前編 それは

第1話 ノリナミワタル1


─5月12日 17:36 東京某所─




 あー、どうしよう、どうしよう。


 どうしたらこの状況を退しりぞけられるのか。彼には全く見当もつかない。


 でも、どうにかしなければならない。じゃないとこの先本当に生きていけなくなるのだ。

 それはもちろん比喩ではなくて、心臓が止まるって意味だ。


 肌触りの良い体が沈むようなソファーに身を預けているというのに全く心は休まらない。

 むしろ鼓動が早まりすぎて困るくらいで……。


 うまく回らない頭に鞭打って働かせる。しかし答えなど見つかるはずもなく、無言の時間だけがすぎていく……。

 痺れを切らした相手が声を荒げた。


「オラとっととしろや!」

「うあぁ!」


 どんっと目の前の机が叩かれるのに合わせてわたるは悲鳴をあげた。

 高価たかそうな木製の机に拳を落としたのは黒いスーツに身を包んだ男だ。


 今の今まであい向かいの応接ソファーに腰掛けていたのだけど、立ち上がってこちらに身を乗り出している。


「いつまで待たせる気だァ? んとにいっぺんシメねえとわかんねえみてぇだなぁ!」

「ひぃっ、待って待って! 話をしようぜおっちゃ、にいさん! それからじゃないと何も始まらない」


 危ない危ない、亘はどくどく鳴る心臓を押さえつけた。ついつい口を滑らせてしまうところだった。こういうときは相手をいい気にさせるのが定石中の定石なのだから。


 ヘラヘラとおどけて焦燥混じりの愛想を浮かべる亘に男は眉間のシワを深くした。


「ああ゛? こっちはなあ、話なんざ聞かなくったっててめえの首へし折ることはできんだぞ!」

「お、おお! さっすがにいさん力強いんだねぇー、俺なんかとっても敵わな……うわっ!」

「んな話しに出てきたわけじゃねえんだよ!」


 引きつった笑みでそうおべんちゃらを吐けば胸倉を掴まれ引き寄せられる。

 強面な顔が至近距離にあった。


 亘は不慮の衝突を避けるためできる限り身を引いた。しかし、服の伸縮性にも限度がありこれ以上は引けない。

 がっちり合わされたヤイバどころか巨大戦車ぐらいの迫力を携えた目に腹の底から震えが這い上がってくる。


 ここは東京の某繁華街の一角だ。

 コンクリートの無機質なこのビルには雑多に並ぶ統一性のない色とりどりの看板がぶら下がっている。


 その中にはバーや喫茶などの飲食店を始め、キャバだとかテクレラだとか俗物的なものもちらほらと。

 そんなビルの最上階に位置する事務所が亘が今いる場所である。


 事務所、とは言っても些か殺風景がすぎる部屋だ。

 飾りは一切なく、真ん中にこの机とソファーが置かれているだけ。

 あとは必要なものしか置いていないようだ。


 きっとどんなことがあってもすぐに別の場所に移れるようにとの配慮なのだろう。

 ……例えばほら、警察が来た時とか。


 まぁ、詰まる所ここはそういう闇組織の事務所で。平たくいえばここにいる彼らはヤクザとか極道とか呼ばれる『職業』の方々だ。


 そんなところに亘がいる理由? それはお察しの方も多いとは思う……、全然珍しい理由ではないのだ。


 男が声を張り上げる。


「御託はいいからとっとと金返せ!」


 つまりは、こういうことである。

 ほら、言った通り何も代わり映えのしない理由だろう?


「う、うん返すよ返す。もちろん返すってば」


 亘は狼狽しつつも顔には笑みを貼り付けた。

 頰には冷や汗が伝っているが拭ってる暇などない。


「そう言って三ヶ月も逃げ回りやがったのは どこのどいつだぁ?」

「いやぁ悪いね、毎晩毎晩かわいーコちゃんたちが離してくんなくてさぁ……。あっちこっちに寝ぐらがあるもんで こっちに帰ってこれなかったんだよぉ」

「ほざけ。そんなオンボロな格好ナリしてよく言えたもんだなぁ。ええ!?」


 胸倉を掴んだままガクガクと揺さぶられてその衝撃と共に首も上下に揺れた。

 そう、亘が今纏っている服は土埃だらけで、とても女性の部屋を渡り歩いていたとは思えない。


 茶色に染め上げられた頭髪にもそれが絡んでいるとあっては、ホームレスと言われた方がはるかに説得力があるだろう。


 それでも亘は焦ったように声を裏返しながらなおも言い募る。


「返すってば大丈夫ッ、俺を信じてよにいさぁん」

「おめえのどこに信じられる部分があるってんだ? 言ってみろ!」

「せ、誠意だけはあるよ?」

「滞納してる時点でんなもんカケラもねえんだよ!!!」


 ああ耳に痛いほどの正論だ。

 でもこちらだって譲れない。譲るわけにはいかない


「あるってあるある! めっちゃあるよ! でもさー、もうすこぉーし待ってもらえないかなって……、俺も頑張ってるんだけどさぁー」


 ちらちらと下から視線を送りながら躊躇いがちに催促する。

 すると、どうだ。目の前の男はふっと顔を緩ませて凶悪な顔を少しばかり柔らかくしたではないか。


「……おうおう、そーだろうよ。全く若えのにいつもいつも 忙しそうにしてる」

「そうっ! そうなの! だからっ!」

「毎日毎日ピコピコピコピコ、ゲーム機いじくりまわしてなぁッ!」

「ゔっ……」


 わかってくれた! よかった逃げられる!

 そんな淡い期待が脳裏をかすめるが、そんな都合のいいことがあるはずもなく……あっけなく崩れ去った。


 亘は男の言葉に息を詰まらせながらもなんとか次の言い訳を探す。手当たり次第に思い浮かんだ単語を舌にのせた。


「あ、あー。待ってよ待って。な? 急いだって一文にもならねえっしょ? ほ、ほら短気は損気っていうじゃん?」

「待つだぁ? こっちはもう三ヶ月も待ったって言ってんだろうがァ!!」

「ぐえッ! そそそそ それはどうもシツレイを」


 怒鳴り声とともに椅子から床へと放り出された。

 大理石の固い感触が体を痛めつけて、亘は呻き声を上げた。

 黒服の男は大股でそれを追いかけてくる。


「あんまりナメた真似してるとっ……」

「おい、もうやめろ。話になりゃしねえ」


 更に何か言おうとする黒服だったが低い声に遮られた。

 ……それは奥のデスクでこれまでの一部始終を静観していた一人の男の声だ。


 ぷつりと静かになった部屋のなか、上質そうな椅子に座っていた男が息をついた。


「し、しかし兄貴……」

「いいんだ。俺たちも暇じゃない、そうだろ?」


 言い募る男をそう嗜めて、ビジネスチェアから腰を上げた。緩慢な動きでゆっくりとこちらに歩を進めてくる、やっぱり同じく黒服の男。


「ええっと、ノリナミクン? だっけな」

「うす……」


 記憶の糸を手繰ればその男の名前を思い出すことができた。

 たしか粳場うるばとか言う、強面男たちを仕切ってるやつだ。多分、彼らの中では結構なお偉いさん。


 強面の男とは打って変わって粳場はにこやかな笑顔で話しかけてくる。

 亘は生唾を飲み下した。


「君もこんなところに長く居たくはないだろ? 俺たちもそうさ、無駄な時間を使いたくない」

「……」

「だから君がさくっと払ってくれると手間が省けていいんだが、どうだろう?」


 粳場はそんなことを話しながら応接スペースまで歩いてきた。

 そして、今まで目の前にいた男を下がらせて、入れ違いで亘の前のソファーに足を組んで腰掛ける。


 ──その瞬間、亘はずんっと体が重くなる感覚に襲われた。

 それまでとは比じゃない緊張感が亘の体をぎゅうぎゅうに締め上げる。

 あまりの重圧に呼吸さえ制限されて、亘は恐る恐る細い息を吐き出した。


 さっきからの交渉でわかるとは思うが、亘には返せる金なんか一切ないのだ。


 借りた金は全部使い込んでしまっていて。自分の生活さえままならない状態だ。

 親にだって勘当を言い渡されて、友人もろくに頼れやしない。


 だから、亘にできることなんてどうにかして返済期限を延ばしてもらう事ぐらいで。

 そのためにやるべきことは酷く限られているのだった。


「粳場さん、お願いしますッ! あと一ヶ月だけ待ってください!!」


 亘はその場に膝を揃えて折って、頭を床に押し付けた。

 敢えて言わなくても日本特有の最敬礼の一つであることはわかるだろう。


「ら、来月ッ! 来月になりゃ何とかなるんスよ! 次の大会で優勝できればその賞金で……」


 勢い余って強く頭を打ったが、上げるわけにもいかず、そのまま痛みを噛み締めて呑み込む。


 最新技術を駆使した亘の愛してやまないそのゲーム。この大会で優勝者に授与される賞金は馬鹿にならないほどで。

 それさえあれば彼らを納得させることができるのだ。


 まあ、そのための装備にまた幾万も金がいるのだけど……。


 そんな亘に返ってきたのは無慈悲というか当然というべきか。温度のないどこか事務的な言葉たちだった。


「それ前回も言ってなかったか? しかもお前、今回予選敗退だったろ」

「ぐっ、……大丈夫です! 次は必ず……、」

「聞き飽きたなぁ、そのセリフ」


 亘の方はこんなに必死で、冗談なんかじゃなく追い詰められているというのに。

 粳場はそれを見てけらけらと朗らかに笑うのだから底知れない恐ろしさが腹の底から込み上げてくる。


 品のあるブラックスーツのポケットからタバコを一本取りだせば、隣に立って控えていた男が慣れたように身をかがめ火をつける。

 その男の方などちらりとも見ずに粳場は亘に微笑みかけた。


「なにもそんな夢物語聞くためにここに呼んだんじゃないんだよ、わかるだろ?」

「ぅ゛……」


 亘にはもう何もいい文句が浮かんでこない。二の句が継げないなら押し黙るしかなかった。

 粳場はすぅっと目を細めた。


「大体早い方がいいに決まってる」

「……?」


 その言葉の意味を掴みあぐねる。

 先ほどの問答だろうか。三月みつきも待ってると一蹴されたやつ。

 確か急ぐと損だぜみたいなこと言ったんだっけ?


 いや、早く返せることに越したことはないのだけどなにぶん持ち合わせる物がないからこうして……。


 粳場は紫煙を燻らせて、口の端っこを持ち上げる。……亘にはそれが、人のそれには思えない。

 目の前に立つその男が───バケモノのようにみえた。


「臓器は新鮮なのがイチバンなんだ」

「……ッ!」


 あからさまに動揺して体を跳ねさせた亘を見下ろして、粳場は穏やかな笑みを更に深くする。


「だーいじょうぶだーいじょうぶ。知ってるだろ? 肺も腎臓も脳みそも二つずつあるんだぜ」

「え、あっ……ちょっとま、」

「でも、他も売らなきゃ足りないかもなあ。まあ君は気にしなくていい、それもこっちで釣り合うように勘定しとくしな」


 亘はパクパクと口を開閉させるが、吐き出されるのは息だけだ。


 一方の粳場は悠々と机に置かれた借用書をすくい上げて亘の目の前でちらつかせる。

 そうして次に紡がれるのも氷刃のように心臓を舐める言葉の数々だ。


「ついでにウチは借りた分さえ貰えればOK。おつりはきっちり返してやるやさしー会社だからさ。後のことは気にしなくていい」

「あの、……えっと」

「あー……、でもその時には君はいないのか。それは失念してたなぁ」


 わざとらしくそう言って大仰に腕を広げてみせる。

 その指で弄ばれる借用書はまさしく亘自身だった。


 だいじょうぶ。あんしんしてくれ。

 場にそぐわない明るい声がどろり耳に溶け出した。


「残ったお金はちゃあんと『募金』に使っておくからさ」


 彼の言う募金とやらはおそらく自分たちの事業への投資、だ。

 結局亘が得られるものも残せるものもないということ。


 亘の体から血の気が引いて行く。

 急に絶対零度まで冷めきった思考が本能的に生存への道筋を求めて奔走するが……。


 出て来るものは悲観的な単語ばかりだ。

 亘は粳場の足に縋った。


「ま、待ってください!! ホント次は……、次こそは俺っ!」

「あっはっは、しつこいやつだなぁ。………………連れてけ」


 すとんと低くなった声に周りの男たちが短い返事を返して動いた。

 亘は成すすべもなく彼らにに両腕を拘束される。


「─────ッ!!」


 両脇に立った彼らは亘なんぞとは体格に天地の差がある。太く力強い腕で締め上げられたら亘にはどうすることもできなかった。


 地面に踏ん張って抵抗するもその結果はあっけなく。

 半端引きずるようにして事務所の出口とは反対側、奥へと続く簡素な扉に彼らは足を向けた。


 その先は、なんだ?

 もしかして、……もしかして白服の男とかが立っていて医療器具なんかがいっぱいあるんじゃないか?


 先ほどの粳場の言葉もあってちらつくのはそんなことばかりだ。いや、それしか亘には思い浮かべることができなかった。


 明確に突きつけられる『死』という文字。


 頭の中でけたたましい警報が鳴り響く。

 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!! こんなところで死ぬなんて絶対に!


「はなっ、離せ!! 俺はまだッ、まだ!!」


 無我夢中で手足をばたつかせて、なんとか拘束から逃れようと足掻く。

 暴れ出した亘に両脇の男は舌を打った。

 しかし、どんなに振り上げ振り下ろしたところでビクともしない。

 その行動が無駄でしかないことを知るや否や、亘は粳場の方に声を放った。


「きっと次はやってみせるから! ……かね、金だって倍にして返してやるよ! だから……だからッ!!」


 涼しい顔を続けている男にそう大声で叫ぶも、彼の耳には入らないようで。……それどころか誰一人としてこちらを見なかった。

 ひゅっ、と喉が空気の掠れた音を立てる。


 ああ、だめだ。引きずり込まれる。

 俺はなにもできずに終わるんだなぁ……。


 そんな絶望感に抵抗する気力も奪われて。

 がくり、体から力がぬける。

 諦めたと悟ったのか両脇の男が息を吐き、力強く亘の体を引いた。


 ずるずると無造作に引き摺られる体。冷たい大理石の床には跡さえ残らない。


 もう終わり。これで終わりなんだ。

 何一つ、叶わないままで彼の人生は幕を閉じるのだ。




 ──────ガチャリ、



 扉の開く音がした。部屋にはまだ沈黙が流れていたが、その沈黙が色を変える。

 緊張するように張り詰めたものに。


 でもそんな変化に気づけるほど余裕も気力もなかった亘は目を伏せて死刑執行のその時を待った。

 ……そして、





「……倍、か。それはいいな」




 こんな声が、遠くで聞こえたような気がした。

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