第2話 ナシモトカズム1


 ─5月12日 8:47 倉木邸内─




 そして場所は移ろい、時は数時間前にさかのぼる。


 少女、梨元なしもと和夢かずむの朝は早い。

 今日も5時には起床し、身支度をととのえていた。

 顔に僅かな化粧を施し、短い髪はピンで留め、黒を基調とした仕事着を身につける。


 部屋から出れば、まず握るのは掃除機やハタキなどの器具。

 そうして二時間ほどかけてだだっ広い屋敷の中をそれを片手に動き回るのだ。


 担当の部屋を綺麗に磨き上げたら、もう時計は程よい早朝を指す。

 和夢がそれを確認して次に向かうのは、厨房だ。


 簡素な厨房の敷居をくぐればふわり漂う出汁の匂い。

 その中で料理番の男性が振り返った。


 同じぐらいの時間から働く料理番は和夢が顔を出せば微笑んで挨拶をくれる。


「おはよー和夢ちゃん」

「おはよう。いつものやつお願い」


 それに軽く会釈を返し、和夢は慣れた風に用事のものを注文した。

 すると彼はにこやかに笑い、厨房の片隅を指差する。


 そこにはきちんと揃えられた膳が並べられていた。

 男性はこちらに視線を戻す。


「わんこたち、今日は食べてくれるといいなぁ」

「…………ソーダネ」

「ははは、今日も頑張るんだぞ」


 眉を寄せたままで同意の意を示せば、男性はくすくすと苦味を含ませて笑った。


 朝の柔らかな光の中で仄かに湯気を立てる……、どこからどうみても庶民的なものを感じさせない料理の品々。

 そう、これはここの主人が飼っているペットたちの朝ごはん。

 つまり餌だ。


 餌と呼ぶには少々躊躇いが生まれるメニューたちだが、餌は餌なんだからしょうがない。

 この綺麗に盛られた料理たちは主人が愛する畜生どもの腹に収まる定めなのだ。


 何かもやもやとしたものが胸をめぐるが、和夢はそれを口に出さず、顔をしかめるだけで済ませた。


 和夢は膳を乗せたカートを受け取り、踵を返す。

 厨房と廊下を隔てた敷居に足をかけて、すこし振り返ってみた。

 そこには部屋の中心でひらひらと手を振って見送る彼がいた。


「いってらっしゃい!」

「……、今日もダメにしたらごめんね」

「謝る事ないさっ、和夢ちゃんのせいじゃないしな」


 呟くように小さく言葉を残して、彼の明るい激励を背に和夢はそのまま長い廊下へと体を運んだ。


 そうなのだ。あろうことか、料理番の彼が朝早くからこしらえたこれに口をつけない馬鹿も存在するのだ。

 内心飢えて死ねなどと思ったりもしたが、振り払うように足を動かす。




 この家にいる、和夢が世話を任された生き物は全部で六匹。

 その一匹一匹が屋敷の部屋を一つずつ占領している。


 全ての部屋を巡回し、餌を与えるだけでなく体調や状態を確認をするのが和夢の朝の仕事だった。


 一匹め、二匹め、と手際よく済ませて。最後に和夢は固く閉ざされた鉄の扉を選んで手をかけた。

 重苦しい音を立てて開いた扉の、先に続く下り階段に躊躇なく足を踏み入れる。


 膳を二つ乗せた大ぶりな盆を脇に抱えて石畳の階段を下っていく。


 この下ににいるのは、問題児。

 あまりに素行が悪いため、屋敷の中に放せないものたちの部屋だ。


 薄暗いそこは独特の湿っぽい空気が流れていて、いかにもといった風であるが和夢は無感情に降りていく……。その様子が助長してこの空間だけがRPGの舞台のようにも映る。


 しかし、そんなものはやはり幻想に過ぎず。壁に備えついたボタンを押せば天井にぶら下がった蛍光灯が点滅し、明らかに現実世界であることを主張した。


「ニノマエ、イチゴ。……ごはんだよ」


 そう声をかけて檻の前に立つ。

 すると重厚な柵の向こうでゆらり揺らぐ影があった。

 その影は和夢より幾分か大きい。こちらに気づくと奥からこちらに大股に歩いてきて、力任せに柵を揺らした。





「ああ゛? てめクソメイドッ!! よくものこのことッ!」



 ───こんな『言葉』とともに。


 ぎゃあぎゃあとうるさく文句を吠え出す、ニノマエと名付けられた『猛獣』。

 好き勝手な方向に跳ねる頭髪は真っ赤に染められており、その赤が目に痛いほどで。


 必要な部分にのみ乗せられた筋肉は、太く力強い金属の柵をぼきり折ってしまうのではないかと危ぶませた。


 屋敷の主人の飼う、『ペット』。

 和夢が任され、面倒を見るうちの一匹。

 そんな騒ぎ立てる獣のほうに視線一つもくれないまま、和夢は平坦な声でこう応える。


「餌の時間だから来ただけだよ、それ以外の理由でこんなとここない」

「なァにが餌だゴルァ! 俺を犬畜生と一緒にすんじゃねえ!」

「おんなじでしょ。むしろ檻に閉じ込められてるお前はそれ以下だよ」


 そう言いながらも持ってきた餌をテキパキと配給口に投入する。淡々とした動作だ。無駄に動かない、慣れた手つきで作業を済ませていく。

 ニノマエが眉間のしわを深くした。


「喧嘩売ってんなら買うぞクソガキ」

「買えるんなら好きなだけ買ってけば?」


 呆れ顔でそう返して一つめの配給口を閉じる。

 唾を飛ばす勢いで騒ぎ立てるニノマエを無視した和夢はよいしょと立ち上がってスカートと膝にについたチリを払った。


 そのとき、この部屋にいるもう一匹も声をあげる。


「おい、朝からうるせえんですけど」


 隣の牢からそう野次を飛ばしたのも、青年の形をした『猛獣』だ。

 男にしては長めの灰黒色の髪を耳にかけ、ひとふさだけ前に垂らしたその獣。


 小さな機械につながるヘッドホンを首に引っ掛けて、無闇に肌を見せない詰襟で自らの細身な体を包んでいた。


 隣の赤い獣と違い、こちらはもう少しばかり大人しそうに見える。

 しかし、今吐いた言葉でわかるように内面は決して可愛らしいものではないのだ。


「ちったぁ静かにできねえんですか殺すぞサル頭」

「あ゛? んだァイチゴてめえもやるってのか、受けて立つぞ」


 ニノマエが金にも紅にも見える目を光らせた。

 その隣に対するようにイチゴも蒼い瞳を半分に伏せて壁の向こうの男を睨む。


 イチゴとニノマエはここにきたその時から仲が悪い。こうやって二匹でよく喧嘩をして、屋敷の中の物を壊すからこんな場所に追いやられたわけだ。


 見た目も服装も相反する印象を醸し出すものだから……。ぶつかり合うのも仕方のない事なのかもしれない。


 中身ももちろん水と油。粗暴なニノマエに対してイチゴは神経質で、騒がしいものが大嫌い。

 こうやって隣が騒ぎ立てれば、イチゴはすぐさま黙らせにくるのだ。

 まぁ、逆効果な言葉しか吐かないのだけど。


「はっ、馬鹿馬鹿しい。俺はサルと同レベルの喧嘩に興味ねぇんすわ」


 イチゴはそう鼻を鳴らして、こちらの配給口に膝まづいた和夢のほうに視線を寄越した。


「牢屋ってのも気に食わねえけどこの騒雑音と同じ部屋ってのがさらに腹立つんですよ。なぁチビ、どうにかできねえもんですかねぇ?」

「んだとこのモヤシ野郎、いいぜシメてやらぁ。とっととそこから出て来いッ!」


 イチゴの言葉に呼応するように隣の檻からも抗議の声があがった。

 まさに売り言葉に買い言葉。朝っぱらから喧嘩の安売りバーゲンセールだ。


 すでに十割引きはされているというのに、イチゴが更にそれをまけろとヤジを飛ばす。


「お前がこっちにくりゃいいだろが、馬鹿なんですか? あ、馬鹿だった」

「はっ、出れねえのかよ。……悪かったなぁ、しばらく顔合わせねえもんだから てめえがひょろもやしって事 すっかり忘れてたぜ」

「図体がデカいだけで随分豪気なことですねぇ? 脳みそはサルどころかノミより小せえくせに」


 バチバチと二つの視線が壁越しに交差して火花を散らす。

 ニヤニヤと笑い出したニノマエとずっとしかめっ面のイチゴに挟まれた分厚いコンクリートの壁だけが肩身の狭い思いを味わっていた。


 はぁ、取り残された和夢はため息を吐く。

 いつもと寸分変わらぬその様子には、もう呆れるしかない。

 全く毎日毎日良くも飽きもせず。もはや頭痛がするぐらいだ。

 それよりも、何よりも、気にくわないのは……。


「クダラナイ喧嘩する前にさ、やることあるんじゃないの? ……冷めるんだけど」


 騒いだせいですでにひっくり返ったニノマエの膳と、もとより手をつける気がないのか押し返されているイチゴのそれ。


 無残な有様に和夢は重々しくため息をつき、片手で額を覆った。

 しかし、そんな和夢には目もくれず言葉をぶつけ合う二匹の『猛獣』。


 ぐつぐつと腹のなかが煮え立つのがわかる。ガァガァワンワンガルグルうるさい獣たちの鳴き声が、脳味噌を掻き回してどこかの線をグチャグチャに絡ませているのだ。


 和夢はどちらかといえば手先は器用な方だが、こういった面倒な事はあまり好きではなかった。

 絡まった糸を解くのに長く手を煩わせる気はない。

 そんなくだらないことに時間を使うなんて無駄の極み。使えない糸などゴミ箱にでも放り込んでおけばいい。


 でもさすがに自らの頭の糸ばかりは放り出すわけにもいかないだろう。

 どうすれば早く済むか? そんなの決まってる。

 絡まった糸なんて、





 ───切ってしまえばいいのだ。




 ガシャンッ!

 大きな音が暗い部屋に響く。

 二匹が視線をやれば和夢の細い足が檻の太い柵に押し付けられていた。おそらく靴底を叩きつけたのだろうとわかる。


 ようやく訪れた沈黙。


 そこに新たな喧嘩相手の介入に小さく短息したイチゴの呆れた音がひとつ落とされ、眉間にしわを寄せたニノマエの弾丸のような視線が少女を捉えた。



 静まり返り、どこか湿っぽさが強く感じられる石畳の部屋。

 蛍光灯の薄暗い光、その一切を反射しないどろりとした黒がぽつり浮かび上がる。

 和夢はなに一つ崩れない無表情で低く言いつけた。


「餌が選べると思って高くくってんじゃねえぞ、家畜が」

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