夕立




 *

 御影が吉法に襲い掛かるのを、夕立はただ見ていた。

 夕立から見て、誰よりも強く賢いように見えた吉法が、まるで猫に狩られる鼠のようだった。御影を相手に一矢報いることもできず、ろくに刀を打ち合うこともない。

 一方的に御影に斬られ、吉法の傷は増えていく。

 あんな人、少しくらい痛い目に合えばいい―――そう考えていた夕立でも、吉法の着物が赤黒くなってゆく様は目を覆いたくなった。

 私の髪を整えた手が、私を見ていた目が、私を抱きしめた腕が、見る見るうちに傷ついていく―――。

 御影が吉法を押し倒したその瞬間、思わず、二人を追いかけてやってきた夕立は、

「やめて」

 と、叫びそうになった。

 叫びかけて、息が詰まる。

 ―――でも、あの人を呼んだのは私だ。

 その後ろめたさが、夕立の喉を塞ぐ。

 夕立をとどまらせる影は、一つだけではない。

 いくつも地面から湧き上がるかの如く、不安の影が顔を出した。

 ―――どうして、助けたいと思うのか。

 ―――あの人が叡山を焼いたから、私の両親も、罪のない人たちも、沢山死んだというのに。

 ―――そのうえ私まで騙したあの人だけ、生きているなんて良くない。

 湧いて出た不安が夕立に寄り添い、そう囁く。

 眼前で戦う双方の足音も、刃を打ち付けあう音も、人間同士の乱闘から非難する小鼠の気配も、感じられない。

 寺社に火を放たせ、むやみに人命を蹂躙して回り、不幸にしたという男が、目の前で殺されようとしている。しかも信長を―――吉法を襲っている御影は、夕立に代わって手を汚している。

 いっそ、御影に己を委ねてしまえばいいか―――とも、思わなかったでもない。

 御影は不思議なほどに、自分に執着している。夕立の命令なら、なんでも聞くであろう。現に彼は、夕立の代わりとなって信長を討とうとしてくれている。

 自分の敵であり、仇でもある男を、庇う道理はない。

 彼には凄惨な死にざまというのが良く似合う。

 夕立は正義とも、単なる私怨ともつかぬ葛藤の中で、己を説得する。

 私が信長を殺すのは、あくまで世のため人のため。

 そう心から考えて、旅に出たのではないか。

 腹の底でそう己に暗示をかけても、やはり、蘇ってくるのは、吉法と出会ってからの記憶ばかりであった。

(どうして)

 夕立の胸の奥にこみあげるのは、温い湯を注いだような、心地よい感覚である。彼のことを思い出しても、悲しい記憶など一片も浮かんでこない。

 たった今、御影に押し倒され、絶体絶命の吉法を見て、夕立の頬を涙が伝った。

「君を騙し、利用していた男だ。―――見ていておくれ、僕が今から殺してあげよう」

 嬉しそうに、そう報告する御影の声が、逆に、夕立には不快にすら感じられた。

 信長が死んで、悲しむ人間など誰もいない。悪逆非道な暴君の死は、むしろ、この世を救うに違いない。

 そう信じていた夕立の足元が、音を立てて崩れ去るようだった。

 信長だから、なんなのだ。

 彼は、智生ですら許さなかった夕立の罪を許した。夕立の悲しみに共感し、共に地獄へ行くと、心に決めてくれた。彼が夕立に与えた幸は、数えだせばきりがない。

 ―――そんなひとを、どこの馬の骨ともしれない男なんかに、殺されていいのか。

 夕立の中で、正義感と葛藤していた私怨が、やがて姿を変える。

 その時、組み敷かれ、絶望的な状況の吉法と、目が合った。

「―――」

 夕立は、身構える。

 夕立が御影を呼んだのだ。吉法がどんなにひどい罵詈雑言を吐いたって、言い訳はできない。

 が、

「殺したければ殺せ、お夕よ」

 吉法の口から出た言葉は、それであった。

 なんと穏やかで、澄んだ声か。死を前にした者とは感じられぬほど、吉法の声は落ち着いている。

 そのあまりに優しい声色に、夕立は開いた口を、閉じることができなくなった。

「え……」

 ただ、呆然と立ち尽くす。

 持てるすべての力を、御影の凶刃を食い止める手に込めているはずであろうに、吉法の貌は頬が緩み、微笑みかけるように安らかである。

(なんで)

 どうして怒らないの?

 夕立は目を剥き、驚愕の表情で、吉法に訴えかける。

 ―――私は、嘘一つつかれただけで、貴方をここまで追い詰めたのに。

 困惑する夕立に対しても、吉法の優しい表情の均衡は、わずかたりとも乱れない。

「お前の手で葬り、お前が満足できるのならば―――俺は裏切られ殺されたとしても、嬉しい」

 吉法は、そう言った。

 それが、夕立の心の臓を大きく揺さぶる。

 あれほど謎の追っ手から決死の思いで逃げ続け、一人も生きては返させぬ気概だった男が、なぜ、夕立の裏切りを許すのか。夕立が良いのなら、自分は殺されてもかまわないというのか。

 考察が頭の中をめぐるほど、夕立の心臓は熱を持った。

 民衆を恐怖で縛ったという悪の頭領が。裏切り者を完膚なきまでに滅ぼしつくしたこの男が。私のことを思い、私の裏切りを許している―――。

 吉法の眼は、まっすぐに夕立の瞳を見つめていた。

 綺麗で、真摯な眼。まるで見入ってしまいそうなほどに。

 老いて色褪せたはずの鋭い美貌が、より一層鮮やかで、美しく、夕立の眼には映るのだった。

(私はなんて、馬鹿なことを―――)

 刹那、夕立の頬を涙が伝う。

 一つの嘘で燃え上がった焔が、みるみるうちに萎んでゆく。

 どんなに残虐な男でも、どれだけの人を殺しても、この人はいつだって、私を受け入れてくれたではないか。

 吉法は今までただの一度も、夕立を置き去りにしたことはない。いつだって、そばで励まし、守ろうとしてくれていたのは、まぎれもない吉法その人なのだ。

 私を騙すなど許せない―――その憎しみが、夕立の愛に飲まれて掻き消えた。

 確かに信長は、悪である。しかし、世のこと、人のことを二の次にし、自分の利益のみを考えたその時、誰よりも夕立の味方になっていたのは、他ならぬ吉法ただひとりだった。

 こう思い始めると、もう、吉法を信長とみることができなくなる。

 魔王であろうと暴君であろうと、夕立の知ったことではない。

 吉法は―――私に最も優しくしてくれる人は、殺させてはならない。

「ごめんなさい」

 夕立は涙をぬぐいもせず、ゆらりと抜刀する。

「私やっぱり、吉法様が好きです」

 夕立は誰にともなく、呟く。胸にこみあげた膨大な愛と、僅かな罪悪感を抱えたまま、一歩を踏み出して風を切った。




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