第4話 未来に向かって

 そんな苦しみも消え去ろうとしていた月曜の朝だった。出勤の準備をしているとふと朝刊の見出しが目に入った。

「徴兵制いよいよ本格化議論。日本も軍国国家に!」最近やたらとこういった見出しが新聞紙面を賑わせていた。恒平はあまりマスコミを信用していなかった。事実を伝えるだけにおいてはその役割を果たしていたが、中には推測を交えた論評も数多かった。その中には偏った主張を断定するような記事もあった。

「日本が軍事国家か」最近の日本を取り巻く世界情勢を彼もそれなりには理解していた。だけど一気に軍事国家へ変貌するようなことなどまず有り得ないと考えている。

時間がないので新聞には目を通さずマンションのエレベーターに乗り込み、玄関先で眩しい朝日を浴びながら大きく息を吸い込んだ。10月の上旬になると朝夕の気温も下がり、頭の中に心地よい空気が入り込んでくる。駅までは軽い足取りで向かったが、いつもの満員電車にはいつまでたっても不快な時間であった。周りには自分と同じビジネスマン達が、今朝もそして明日もこの先何十年も、毎日満員電車に詰め込まれ職場へと向かっていくのである。無表情な顔つきには、自分の人生を諦めたかのように虚脱感を漂わせた年配のビジネスマンも数多く見える。家族のため生活のために、彼らは毎日自分という人間をなくして一人の労働者として電車に乗り込んでいくのだ。そんな重苦しい空気からホームに辿り着くと、少しばかりの解放感を味わうが、そこから職場までの道程も電車と同じようなものであった。恒平は時々「今日は会社と反対の方向へ歩いてみようか、遅刻しようが大したことじゃない、こんな退屈な毎日を過ごしているとつまらない自分になってしまう」平穏な日々を望んでいた彼には退屈な毎日に飽き、身勝手な感情が宿っていた。しかし結局はそんな思いを実行することもできないまま、また一日が終わっていく。


 街中は心地よい季節に入り、恋人らしきアベックたちが微笑みながらすれ違っていく。そんな彼らを見ていると寂しさがふと胸の中に入り込んでくる。「幸せかい?」そんなひと言を彼らに投げかけてみたいが、心の中にやましさがあるのか皮肉な言葉にしかならない。「自分は裏切り者ではない、少し自分人間だったかもしれないが、本当の自分を守るため偽善者にはなりたくなかったのだ」と心の中でつぶやいた。

 部屋に帰り、途中で買ってきた惣菜をテーブルの上に並べ一人で夕食を食べ始めた。テレビを付けると「ニュース討論」のような番組が流れた。日本の将来の展望を数人の専門家や評論家たちが、激しい討論を展開していた。

「日本はこのままでは軍事国家の道を必ず進んでしまう。国民の皆さんが一人一人意識を持ってこれを阻止しなければなりません。今こそ国民が立ち上がる時です」まだ若き評論家が鋭い目付きで熱く主張を説いていた。数人の討論者は賛同するものもいれば、反論するものもいた。だが恒平にはただの演出討論にしか見えなかった。無関心な政治と社会に何も心は動かされることはなかった。いつもの様にグラスにウイスキーを注ぎテレビのかわりにラジオを付けた。軽い音楽が心地よく流れてきた。平和な暮らしはみんなが望んでいる。もし戦争にでもなればこんな夜を過ごすことはできない。ただそんなことは起こらないだろうと誰しもが思っている。だれか自分の話を聞いてくれる相手はいないのか。一人で束縛されない自由な生活にふと空しさを覚えた。自分の将来はどうなっていくのだろう。グラスを何杯か飲み干し、とりとめのない思考が頭の中を駆けめぐった。

 ふとラジオから声がこぼれた。「午前0時のスペースゼロ、今夜もあなたを時空の旅へとお招きしましょう」。

 真っ暗な世界に私は立っていた、「ここはどこだ」辺りを見渡しても何も見えない、また闇夜の世界に入り込んでしまったのか。すると遠くから金属音にも似た足音が聞えてきた。「カツン、カツン」と少しづつこちらに近付いてくる。得体の知れない靴音に恐怖を覚え身構えた。すると突然軍服をまとった男が目の前に現われた。そして「君は国家のために働くべきだ。君のような堕落した人間は責任をとらなければならない。それは国民のためそして国家のために尽くさなければならないのだ」と言って私の左腕を強く握って連れていこうとする。私は必死になって男の腕を解き放そうともがいた。その時私の左ポケットから白い封筒がひらりと落ちた。男はその封筒が目に留まったようで一瞬力が緩んだ。その隙に私は力一杯の腕力で男の腕をふりほどき逃げ去ることができた。どのくらい走ったのかどこを走ったのか目の前に白い館が見えてきた。とにかく人のいる所に入らなければと扉をあけた。息がきれているのかきれていないのか自分でもわからない。入ってみると何となく以前見たような喫茶店だった。薄ぼんやりとした照明の中に空いた席を見つけて座った。しばらく胸の鼓動はおさまらなかったが、恐怖からの怯えは和らいでいった。ふと先ほど男と掴み合った際に落ちた封筒のことを思い出そうとした。「あの封書は何だっただろう、誰からのものだったろう」と自問自答してみたが何も思い出せない。

もどかしい思いでいると店内から静かな声が流れてきた。「午前0時のスペースゼロ、今宵はこのあたりで」


 目を覚ました恒平は夢の続きを部屋の中で確認した。白い封筒、あれは確か山本百合子からの手紙だった。転勤が決まり引っ越しの身支度をしている最中にポストに投函されていた。「坂下恒平様」とやわらかい文字で、差出人には彼女の名前が書かれていた。恒平は作業を止め、すぐさま封筒を開いた。

 その文面には「私は故郷の新潟に帰ります、そこでしばらくゆっくりと過ごすつもりです。あなたが名古屋に転勤されることを聞きました。寂しいですが、時が私もあなたもやさしく包み込んでくれるでしょう。お元気で、さようなら」と記してあった。恒平はその文面に驚かされた。あの彼女がこんなに簡単に引き下がってしまうとは。自分の身勝手さにあきれ、愛想を尽かしたのだろうか。思わぬ知らせに恒平は新しい旅立ちを祝福してくれたと思い、喜びをかみしめながらまた身支度を始めた記憶が蘇った。


 彼女との結婚を考えなかったわけでもない、とりたたて嫌なところもなかった。ただ付き合い始めて3年が経ち、少しづつ色あせてくる、つまりが勝手な事だが飽きてしまったのも正直な気持ちである。二人で過ごす時間が最初の頃は貴重であり、楽しくてもっと一緒にいたいと思う。それは恋愛としてはごく当たり前で、そしてお互いを知っていくと気持ちや考え方も分かり合えるようになる。価値観であったり将来についても話してみたりする。

 ただ、人間は同じであることに物足りなさを感じ、変化や刺激を求めていく。新しいものが徐々に陳腐化していくと、それまで好きだったところが急に嫌に見えてきたりする。些細な口論が大きな嫌悪の憎にまで広がってしまうこともある。自分の人生だから自分を犠牲にしてまで相手に合わそうとは思わない。

「恋愛と結婚は別だ」と言われるが、別に結婚だけのために人生を共にする相手を探そうとは思わない。恋愛をしてこの人がどれほど自分を認めてくれ、支えてくれるのか、そしてお互いを尊重し合えるのか、そうした時間をゆっくり確かめ合って結婚すれば良いと考えている。

 恋愛のピークが結婚であるならば、もしその情熱が冷めてしまったらどうするのか。ただの同居人となり、親となり、一家を養うために自分を否定しながらも働いていくのか。人間とは切なく貪欲な生き物だと恒平は思った。

 ただ時間は前にしか進まない、あるものは過去に、ないものが未来にあるかもしれない。確かに山本百合子は過去にもいるけれど、未来にも彼女はいるだろう。ただその彼女がどんな女性になっているかは分らない。それは彼女自身だけではなく、夫であったり子どもたちが彼女の未来を変えていくだろうと思う。

 人は歳月を経ると変化していく、良くもあったり悪くもあったり。同じように見えているのは一部分だけで、お互いが変化しているのだから必ずどこかが変わっているはずである。恒平の心も変わっていくし、あれから百合子の心も変わっているかもしれない。もし彼女に出合うことがあったなら、二人はどんな顔をするだろうと恒平は考えた。


 晴れ渡った10月のある日、恒平はいつもの様に会社に行き、いつもの様に仕事を片付け、いつもの様に帰路に向かう駅へと歩いていた。横断歩道の信号が赤になり立ち止まった。

通り過ぎる車の隙間から女性の姿が見えた。何台かの車が通り過ぎると歩道の信号は青になり、歩道は空白の広場となった。その瞬間、歩道の向い側にいた女性が私を見て微笑んだ。そして彼女は色白な赤ん坊を抱えながらゆっくりと私の方へと歩き出したのである。

「これは夢なんかじゃない」恒平は口元を緩めて一人つぶやいた。

そして彼女のもとへ我が子のもとへと歩き始めた。

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冬の錯夢(さくむ) 冬野 周一 @tono_shuichi

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