夕立
*
夕立はたった一人で、山を下っている。
頭上で名も知らぬ鳥が、けいけい、と鳴く。その声に耳を傾けながら、足を引きずって歩く。
『俺が無様に死んでゆく姿は、お前にだけは見られたくないのだ』
そう頭を下げた吉法の言葉が、頭の中で響いている。
誰もが魔王と恐れた男が、頭を下げるほどに―――夕立との決別を望んでいたのだ。
冷たい言葉で突き放されても、夕立はついていく覚悟だったというのに、ああして懇願されたとき、いとも簡単に折れてしまった。
そんな自分が、夕立は悔しいのである。
小さな唇を震わせ、鼻腔の奥が痛くなるのを堪えた。
―――どうして誰も彼も、都合が悪くなると、私を棄てるんだろう。
夕立は、自分を屋敷から追い出した智生を思い起こす。
吉法も、そうだ。
夕立には「共に地獄へ落ちてやる」などと言ったくせに、自分が死ぬときにはひとりを望むとは、矛盾にもほどがある。吉法が望めば、夕立はその最期を看取る覚悟もあった。
それなのに夕立は、頭を下げる吉法を見ていられなかった。
彼がそう望むのだから、これ以上、わがままを言うわけにはいかない。利口な自分に従って、吉法の目指す先とは真逆の方向に進んできたが、彼と別れてからさして時間もたたぬうちにも、夕立の胸には暗雲が膨れ上がっている。
―――あの人を、独りで死なせていいの?
夕立は自問する。
―――私と共に地獄を歩んでくれると誓った人を、孤独な静けさの中に残したまま、死なせてもいいの?
無論、その問いに対する答えは「否」である。
死なせていい、わけがない。
せめて、私が看取ってあげなければ。私が裏切ったせいでこうなったのに、私が知らぬふりをするのはおかしい。―――夕立の決断は早かった。
くるりと踵を返し、来た道を駆け出す。
風を切り、涙の珠を眼から溢しながら、大きく足を踏み出した。走れば飛ぶように駆けてゆくことができるのは、夕立も自分のことであるがゆえに、よく知っている。
―――が、妙だった。
全速力で走っているのに、やけに進みが遅い。体が重く、走るほどに息が切れた。
(なぜ?)
いまだかつて、息を切らしたことのない夕立は、然るに、戸惑った。
腰から携えた打ち刀が、ひどく重く感じる。地を蹴り、体が上下するたびに、打ち刀の重量感が体にのしかかった。これまで木の枝のように軽かった刀が、夕立の足を引く。
「はっ……はっ……」
夕立は疲弊のあまりに立ち止まり、天を仰いで息を吸った。
全身が熱い。いつもならば一足飛びで駆け抜けられる距離を走っただけで、全身から汗が噴き出した。
天を仰いだ夕立は、そこで、左頬の痛みに気が付く。
御影の腕を落とした時、その手が持っていた短刀が掠めた傷だった。
触れてみると、掠り傷程度だった傷口から、いまだ止め処なく血が流れ続けている。
「え……?」
触れた傷が、ひりりと痛んだ。
―――どうして、治らないの?
夕立の肝が、凍てついた。
掠り傷など半刻も経たぬうちに消えてしまうというのに、一向に、頬の傷は塞がってはくれなかった。
悪寒というものは、たとえ常人の枠から外れた夕立でも、感じる。
こめかみに伝った汗を拭いもせず、夕立はすぐ脇の木に目をくれる。自分よりも頭一つ分高い位置に、太い枝が映えている。
いつもなら、ここに飛び移ることは容易い。一縷の望みに縋るように、夕立は全力で地を蹴り、跳躍する。
―――が、夕立の目指した枝までは、到底届かない。
もう一度、跳ぶ。しかし夕立はわずかに地面から離れただけで、それ以上、上に飛び上がることはできなかった。
何が起こっているのか、分からない。
夕立は青ざめたまま、困惑した。
(何が起こっているの?)
夕立のこめかみを伝う汗が、傷口に沁みる。
天性の身のこなしが、その常ならぬ治癒の速さが、発揮されない。
夕立は震える自分の手を見つめ、恐怖した。
この天賦の才があったからこそ、夕立は旅の道中、大岩のような男に襲われても撃退することができた。このようなさまでは、大男どころか、大人の女一人にさえ張り倒されてしまうような気がした。
―――どうしよう。
夕立は唖然として、その場に立ち尽くした。
腰帯から刀を抜くと、それまでは感じなかった重みが、華奢な細腕を強く引く。引き抜くだけでも精いっぱいだった。このようなことでは、もう戦うことなど叶わぬだろう。
夕立の懸念は、膨大に膨らんだ。
このような才などなくとも、屋敷まで帰って智生にこれまでの罪を詫びれば、もう二度と闘わなくて済む生活を送ることができる。
しかし、あの場所に戻ればどうなるか。夕立は戦慄し、身を竦ませた。
智生がいつでも守ってくれるとは、限らない。幾度も痛みを味わった冬の間、僧たちは智生の目を盗んでやってきたのだ。そのようなことが二度と起こらぬ、という確信はない。
あの屋敷にいるのは、夕立の敵ばかりなのだ。
(そんなの嫌)
夕立は震撼する己の体を羽交い絞めにし、優しくさする。
忌まわしいことを想起しているその時でさえ、吉法の顔が浮かんできた。彼の隣は、居心地が良かった。吉法は、正しさを名目に夕立を傷つけない。夕立に、正しさを強要しもしない。
今まで出会った人間の誰よりも、彼が愛しい。
親も兄弟も、恋も知らぬ夕立にとって、吉法は父のようでも、友のようでも、異性のようでもあった。
このような、夕立の心中を聞けば、かつて夕立の夢枕に立った神仏は、激昂するであろう。仏の敵である男に心を奪われた女の話など、神仏も、僧も、尼も、みなが批判するに違いない。
夕立は、儚げに瞼の力を緩める。半分開いた双眸から、大粒の水玉がこぼれた。
もはや自分は、仏の教えに従う者ではない。僧衣を脱いだその時から、夕立には、あの屋敷に戻る気など、さらさらなかった。
たとえ後戻りができなかろうと、構わない。
これから先の長い時を、共に往きたいと願った相手が、これから死にゆく男でも。
御影の腕に刃を立てたその瞬間から、分かっていたことである。夕立にはもう、吉法以外の者のことなど考えられぬ。
夕立は幽鬼のごとくにゆらりと立ち上がると、いまいちど足を踏み出した。
重い打刀を引きずりながら、成る丈、足早になって進む。
遠方に、木に寄り掛かる長身の人影が見える。
天賦の才を失った。帰る場所もない。吉法の命は、いまなお彼の苦しみと共に削れている。
夕立の選択はもう、二つと残されていなかった。
「吉法さま」
夕立は、その名を呼ぶ。
曇天から落ちた雨雫が、ぽつり―――と、地に染みた。
*
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