねえけどよ」


 渋い顔を作った男、『弥一』がそう言ってため息をついた。


 そんな、二人の立つ場所。そこは年季を感じさせる屋敷の前であり、大きな庭だ。

 屋敷の庭は、大きいものの無駄な広さはない慎ましやかな上品さを感じさせるものだ。

 芝と砂利の続く道には、松や庭石などが並んでいて風景を彩っている。


 その真ん中にあるのが、和夢や弥一が仕える主の屋敷である。

 少し煤けてモダンな空気をはらませた古い建物は、きちんと管理が行き届いていてその古さも相まって、厳格にそこに存在した。

 屋敷の壁にまで茎を伸ばした名前も知らない植物かそれをさらに際立てている。


 引いてみれば軽いのだけど、中にに続く木製の両開き戸は鉛のように重そうに見えた。

 その扉のあたりからコツンと誰かの足音が響いた。


「今日も朝から元気だな」


 そんな笑い声も。

 見れば扉口に青年が一人佇んでいる。

 和夢の背筋が自然と弓の弦のように張った。

 弥一も同じくおし黙る。


「おはよう、和夢」


 涼しげな目を柔和に細くしてその人は笑った。


 ひょろりと背の高い男だ。弥一と並べるとそれが更に顕著になる。


 そんな骨と薄く乗った肉と皮で構成された体を包むのは空五倍子うつぶし色の和装。その上に紺の羽織を纏った彼の姿は、年季の入った屋敷と相まって大正かそこらを思わせる。


 時代錯誤な体の上についているのは形の揃った相貌と整った輪郭。その縁を覆う癖のある短い黒髪だ。

 歳は20の終わり頃だろう、まだ皺やくすみとは縁がないように見える。


 そんな一風変わった出で立ちを持つ、今現在現れた人物。

 そのひとに和夢は深々とこうべを垂れた。


「……おはようございます。総司郎そうしろう様、本日もご機嫌麗しゅう」


 そう、彼こそがこの屋敷の主人あるじ。……倉木総司郎そのひとだ。

 一礼した和夢に一つ笑みを落として、主人あるじは弥一の方にも微笑みを向ける。


「弥一も朝からご苦労様」

「……」


 弥一は和夢よりは浅いものの、それでもぺこりと頭を下げて彼への礼を示した。


 和装だから、というのももちろんあるが。どこか不思議な雰囲気を持った男である。

 広い屋敷をもつ主人しゅじんであるというのに上から押さえつけるような威圧は全く感じない。


 鈍色に輝く瞳を柔らかく丸めて笑う彼は、むしろどこか人を落ち着かせるような穏やかな空気を纏っている。

 それでいてどっしりと二本足で立っているのだから更に妙な印象を受けるのだ。


 そんな、二人の主人あるじは何かに気づいたように和夢の後ろに視線をやった。

 そこにあるのはぐしゃぐしゃに崩れた料理とも呼べないそれらと割れた食器を積んだカート。


 和夢は小さく息をついた。

 そして、まっすぐな姿勢を決して折り曲げることなく主人あるじにこう詫びた。


「総司郎様、今日もわたくしの力及ばず……、大変申し訳ありません」


 確かに、言葉だけ文字に起こせばこのような深く謝罪するそれだが……。

 和夢は表情どころか眉ひとつ動かさないまま告げたのだった。

 いささか不遜とも取れる彼女の対応。


 しかし、総司郎の方もそんな少女の態度をまるで気に留めた様子もなくにこやかに頷いた。


「仕方ないさ、ニノマエもイチゴも意地っ張りだからな。腹が減ったらまた変わるだろうさ。しばらく様子を見てみよう」

「……、承知致しました」


 了承の意を口にして、和夢は口をつぐむ。

 すると無音が訪れた。

 総司郎も弥一も何も発しないものだから、耳に響くのは柔らかな風の抜ける音だけだ。

 やがて、総司郎は苦い表情を浮かべた。


「全く本当に手がかかるなぁ、うちのベットたちも」


 はぁ、と軽くため息をつく。

 おそらく総司郎の頭に浮かぶのは三年か四年か前に飼い始めた手のかかる獣のことだろう。


「ニノマエは乱暴者だしイチゴは神経質だし。最近やっとフタツミが大人しくなって来たっていうのに」


 肩をすくめて、そう吐露する。

 あまり懐いてくれないペットたちは総司郎の悩みのタネらしい。和夢が愚痴を聞いた数も星と張る程だ。


 折角会話ができるペットなのだから、仲良くお茶でも啜りながら談笑したいものなのだと言っていたが……。

 どうにもそれを許さない獣たちなのであった。


 それに手を焼いているのはどちらかといえば和夢なのだが。

 重々しくため息をつけば、それを見咎めて総司郎はもう一度和夢に向けて微笑んだ。


「和夢にも苦労をかけるな」

「いえ、私の事など」

「いつもありがとう。助かっている」

「……勿体なきお言葉でございます」


 そんな主人からの労いに和夢は畏まって一礼を返した。

 しかし、やはり無表情のままだ。

 むしろひっそりと眉をひそめてさえいる始末。


 それを当然のように受け入れて総司郎は涼しい顔で受け流すのだ。

 総司郎が現れたとたん急に口を閉ざした弥一も、それを咎めず沈黙を保っているので和夢が寄せた眉を戻す必要はない。


 ふと、思い出したように倉木は手を打った。

 二人の視線が集まる。


「そうだ弥一、すこし車を出してくれないか」


 なんだそんなことかと息をついて小さく首肯した弥一。

 その半分にした目が、行き先を問う。

 総司郎はからりと笑った。


「なに、会場の下見に行くだけだ。そんな大したことじゃない」

「……」

「そのあと、できれば寄りたい場所があるんだが」


 そう前置きして総司郎が告げたのはここ最近よく耳にする取引先の名前だ。


「すこし彼らと話があってね。会場とも近いからいいだろう?」

「……」


 変わらず弥一は無言を貫いている。

 ゆっくりと首を縦に振って、総司郎の横に佇むだけだ。

 それを満足げに確認して、総司郎はゆるり和夢に手を伸ばした。

 指先がまだ丸みのある柔い輪郭に触れる。


「和夢もついて来てくれるかい?」

「そう、あなた様が命じられるのであれば」

「ならそうしてくれ」


 和夢の返事に総司郎はうんうんと頷いて笑みを深くした。

 その笑顔をにやりと冷やかしの意を込めたものに変えて、総司郎は弥一に目配せをする。


「弥一は腕っ節は強いが、そのほかはてんでダメでなぁ」

「……」


 からかうように相好を崩す表情は、彼の印象を少しばかり幼くさせる。

 そんな飄々とした主人あるじを弥一は不服そうにじろりと一瞥いちべつした。


 そんな主人と従者の気の置けないやり取りに、和夢は息をつく。

 しかし、至近距離にいる主人には悟られないように小さく、だ。

 そのあと、和夢はやっぱり頭を下げないままで応えた。


「畏まりました、私めもお供いたします」

「悪いな。家のこともあるだろうに」

「いえ、私は総司郎様にお仕えする身ですので」


 言いながら和夢は意図的に半歩後ろに下がった。頰に触れていた総司郎の手が空を滑る。

 名残惜しそうに伸ばされる手を見咎めて、もう半歩後ろに。


 寂しそうに目を伏せて、しかしどこか楽しそうに、ようやく腕を元の位置に戻した総司郎は口を歪める。

 和夢のどろりとした漆黒の瞳が倉木を捉えた。


「あなた様のお言葉に異存などあるはずがございません」

「そう言ってくれるとありがたい」


 そうして和夢はいつの間にか餌を食べ終わり脚に擦り寄る白い毛並みに目を移す。

 その頭に指を滑らせ、では支度をしてまいりますと残して和夢は総司郎と弥一の間を通り抜けた。


 その脚元にシラマルを携えて。

 扉の向こうへと足を運び、そのまま奥へと姿を消す。


 ……その前に。


「和夢」


 しばらく行った先で声がかかる。


「……、まだなにか」


 和夢が足を止めて振り返ると、やっぱりニコニコと穏やかに笑う総司郎がいた。


 うっそり細くなった目が問う。


「本音は?」


 一体何を示す言葉なのか。全く的を射ない突拍子も無い質問だ。

 大体聞いたってなんの意味もないことも、決まった答えしか返ってこないことも知ってるくせに。わざわざ口にするまでもないようなこと。


 そんな、くだらない……問い。

 和夢はふぅと息を吐いて、なにも言わずくるり踵を返し元の方向に歩を進めた。


 カツカツと革靴が床石を叩く音がこだまする。


 そうして和夢は、今度は振り返らずに背中で答えた。




「とっととくたばれ、このクソ下衆野郎」




 主人に向けるにしては大いに目に余る不躾なセリフ。

 それを残して、和夢は屋敷の奥へ奥へと姿を消していった。


 彼女の吐いた暴言がそのまま。総司郎の問うたものの答えだ。

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