第2話 現実と虚像が交錯する
彼女は少し顔をこわばらせ、じっと私を見ている。
「ということは、私とあなたは恋人同士なわけですね」
「あなたが私の恋人」私は独り言のように呟いた。「しかし」と言いかけて口を閉じた。
何とかして自分の過去を呼び戻そうとしても私の頭の中には、彼女の言葉を信じるものは何一つ出てこない。
彼女は「するとそれ以上にもう一つ重大な約束があることもご存じないでしょうね」と一語一語かみしめるようにゆっくりと私の真意を探るように問いかけてきた。
私は今までと少し違った彼女の様子に脅えるようにおそるおそる尋ねた。「どういう約束ですか」
彼女は少し戸惑った仕草を見せたが、心を決めたのか姿勢を改め私に静かな視線を送ってきた。
「結婚です。結婚の約束です」「えっ」私はこの言葉に思わず叫んだ。息をかみ殺すようにうわずった口調で言葉を出した。「本当にそんな約束をしているのですか、私には信じられない」
彼女は、一瞬私の驚きに身をそらしたが、冷静に言ってのけた。「事実です。嘘でも作り話でもありません。先日あなたがその時計を忘れていった日に私達は交わしたのです、永遠の愛を」
「そんな馬鹿な」吐き捨てるように私は声を出した。「そんな馬鹿なことがあるもんか」ともう一度心の中で叫んだ。
しばらく二人は黙り込み、お互いに視線をそらした。ふとどこからか音楽が鳴り響き、私の心をかき乱し、何がなんだかわからなくなってきた。
するとふっとけたたましい音楽が鳴り止み、どこからか声が聞えてきた。
「午前0時のスペースゼロ、今夜はこのあたりで」
山本百合子が目の前に座っている。辺りには数人のサラリーマン達が昼休みを利用してランチを食べている。彼女から電話があったのは2日前のことだった。
どうしても会って話しをしなければならないことがあると言って、この喫茶店で待ち合う約束をしていた。
時計の針は12時を過ぎていた。恒平は汗ばんだ腕時計を外しテーブル上に置いた。「何だい用って」ぶっきらぼうに尋ねた。
「最近あなたは私を遠ざけているようね」「何を言ってるんだ、どうしてそんなことが君にわかるんだ」
「だって電話してもほとんど留守だし、たまに出たって忙しいとか言って会ってくれないじゃありませんか。以前はこんなことはなかったわ、いくら忙しくても都合をつけてくれたじゃないですか」彼女は肩を少し震わせ涙ぐんでいる。
「それは君の思い過ごしだよ。ここんところ決算期で忙しんだ、本当だよ。今日だって残業なんだ。だからもう少しすればまた会えるさ。僕のことも考えてくれなくっちゃ。まさかそれだけのことで呼び出したんじゃないだろうね、ほんとは今だって会社にいなきゃならないんだ、処理しないといけない書類が山ほどあるんだから」
涙ぐんでいる彼女をなぐさめようともしないで、愚痴っぽく言い放した。
「そう、それじゃあ少し経てばまた会ってくださるのね」白いハンカチで目を押さえながら、小さく震えた声で彼女は言った。
「ああ、まあそういうことになるかな」「今日はそれだけかい、じゃあ急ぐから失敬するよ」と言い放って席を立とうとすると、彼女が「待ってまだ話しがあるの」彼女は何か訴えるような目で私を制した。百合子の声に周囲の男たちの視線が自分達に注がれてくるのが恒平には恥ずかしかった。と同時に慌てずゆっくりともう一度席に着いた。
「そんな大声を出して、みっともないじゃないか」「で、何んだいほかに話しって」
苛立たしそうに催促する口調で問いただした。
百合子は少し間をおいて「できたの」と呟くような声で言った。
「えっ、何だい。聞えないよ」すると「できたのよ子供が」今度は少し大きな声で言ったが、周りには聞えないほどの声だった。
「何だって!」今度は恒平が大声をあげた。一斉に周りの視線が二人に集まった。今度は百合子が恒平を制するように「落ち着いて」彼女自身自分に言い聞かせるように恒平を押さえつけようとした。
恒平はしばらくの間黙り込み、どうすればいいのか、どうすれば自分をこの突然襲いかかっきた暗闇の状況から救い出すことができるのか。考えれば考えるほど心は大きく乱れ、言葉が出てこない。
「やっぱりあなたは私のことを愛してなかったのね」百合子は絶望的な声を出した。
今にも発狂しそうに大きく肩を震わせ拳を震わせて恒平を睨みつけている。
一気に彼女の目から悲しみの涙があふれ出した。声には出さず、身体全体から湧きあがるいい知れない悲しみ、哀れみ、絶望の淵に突き落とされていく裏切りへの憎悪、何もかもが崩れ落ちていく。
その衝撃におののき、脅え、錯乱状態に陥っていく彼女の虚しい反逆を生み出すかのように溢れだす涙は止めどなく彼女の頬をぬらした。
「何ケ月だい?」弱々しくぼそぼそと声に出した。百合子は答えようとしない。
恒平の言葉の意図が何を言おうとしているのか彼女にはわかるからだ。
再度恒平は尋ねた。「堕ろせるんだろう」
何もかもが崩れおちた。悲しみの雷鳴が響きが渡り、絶望の彼方へ追い込んでいく。彼女は崩れ落ちるように、膝の上に身体をのしかけるようにして泣き叫んだ。
恒平はたじろいだ。「何だってこの俺が」自分でも泣きたい思いである。どうしろ、ではなくどうすれば今の自分を救えるのか。すると「虚像だ。今の自分は自分ではなく別の自分なんだ。別の自分がやっていることだ」恒平の錯乱した頭の中に、この場から逃げ出す本当の自分がいた。
「今の僕には君を幸せにする自信もなければ保障もない。だから君を幸せにできる確信が持てるまでしばらく待ってくれないか」「別に逃げるわけじゃない、しばらくの時間が欲しいだけだ。ただ残念だが今の僕には子供は要らない、また僕達が一緒に歩いていく道を歩き始めるまで待ってくれないか。
必ずその時がくる、きっとくるから」「約束するよこの場で」と恒平は虚像の自分が交わした言葉を納得させるよう彼女をなだめながら店を出た。
あれから三週間が経った。百合子からの連絡はない、「今の仕事が片づいたら連絡するから」言ったまま日々が過ぎていった。仕事も少しづつ落ち着き、帰宅する時間も早くなってきた。
自分のマンションに近付くと、ふと百合子が立っていなかと不安を抱く日もあった。嘘で取り繕った平穏の日々が過ぎていた。先日会社で、決算期を終えると恒例の人事異動に伴う「異動希望用紙」が配布された。
恒平は現在本社勤務であるが「名古屋支店」と書き込んで提出した。本社勤務のものが、わざわざ支店勤務を希望するものは滅多にいない、本社勤務のものは「部署」の異動を希望するぐらいが数人いる程度だった。
ある日人事担当者からお呼びがかかり、希望する異動の真意を確認された。その時自分の直感では希望が叶うと思った。
「あと1ヶ月だ、1ヶ月の辛抱で俺は以前の自分を取り戻せる」恒平は一人部屋の中で微笑んだ、これが彼の実像だった。
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