曇天(後)
暗殺を生業とする隠密が、ただの小針を武器に使うはずもない。この小針に毒が塗ってあっても、何ら不思議ではない。
それでも、御影は止まらない。視界の半分を奪った次には、御影は短刀を両手に取り、大きく振りかざしている。
信長は脇差を抜き放つや、一歩退き、御影の左手が手にした短刀めがけて下段から刀身を走らせる。至近距離から襲い来る御影の短刀は、信長の刃圏に入っている。御影も、それに受けて立った。
下段から振り上げられた刃を短刀で受け止めながら、御影の右手に握られた刃は真っ逆さまに、信長の肩口めがけて突き立てられる。
凶刃は肩の骨に直撃することはなく、嬲るように、肩口の皮と肉を引き裂いた。そのまま切っ先は垂直に落ち、信長の右足に突き刺さる。
「―――っ!」
休む間もなく与えられる痛みに、悲鳴が出かけた。信長は喉から溢れ出んばかりの悲鳴を噛み殺す。
御影は信長の脇差と交わった短刀を棄てると、そのまま信長の武骨な手首を掴み、地面に押し倒す。矢継ぎ早に、右足に突き刺した短刀を抜き、血を纏った刃を再び振り上げる。
その刃を、信長は真っ向から掌で受けた。
掌を貫いた刃の痛みに怯むよりも、素早く、御影の華奢な女の如き手を全力でつかむ。
雪のように白い肌に、武骨な男の指が食い込む。指先の爪が白い肌を裂き、紅い筋が流れた。
決死の抵抗には、御影の勝気な表情も曇る。
「―――……さっきの仕返し」
そう微笑んでいる御影だが、その頬には冷や汗が伝っている。
笑顔の奥で、その美貌は歯を軋ませていた。
「……いい加減、諦めたらいいじゃないか。いま降伏すれば、楽に殺してあげる」
御影は冷や汗を伝わせながらも、勝者のような面構えで言った。
「忍び如きが、なにを馬鹿な」
「本当さ。痛みを感じるよりも早く、その首を取ることができる」
吐き捨てる信長に、御影は優しい声で言った。
「これ以上抵抗しても、余計に痛い。僕なら今からでも、その痛みから解き放ってあげられるよ」
「俺に、楽に殺せと言わせるつもりか」
「今死んでおけば、もう苦しくはない。生き残ったところで、あんたは安土には帰れない」
「―――それは、貴様ら隠密が、俺を生きて返さぬ、ということではないか」
「まさか」
御影はせせら笑った。
「あんたの跡継ぎは信忠の息子、三法師になった。もはやあんたが出たところで、織田家は復活しない」
「まるで、織田が凋落したような物言いだな」
「しているのさ」
歯を食いしばり、苦痛に耐えながらも問答する信長に、御影は言い放つ。
「幼い三法師には後見人が付き、それを後押しした羽柴が、事実上実権を握った。―――いまや天下は、羽柴のものと言っても、過言じゃあないさ」
「猿が……?」
「安土に帰ったところで、安土城は、信雄の馬鹿が燃やしてしまったよ。もう、あんたの帰る場所なんてないんだ」
「忍びめが、そのような嘘を……」
無論、詐欺謀略を好む忍びの言うことなど、信長は信用しない。
しかし、残った眼を凝らしてみれば、御影の顔は真摯なものに変わっている。嘘を吹き込む、というよりも、まるで相手を説得しようとしているふうな、面差しであった。
では、猿が事実上天下を取ったという話も、真ではないか?
そんな疑念がよぎった。
仮に織田家が滅んだとすれば、最も得をするのは、秀吉である。信忠の息子と言えば、信長の知る限りでも、幼い。そんな子供を跡継ぎにするのであれば、幼い三法師に変わって実権を握る人物がいる。織田家に残った息子たちの中から、操れそうな人物を選んでけしかけ、後見人に仕立てる。そして用が済んだらさっさと捨てる。考えてみれば、狡猾な猿のやりそうな手口であった。
(まさか)
信長はその時、頭に思考を巡らせるあまり、手の力を緩めそうになる。
天下が秀吉のものになったというのなら、いまさら過去の天下人を探し出して殺す必要はない。狙うべきは秀吉の首のほうであろう。それをせず、死んだことになった信長をわざわざ探し出し、首を取ろうなどと考えるのは、信長が生還することで最も損をする人物に他ならない。
だとすれば、この隠密を送り込んだのは、
「貴様は、猿の手の者か」
秀吉に、他ならない。
信長は固唾を飲み、問う。
「―――僕の主が誰であろうと、あんたは死ぬよ」
御影は答えない。しかし逆から考えれば、痛いところを突かれたから誤魔化すのだろう。
しかし、誤魔化したものの、御影の表情に焦りは見られない。
忍びは主の名を明かさぬもの―――だが、どのみち死にゆく者にばれたところで、御影にとっては痛くもかゆくもないのであろう。御影の反応の薄さが、それを認めている。
「……」
認めたくなかった最悪の事態が、突きつけられる。
信長は前もって信忠に家督を譲り、跡目争いが起こらぬよう準備は済ませておいた。戦こそしていたが、信長は隠居の身という形をとっている。しかし、信忠が死んだことが分かったその時、真っ先に頭に浮かぶのは、誰が織田を継ぐか、というところだった。
破天荒な信雄に、気の弱い信包。御影の口から出た二人の存在も、脳裏に過らなかったことはない。あの二人が織田家家臣の手の上で踊らされ、家臣の誰かに実権を握られるということも、最悪の場合として想定はしていた。
(もはや、安土に帰る理由もない)
あくまで想定であり真実ではないからと、自分の立てた仮説を一蹴し、意地を張ったように旅をしていた。
しかし、最悪の事態を認めざるを得なくなった今、信長が安土に帰る理由もない。
(この男が来る前から、分かっていたことではないか)
信長は愚かな己を責める。
自分が意地だけで、動くような人間だとは思わない。
安土を目指す必要がなくなった今でも、御影の凶刃を拒んでいるのは、秀吉への嫌悪からくるものだった。このまま秀吉に、俺の首をくれてやるものか―――と。信長の中には少なからず、あの猿に一泡吹かせてやる気があった。
死んだことになっている信長の生存を信じ、隠密まで差し向けたほどだ。猿は心底、少しでも生きている可能性がある信長が、恐ろしいに違いない。秀吉はきっと、信長の首を見るまで、安心して生きることはできぬであろう。
であれば、仮に死ぬとしても、首は寄越さぬ。
秀吉に生涯つきまとう不安を残して、死んでゆくのだ。
信長はそのつもりであった。
しかし、顔を青くする秀吉の顔は、すぐに瞼の裏から姿を消した。
瞬く間に浮かんできたのは、あの薄情な娘の面である。
信長自身が驚くほど、鮮明に、夕立の顔が思い浮かんだ。
善人ぶって、無礼者で、自分勝手なくせにそれを認めない小娘―――それなのに、これまで夕立が見せた顔が、記憶の中から堰を切ったように溢れ出す。息子の顔もよく覚えていないのに、死を間際にして、あの小娘のことばかりが、心の内に呼び起こされてくる。
夕立が初めて、自分の正体を疑ったときは、背筋が泡立つほどに恐ろしかった。夕立が初めて自分に笑った時、自分は何も得ていないのに、妙に心が晴れやかになったのも覚えている。傷ついた夕立を御影が抱きかかえているのを見たときは、自分のことなど顧みず飛び出してしまった覚えもあった。夕立を悲しませて泣かせた半端者の坊主は、今だって腹の底から憎い。
安土へ戻ることを諦めようと考えた折には、吉法という存在を失い、孤独になった夕立のことを考えた。
―――浅ましい男だ。
信長は体中にしみる痛み、御影の殺気も忘れて、息をついた。
結局、安土を目指す信長の心にあるのは、織田家のことでも、天下布武でも、民の平和でもない。夕立を孤独にするのが、怖かっただけなのだ。安土に戻ればどのみち、夕立とともにいる理由もなくなるというのに、その事実へは目を向けなかった。
夕立は所詮、信長が天下に返り咲くための踏台でしかなかったというのに。
たった一人の小娘に、信長は、安土へ向かう意義すらも変えられてしまったのである。
―――とはいえ、その夕立には、もう、自分が信長であることがばれた。
もう夕立の心の中に、自分はいない。いっそ、夕立欲しさに信長を殺そうとしている、この隠密に託してしまえば、夕立も幸せではないか。
信長の胸中には、そのような思いもある。
しかし、いつ死ぬかもわからぬ身の上の忍びに、託してよいものか。そんな懸念も、強かった。
この期に及んでも、信長は、自分を裏切った夕立の心配をしている。これまで、裏切り者は断じて許さなかったが、なぜだか夕立のことだけは、裏切られてなお、可愛いのであった。
「お夕さん―――」
その時、御影の手の力が、僅かに緩む。
横を向いた御影の視線を追ってみれば、その先には、先ほどと変わらぬ複雑な表情をした、夕立がいる。
「お夕……」
力なく、信長は呟いた。
延暦寺を焼いた、怨敵の死にざまを眺めに来たか。
それとも、御影が抑え込んでいる間に、自分の手で殺すつもりか。
夕立にしてみれば、信長は親を殺し、罪のない女子どもでも手に欠ける最悪の暴君である。生かしておく道理はなにひとつない。それどころか、怨敵を倒す絶好の機会である。
「君を騙し、利用していた男だ。―――見ていておくれ、僕が今から殺してあげよう」
御影は火に油を注ぐようなことを言う。
すると、夕立は腰帯に差した打刀を、そうっと抜いた。
刀を携えた夕立が、音もなく歩み寄ってくる。
信長は息をのんだ。
夕立と御影が相手では、分が悪いにもほどがある。
これでは首を取られぬよう逃げ延び、人知れず自害することすらできない。
―――だがその実、
(お夕に殺されるなら)
そう、納得している自分も、信長の中にはいる。
「殺したければ殺せ、お夕よ」
信長はあきらめて、力なくそう語り掛けた。
「お前の手で葬り、お前が満足できるのならば―――俺は裏切られ殺されたとしても、嬉しい」
信長を殺すことで、夕立がこの先晴れやかに生きていけるのなら、信長は、自分の凄惨な死も受け入れられる覚悟であった。
が、
「吉法、さま……」
夕立の眼から、涙が一筋流れた。
何を思って泣いているのか、信長には理解ができぬ。
しかし夕立はとうとう、腹を括ったらしい。涙を拭いもせず、夕立は開眼した。
携えた打刀を光らせ、少女は大きく一歩を踏み出す。
「ごめんなさい」
鈴のような声を聴きながら、信長は目を閉じる。
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