曇天(前)
*
「明るい場所に来ましたね」
夕立が唐突に、そう口走った。
火蓋を切って落としたかのように饒舌だった夕立が、その瞬間だけ、妙に落ち着いた語調になったのは、聞いていた信長からしても、不気味なことこの上ない。
夕立は本格的に、吉法を信長と疑い始めている。無論、愚直な夕立を言葉巧みに騙すことは容易い。すぐさま、信長は嘘をついた。
それでも、いつものように、その目をまっすぐ見ることはできない。
後ろめたさに駆られて、つい、目を逸らしてしまった。
しかしこの刹那、逸らした視線を夕立の眼に戻すほど、夕立の声の変わりようは異常なものだったのである。
信長の背筋に悪寒が走った、その直後。
音もなく、夕立の前を黒い残像が駆け抜けた。
(なっ)
わずかな葉擦れの音だけを立てて、夕立と信長の間に立ったのは、いまや脳裏にこびりついて離れない男である。
羽衣の如き黒の羽織を靡かせた、天女も色あせる美貌の男。
嫌というほどに脳裏に刻まれたその顔を、信長は忘れない。
「ようやく僕を呼んでくれたね―――お夕さん」
あの『御影』なる隠密である。
「お夕……」
呼んだ、だと。
信長は、ほくそ笑む御影の肩を透かし、夕立を見る。
夕立はと言えば、目を見開き、口の端を下に歪め、複雑な貌をしている。御影の語調からして、御影を呼んだのは夕立のほかにいないが、当の夕立は、御影の登場に喜ぶこともなければ、信長を助けようともしない。
敵なのか、味方なのか、どっちだ―――。
夕立の様子をうかがう。
しかし、夕立の表情は、僅かにも変わらない。
「助けを乞っても無駄だ。すでに彼女は、あんたの味方じゃあない」
御影が悠々と、短刀を抜き放った。
黒曜石を嵌め込んだような眼は、爛々と艶めいている。厭な殺気であった。
かれこれ二度も、信長の暗殺に失敗しているのだ。今度こそ、御影は信長を逃さぬだろう。
どのような手を使って夕立を味方につけたかはさておき、今の信長には、逃げるという選択肢しか残ってはいない。
瞬間、御影の腕が、ほんのわずかにだけ揺れた。
動く。
信長がとっさに、腰帯に刺した刀を抜いた刹那、御影の姿が消える。
一拍置いたその時には、御影の体は、信長のすぐ目の前にあった。
(首を)
首を狙われている。
信長も老いているとはいえ、敵の動きを見切れぬことはない。
とっさに体を後方に退け、髪一筋分だけでも多く、御影の放つ刃との間を取る。
それでも、完全に避け斬ることはできず、御影の刃はまっすぐに、信長の腹を突いた。
「―――お前……」
うめいたのは、突いたほうの御影であった。
切り裂かれた信長の小袖の下には、胴丸甲冑が巻いてある。胴丸といっても、そこらの端武者がつけているような、粗末な腹巻とかわらない。それでも、腕の細い御影の凶刃をいちど防ぐには足りる。
しかし、想定外の武装を前にしても、今度の御影も怯まない。
空いたほうの手を着物の袂に引っ込めるや、その手で風を切る。
信長は御影の手が動いたのを見るなり、両腕を交えて顔と首を塞ぐ。
程なくして、信長の耳元を風が掠める。
風切りの音に続いて、左肩と右の前腕を抉る激痛が走る。
信長の血を浴びたそれは、勢い衰えることなく、背後の木の幹に刺さった。
御影の手から音もなく放たれたのは、手裏剣である。飛び道具をこのような至近距離で打たれては防ぎようがない。
信長はそのまま後ろに転がると、乾いた土砂を大きく一つ掴む。御影の背が曲がり、半歩踏み出したのを見計らい、信長は御影の美貌めがけて、横殴りに土砂を撒いた。
信長の眼に、忌々しげに顔を歪める御影の面が映る。
御影は自分の着ていた羽織を脱ぎ捨てるや、大きく靡かせ砂塵を払う。
砂を払いのける隙も逃さず、信長は駆け出す。道から外れ、木々の生い茂る獣道に入れば、圧倒的に信長のふりになる。もとより山岳での戦闘を得手とする忍びが相手では、いかに修羅という修羅をくぐってきた信長でも分が悪い。
人の通る道を逃げ続けるほかはないであろう。
しかし、
「ぐっ」
信長の脇腹に鈍痛が走る。
視界の端には、太い木枝を手にした御影がいた。そこらに転がっていた枝を拾い上げ、それでとっさに信長を打ったのであろう。
御影の細腕からは想像もできないほどの衝撃は、信長の長身を傾かせる。足先では支えられなくなった長身は道を外れ、そのまま獣道へ転がる。
「―――思い出したよ。あんたの小姓も、こんな風に殺したんだった」
御影の声は、冷たい。
雑草を踏みつけ、ゆらりと歩み寄る御影を前に、信長は直ちに立ち上がる。
(この男が、蘭丸を―――)
信長は唇を噛みしめた。
蘭丸が帰ってこなかったのは、この男に討たれたからであろう。御影の言葉にようやく、蘭丸の行方に納得がいった。
可成のこともあり、その後ろめたさから蘭丸を傍に置き重宝することで、罪滅ぼしをしていたつもりだった。しかし、蘭丸の死を痛感すると、胸にこみあげるのはやはり、罪悪感であった。
(親子そろって、俺の犠牲となるとは)
可成の貌が瞼の裏によみがえる。
延暦寺の坊主どもといい、この隠密といい、どいつもこいつも雁首をそろえて、古傷を抉って塩を塗る。
しかし、隠密が必要以上に自分を苦しめようとするその心の内は、信長には読み取れた。
『僕の愛する人と、親しいあんたが許せない』
先日に接触した折、御影はそう憎らしげに口にしていた。
夕立の知り合いであるというこの男は、夕立を愛している。
ゆえにこの男は、主の命だからというよりも、夕立を奪いたいがために、信長の命を狙っているのだろう。かつて吉乃欲しさに狂い、吉乃の愛する弥平次を、見殺しにしたように。
御影の目の奥でうねる粘着質な深き憎悪。最初に対峙した時にはおぞましく感じたものの、自分のことを思い返してみれば、御影の思いというものは理解できた。
が、敵の想いを尊重してやれるほど、信長は親切ではない。
腰帯に差していた打刀を抜き放つや、その切っ先を御影に向けて構える。
夕立が妙なことを口走った瞬間に、この男は現れた。
『ようやく僕を呼んでくれたね』
この男が言うからには、夕立の言葉が、御影を呼び寄せたのだろう。御影は夕立からの言葉がかかるまで、ずっと、信長にすぐ襲い掛かることができる場所に、潜んでいたに違いない。
「―――いつから、後をつけていた?」
にじり寄る御影と距離を保ち、後ずさりをしながらも、信長は訊く。
御影は答えない。
もはや、御影の心に余念などないのであろう。一糸乱れぬ矢針のごとき殺意が、黒い眼から放たれている。
御影の美しい顔は、紅潮し、短刀を握る手も赤くなっている。
突き刺さらんばかりの殺意を感じると、手裏剣に切り裂かれた傷口が疼く。
御影が動いた。
跳ねるように軽やかに駆けるや、瞬く間に信長の眼前に現れる。信長が刀を動かすよりも早く、一瞬で間合いに入られた。
刹那、信長はいとも容易く刀を手放し、空いた両腕で御影の手首を掴む。
想像以上に手首を圧迫する力に、御影が眉をひそめた。とっさに腕を引き抜こうとする御影の細い手首を強く締め上げるや、信長は御影の頭めがけて、額を勢いよく振り下ろした。
ごっ―――と、骨を打ち付ける鈍い音が走る。
「うぐ」
信長は自身の額にも伝わる衝撃に、歯を食いしばる。
額の骨と、額の骨が衝突し、頭突きを食らわせた信長本人でも、わずかに目が回った。しかし、それは御影も同じようである。御影がよろめいたのを見るや、すかさず長い脚を跳ね上げ、その細い腹を蹴り飛ばす。
殺しの技こそあれ、荒々しい武者のような筋力はないらしい。
御影は無抵抗に後方へ転がった。しかし、痛みになれでもしているのか、御影はうずくまることもなく、何事もなかったかのように立ち上がる。
「―――」
御影は己の額をさすると、信長の顔をうかがいながら、にやり―――と、妖しく嗤った。
―――所詮、この程度か―――。
御影の厭な微笑みは、あたかも、信長の本気の程を確かめたかのようである。
信長本人がどれほど本気で戦ったところで、単独で戦い抜いてきた歴戦の忍びと、端武者が少し上達した程度の腕前の信長とでは、力というものが違いすぎる。信長は大軍を動かし、戦に勝機をもたらす奇策を練ることはできても、独りで手練れの忍びを相手にするには、練度も経験も足りない。
御影は首を一回りさせ、骨を鳴らすと、微笑みを消して真顔になる。
瞬間、御影の姿が消えた。
御影の残像が見えた先では木の葉がわずかに揺れ、地に、木の上に、怪しい葉擦れの音がする。
「む」
信長の頭上で、葉が擦れた。
見上げた先から、影が降ってくる。
打刀を拾い上げようとする信長よりも早く、地に降り立った御影の足が、打刀の刃を踏みつけた。
御影の凶刃は速い。小指側に刃を向けていた短刀を素早く親指側に持ち替え、横殴りに刃を走らせる。
弧を描いた一線を、信長の右腕が食い止める。籠手に守られた上腕で御影の刃を止めたまま、打刀とともに常備していた脇差に手をかける。
その刹那、御影の花唇が尖った。唇の孔から銀光が覗いた瞬間、御影が短く、息を吹く。
ひょッ―――と御影の息が鋭く漏れたと同時に、信長の右目が暗くなった。
「ぐあっ」
一拍遅れて襲い掛かった激痛に、信長は思わず声を上げた。
御影は小指の骨ほどの小さな筒を吐き出し、右目を押さえて交代する信長を冷笑する。
右目に刺さったのは、吹き矢であろう。
信長は痛みに悶えるよりも早く、光を失った右目から、短小な小針を引き抜く。
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