悪人(前)
*
銀の一閃が走り抜けた刹那、信長の右手にかかっていた圧力が、ふと弱くなった。
御影の腕の力が弱ったのであろう―――と、信長が考えた、その矢先。
「えっ?」
御影の微笑みが、青ざめる。
持ち上がった御影の腕は、二の腕の関節から先―――上腕と手が消えている。代わりに、関節の切り口から溢れ、信長の胴に滴り落ちた。
程なくして―――ぼきり、と、御影の左腕が歪な方向に湾曲する。
「がああっ‼」
いかに苦痛に耐え忍ぶ修行を積んだ隠密も、とうとう絶叫した。
右腕を切り落とされ、左腕の骨を折られた御影は、蹌踉な足取りで後退すると、信長と二歩の間隔を取ってうずくまった。
荒い吐息を吐く御影の口からは、唾液が糸を引いて地に落ちる。腕を地に着くこともできず、御影は額を地面にこすりつけ、必死に歯を食いしばっている。少しでも痛みを和らげようと、深い呼吸を何度も繰り返していた。
すさまじい光景である。
傷口が脈打ち、痛む右手を押さえながら、信長はよろよろと立ち上がった。
「お夕」
信長が名を呼んだその時には、夕立は信長の隣に佇んでいる。
夕立の手に握られた刀からは、鮮血が滴っていた。
―――刹那にして御影の右腕を奪い、間髪とあけず、刃の背で残った左腕をへし折ったのだろう。
美貌をゆがめ、唾を飲み込むことすらままならぬ御影を、夕立は、苦しげに目を細めながら見つめている。
「……っ、お夕さん……なぜ……」
苦悶の色を美貌に浮かべながら、御影は首をもたげて夕立を見た。
「―――ごめんなさい」
夕立は唇をへの字に曲げ、押し殺したような声で謝る。
「でも、やっぱり吉法さまを殺されたくなかったのです」
「何を、言っているんだい……」
御影は吐き捨てんばかりの失笑を漏らす。
「僕をっ……呼んだ、のは……君自身、だろ……?」
御影の言うことは、正論である。
御影を呼び寄せたのは、他ならぬ夕立自身である。信長を殺せと命じたも同然の夕立が、信長を殺させぬために御影の腕を奪うというのは、あまりに矛盾している。
夕立は、御影の問いに答えることはない。
「―――勝手なことをして、ごめんなさい。恨むならどうか、私を恨んでください」
夕立自身にも、勝手な振る舞いが過ぎる自覚があったらしい。深く首を垂れると、悶える御影に謝罪した。
「―――その男の、どこが、そんなに良いんだ……」
夕立が意を翻した―――。
それが分かると、御影の口調はたちまち尖る。針を放つように鋭く、夕立の選択を批判した。
「吉法さまには、お世話になっています。そしてこれからも、吉法さまは私の好きな吉法様のままでしょう」
「……」
「それは、彼が第六天魔王であったとして、変わらぬことだったのです」
「は、はっ」
御影は激痛に眉を歪めながら、狂ったように笑い飛ばす。
「君の好きなっ……その男が……?」
笑声を漏らす御影は、夕立を睨みこそしないものの、代わりに信長を強く睥睨した。
「彼にはもう、返る場所も、ないのに?」
「なくたって、この人がどうかすることはないと思います」
「親と、子ほども……年が離れているのに……?」
「それでも、かまいません」
「彼にはっ……君ではない、別の女が、いるのに……?」
そんな奴が良いのか。
御影の問いかけは、遠回しに、そう訴えかけている。
正室、側室のことを言っているのだろう。もっとも、信長の正室との不仲ぶりは、家臣の誰もが知っている。御影もおそらく、知らぬわけではなかろう。その後に幾人かの女を側室に娶ったが、誰ともうまくいかず、最後には愛せなくなったことも、織田家にかかわった者なら知りえていることだ。
知っていてなお、夕立を信長から引き離したいばかりに、焚き付けるようなことを言うのであろう。
必死の形相でそれを言う御影は、相当追い詰められているに違いない。
「―――」
夕立は瞬間、苦虫を噛み潰したような面差しになった。
信長以外の知人などほとんどいない夕立にしてみれば、自分の知らぬ場所にいる、信長と親しいものの存在など、聞いていて良い気にはならぬのだろう。
しかし、夕立は信長を背に庇わんばかりに、御影と信長の間に立つ。
「騙されて利用されていたって、私が吉法さまに、良くしてくれて、救ってくれたことは変わりません。―――だから私も、受けた恩を吉法様に返したいのです」
夕立の背中が、そう言い募った。
直後、森の中を吹き抜ける冷風が、夕立の髪を撫で上げる。揺れた髪の僅かな間隙から、夕立の白い耳が紅潮しているのが垣間見えた。
信長は暫時、言葉を失う。夕立は、泣いているのか。それとも、冷風が顔を冷やすのか。しかし、夕立くらいの年の娘が、顔に血を上らせるのはどういう時か、信長も理解できぬでもない。
しかし御影の思い込んできたとおり、夕立の好意がただの恩情でないものであったなら、それはあまりに不条理な話である。
年がどうだの、女関係だの、そのようなこと以上に、夕立にとって信長は世の敵であり、親の仇なのだ。
「お夕さん―――どうして、そんな顔をするのさ……」
唯一、夕立の顔を正面から見ている御影の顔から、血の気が引いた。絶望の色が顔じゅうに染み渡り、今にも涙を流さんばかりの、悲痛な形相である。
夕立は無言のまま、うずくまる御影の、すぐ左脇へと歩み寄った。御影の血を啜った刀を、夕立はそのまま、高々と振り翳す。
「いま彼を助けたって、今頃―――」
「いまさらそんなことで、諦めきれますか」
夕立は、皆まで言わせない。
言うや、夕立は刃の腹を天に向け、刀身の背で御影のうなじを打った。
「ぐっ」
身動きもとれぬ御影は、そのままうなじへの殴打を受け、がくりと首を垂れ、崩れ落ちる。
夕立は、気を失ったであろう御影をしげしげと見下ろすと、打刀を鞘に納め、そばに落ちていた信長の脇差を手に取った。
拾った脇差で自らの着物の袖を裂くと、夕立は血が溢れ続ける御影の右腕を持ち、その切り口に布を巻いてやる。
「ごめんなさい。あなたを呼んだ、私が間違っていました」
夕立は布でその切り口を塞いでやると、音もなく立ち上がる。
沈黙が、その場を凍り付かせる。草の擦れる音すらしない静寂であった。
「―――ここを離れましょう。この人がいつまで寝ているのかは、分からないから」
夕立はうつむいたまま沈黙を破ると、手にした脇差を放り投げた。
そのまま足早に御影から離れた夕立を追い、信長も一歩を踏み出した。
満身創痍のその体は、まるで鉛のように重い。
御影から離れてから、どれほど歩いたか。
息を切らさずに前を歩く夕立に対して、信長は足一歩動かすごとに、目が回った。
傷口の痛みに、妙な気だるさが、信長の体力を奪う。
「吉法様」
信長の進みの悪さに、気が付いたのであろう。
夕立が振り返り、ゆっくりと戻ってきた。
簾のように切り揃えられた黒髪の奥では、夕立が端女の如く、弱弱しい表情を浮かべている。
御影は紛れもない、夕立本人が呼んだのだ。その夕立が心変わりをし、わざわざ代わりに戦った御影を傷つけるということは、誰が見たって身勝手である。
夕立も、それが勝手なことだとは、きっと分かっているだろう。罪悪感を覚えるのも、無理はない。
「……そのような顔をするのに、なぜ俺を助けた」
信長は静々と、問うた。
一度はその命を諦めたがゆえに、今助かっていることが不思議でならぬ。
夕立は顔を上げて、長身の信長を見上げる。生気のない眼に、木々の間から差し込んだ光が映った。
「―――吉法様を、独りで死なせたくはないと思ったのです」
「俺が憎くはないのか?」
信長はあえて、そこを突いた。
すべてが露呈した今、夕立に嘘をついても、後の祭りである。今更、隠す身の上など一つもなかった。
「……」
夕立は口をつぐんだまま、歩いて信長のすぐ前に戻ってくる。
「……吉法様は、悪い方だと思います」
夕立は言った。
「でも、私は嫌いではないのです」
そう、まっすぐに信長と対峙する夕立の貌は、なんとも鮮やかであった。
あの味気ない、作り物のような印象など忘れてしまうほどに、夕立の貌には色がついている。目は潤み、頬を火照らせ、前髪が額を覆っていてもなお分かる、不安を孕んだ下がり眉。そこらの花盛りの娘とさして変わらぬその表情が、信長の目にはどうも鮮烈に映るのだった。
「私は悪い人は嫌いなのに、どうしてなのでしょう。私は、私を励ましてくれた悪い人のことが、今も嫌いになれないのです」
夕立の大きな眼は水気を含み、月夜の水面のように光を揺らしている。白絹のような頬は紅く染まり、さも、お前だけを愛していると言わんばかりの、初々しい面構えである。
―――よもやこの娘は、もはや身近な大人への信頼すら超えて、その一線先に心を置いているというのか。
信長は夕立を前に、言葉も出ない。
このまま、夕立が自分を嫌ってくれれば、信長は心置きなく独りで出奔することができた。嫌われていないとしても、ここまで思われていなければ、信長は吹っ切れて、夕立を棄てることができたというのに。
(なぜ、こんなことに)
信長は、己を恥じた。
夕立を騙し、少し手懐けて、用心棒の代わりにできれば、それで良かったのに。
いつしか夕立が傷つくのが怖くなり、ただの生きた盾に、同情することが多くなった。この娘を、どうにか生きて返せぬか―――安土が近くなるほどに、そのようなことを考えていた。
しかし、それは信長が一人、我慢すれば済むことだったのだ。
それなのに、なぜ、こうなる。
信長は夕立に、怒りさえ湧きそうになっていた。
安土城が落ち、秀吉が天下を取ったも同然の今、信長に残ったものは何もない。それなのに、夕立が自分の許に舞い戻ってきた今になって、死ぬのが惜しい。
世の中、そううまくはいかないものらしい。
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