悪人(後)
かつての親兄弟のように自分を蔑み、可成のように自分を置き去りにし、光秀のように裏切ってくれたほうが、楽なのだ。
―――どうしたってこの娘は、俺の手を焼かせる。なぜ最後まで、苦渋の決断を強いるのだ。
この娘は結局、己が信じてきた正義も道徳もすべてかなぐり捨て、欲によって信長を選んだ。
それが、信長には悔しくてならぬ。
これまでも、長らく織田家に仕えてきた家臣に反織田の気配を感じた時には、用済みの手駒のごとく棄てることはあった。
自分に背く人間を殺し、捨てるのは楽だった。同情もすることもなければ、踏みとどまることもないのだから。
夕立が自分の命を狙っていると知ったからこそ、信長は夕立を、最終的には討ち捨てるつもりでいたのだ。それが、どうしたことか。楽な下り坂を進んだつもりが、いつしか、戻り路のない針の山に迷い込んだ気分である。
いっそ御影にその身を託すなり、自分の思うように生きるなりすればよい。
夕立には、それができる。信長に付いて来なくたって、どこぞの大名に技を売って仕えればよいではないか。
「親の仇に味方するなど、どうかしているぞ」
信長は、心なしか息苦しくなりながらも、その息も絶え絶えながら夕立に言い放つ。
自分の体のことは、自分が一番よくわかるというもの。
全身に負った傷から徐々に痛覚も感じなくなり、体が思うように動かせなくなった。首を振れば眩暈がし、空気を十分に吸えないのである。
隠密が敵を殺すのに、わざわざ何の細工も施していない刃物で、挑むはずもない―――。
御影が手にしていた短刀にも、目に刺さった吹き矢にも、毒が塗られていた可能性は十分にあった。いまさら毒を吸いだしたって、もう遅いであろう。
夕立が味方に付いたって、信長の死はすでに、目の前まで来ている。
「―――そんなことを言われましても……私は、父も母も知らないのです」
顔も知らぬ親よりも、信頼関係のある信長が良い―――夕立はそう、言いきらんばかりである。
「……おのれの事情など、どうだって良いわ」
目の前で自分が死にゆくのを眺めることになったら、夕立はどのような心持になるか。それは容易く想像できる。
信長は立っているだけでも精いっぱいな体に鞭を討ち、吐き捨てる。
「貴様のような小娘に、庇われる俺の身にもなってみろ―――俺は今この時でさえ、屈辱で死にそうだ」
冷徹な言葉を投げつけられたその刹那、夕立の顔に悲壮の色が浮かんだ。
「貴様が良くても、俺には良くないのだ。貴様に情けをかけられたとあっては、大恥にもほどがある」
「でも」
「くどい」
信長は皆まで言わせない。
夕立にしてみれば、これまで共に旅をしてきた男が、急に手のひらを返して突き放されたのだ。悲しんでもおかしくはない。信長自身、己の口から紡がれる言葉を不条理に感じた。
それでも、夕立は縋るような眼差しで、信長に歩み寄る。
助けを求める幼子のように、か弱げな面差しで、近づいてくる。
その様が、もう、信長には哀れでならぬ。
たまらず、ここ数十年いちども突いたことのなかった膝を、夕立の眼前で汚泥に突いた。
夕立の目で跪いた信長は、首を垂れて懇願する。
「頼む、消えてくれ―――俺が無様に死んでゆく様は、お前にだけは見られたくないのだ」
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